蛙の血
父親が異なる姉には、長男と長女がいた。
大学が休みになると、経営者として旅館を営んでいた母のもとへ帰省した。自宅と旅館は一繋ぎになっていた。姉は二人の子どもを連れて、頻繁に里帰りをしていた。
母屋の敷地内の離れに、勉強部屋があった。自分に懐いていた、長男のハルが度々部屋に訪れていた。確かまだ小学生だった。隠れ家みたいだからおいでと、怖がりだった妹のアオをハルが試しに誘ってみたら、離れの入り口におずおずと近付いた。小さな足を踏み入れた途端に、大声で泣いた。アオは泣き終わると部屋に入り、秘密基地ができたと今度は大はしゃぎした。
中学三年までは寺で育った。養子縁組をした父母の元で、なに不自由なく暮らした。二人には自分より五つ年上の息子がいた。寺の跡取りだった。
十五歳の暮れに、実母から手紙がきた。大学に進学させてやるから、戻ってこいというのだ。心が震えた。怒りではなく好機に対してだった。寺の息子である限り、志望する大学への進学は望めなかった。地元でいちばん偏差値の高いと名の知れた、公立高校の受験を控えていた。高校入学と同時に生家に戻るという条件付きで、志望する大学にいかせてやると実母はいった。実の父親はどこかでのたれ死んだと、やたらと聞かされた。
約束どおり、母のもとへ戻った。姉は県外の高校で寮生活を送り、生活で相まみえることはなかった。兼ねてから志望校だった、私大の早稲田大学の受験を目指しひたすら勉学に勤しんだ。寺で十五年間ものあいだ自分を愛し、育ててくれた父母のことが脳裡を過った。
旅館から繋がる自宅の最奥に、母の部屋があった。真紅の絨毯からは大きな庭が見えた。池泉回遊式庭園のようだった。灯篭の横の舟形の手水鉢に、鹿威の竹筒がちょろちょろと水を与えていた。約石と苔を敷き詰めたひなびた池のふちには、大きなガマ蛙がいた。どこからか、蛙が奇妙な声をあげていた。
アオが庭に向かって四つん這いになり、池の方を凝視していたので声をかけた。
「どうしたの?」
「あ、叔父さん、あいつが睨んでくるんだよ」
「あいつって……ガマ蛙?」
「うん、あいつさえいなかったら──」
思わず苦笑った。
「あいつさえいなかったら、幸せなのに。お兄ちゃんのおたまじゃくしも、あいつがきっと食べたんだよ」
「そうなの、そんなに嫌いなの」
「大嫌い、でも怖いんだ。怖いから我慢してるんだ」
「いつから?」
「うーん、年中のふじ組の頃から」
「そんなに前から? いくつになったんだっけ?」
「九歳だよ、知らないの」
「ごめん。そうか、四月生まれだよね? もう三年生か」
「そうだよ、叔父さんは?」
「俺は大学生だよ」
「叔父さん、さいきんずっとおばあちゃんの家にいるんだね、前は一年に二回くらいだったんでしょう?」
「うん。さいきんはね、よく帰ってる」
「東京から? お母さんが言ってた」
返事をしようとしたとき、アオが怯えた声を放った。
「あ、また睨んでる、怖いっ」
アオの横に胡座をかいて座った。古くなった絨毯から歳月を感じた。
「アオちゃん、怖いならやっつけてやったらいいのに」
「無理だよ、怖いんだよ」
「どうして」
「睨むからだよ、動けなくなるんだよ」
「蛇に睨まれて動けなくなる蛙って、知ってる?」
「なに……それ」
「俺が、蛇になって睨んでみようか? 怖いんだろう?」
「えっ、叔父さんって蛇なの?」
「いまだけだよ」
縁側から降りて、大きな池に近づいた。
「危ないよ、叔父さんっ」
後ろからアオの声が聞こえる。池のふちに近づいた。五年もアオを支配した、大きなガマ蛙を鷲づかみにした。そのまま飛び石の上に落とした。鈍い音の中で、陶磁器の蛙が砕け散った。振り返って見ると、くれ縁の柱にもたれ掛かったアオが目を見開き泣いている。
「叔父さん……」
長く伸びた髪を耳にかけた。庭に咲く紫陽花から水が滴った。見上げた空は低く淀んでいた。六月の匂いに包まれた。池の水面にアメンボが六本足を広げ、その上に降り注いだ雨がいく重にも輪を描いた。屈んで足元に散乱した、密度の低い陶磁器のかけらを強く摘んだ。不意に雨が止んだ。上を見上げるとピンク色の花の模様が見えた。
「ねえ」
アオが隣に来て屈み込んだ。持っていた傘を受け取ると彼女のうえに差した。
「叔父さん、ありがとう……」
「うん、これで大丈夫。ほら血が出てる、俺の指を見て。もう死んだんだよ、今からアオちゃんは自由だ──」
「叔父さんは? いま自由?」
ふと視線を投げた。九つになったアオの丸くて黒い眼が、応えを求めていた。
「俺は……うん、自由なんだと思う。たぶん」
言い淀むと、雨が指の傷に染み込んだ。
「──つぎは、アオが……叔父さんを助けてあげる、今日のお礼だよ。叔父さん、怖いもの……ある?」
アオが陶磁器の破片を覗き込むように下を向くと、髪の毛の隙間から大きな耳が見えた。
「アオちゃん、知ってたの? 蛙が壊せること」
「……うん、でも怖いから、我慢してた……それにアオは怖かったけど、もしもやっつけちゃったら、おばあちゃんやお母さんに叱られるでしょう? アオが嫌でも、みんなは好きかもしれないから」
「周りが気になって、我慢してたのか」
「だって、いつもそうだよ」
「いつもなの? まだ怖いものがあるの?」
「──たくさん……クラス替えをしてから、嫌いな男子がまいにちアオに嫌なことを言ってきたり、体育で早く走ると意地悪してくる女子とか……でも笑ってる。本当のことを言ったらみんなに嫌われたり、怒られたりするでしょう? 悪いのはどうせ自分だし」
「みんなって……」
「おともだちや先生や、お母さん」
「お父さんは怒らないの?」
「お父さんは……あまり怒らない、忙しいから」
翳りを見せるあどけない頬に、広げた傘から雫が伝い落ちた。
「叔父さん、怖いものって壊すとみんな、血が出るの?」
「え……」
「人間は壊れないから、血は出ないのかなあ」
「──出るよ、アオちゃんだって、今までに転んだりしたときに出ただろう?」
「それは自分でしょう? アオが言ってるのは怖いもののことだよ」
「怖いものをぜんぶ壊したら駄目なんだ……だから、きょうで最後だよ」
「叔父さんの怖いものは? アオが蛙のお礼に壊してあげる。みんなには内緒で……アオと叔父さんだけの秘密にしておけば」
降りしきる雨が身体の左側を濡らしていった。傘を右に寄せた。
「たくさん降ってきたから、そろそろ入ろうか」
「指に血がついてる、洗わないと」
「うん、蛙を傷つけたからね。その罰に叔父さんも怪我をしたんだよ。だからアオちゃんは真似しないようにね」
「叔父さんは悪くないのに、どうして怪我をしたの? 見せて」
「アオちゃん、いいか? 怖いものぜんぶをアオちゃんが壊したら駄目だ、蛙はアオちゃんを噛んだりはしてないよね? 善いと悪いは直ぐに入れ替わっちゃうんだ。よいこのあゆみだってそうだろう? あ、ごめん。三年生からは通知表か」
下から見上げたアオの鼻先が赤くなった。
小さな背中を促して、軒下から部屋に上がった。アオが赤いランドセルから、小さな缶を取り出した。蓋を開け、絆創膏を手渡してきた。
「わかったよ。でもアオもお礼に叔父さんの怖いものを、ふたつだけ壊してあげる。いいでしょう?」
「どうして、ふたつなの?」
「お礼と挨拶は大事だって、いつもお母さんが言ってる。どっちも、必ず二どするようにって。だから叔父さんにするお礼はふたつだよ」
「そうか……もし壊したいものが見つかったらお願いしようかな。でもひとつだけでいいよ」
「お礼はふたつだよ?」
「そうだなあ、じゃあ壊したいものの反対ことばは?」
「うん、わかった。叔父さんの壊したいものと反対ことばが見つかったら、わたしが助けてあげるよ。必ず叶えてあげる」
そのことばに口元が綻んだ。庭の紫陽花と、池の水面が雨を弾いていた。
アオと旅館の庭の池を見たのは、それが最後だった。父親の仕事の関係で、街を離れることになったハルとアオは転校を余儀なくされた。
その二年後に俺は警察に連行されて、医療施設に収容された。通報したのは母だった。一一〇番通報で母が叫んだ。
助けて、殺される──。
制服の警察官二人に両脇から拘束されて、自宅からパトカーに乗り込んだ。また雨が降っていた。
不眠だった俺は、夜中になると二階の自分の寝室から度々階段を降りた。一階に部屋のあった母は狂ったように、階段の足音で寝られない、旅館の仕事に支障が出ると俺を捲し立てた。母の寝巻きの胸元が乱れていた。またあの男が家に来るようになっていた。
まいにちのように責め苛まれていたある日、つい大声で母に反論した。壁を殴った。はめていた指輪が肉に食い込んだ。喫驚した母が慄き、警察へ通報した。
俺はいっさい抗わなかった。病院で骨折した指から外した指輪は、真っ二つに崩れた。近所のユキザワ屋で俺が買ったおもちゃの指輪だった。別れ際にアオからもらったものだった。
医療施設で数年間を過ごした。帰った旅館はとうの昔に閉鎖し、土地と家の半分は他人の手に渡っていた。母は老人施設に身を置いていた。
廃墟となった旅館の半分が俺の住処となった。真紅の絨毯から見えた、あの日本庭園のような庭も大きな池も失われていた。
医療施設で、とある病名がついた。生涯、完治することはないと告知を受けた。自分が病気なのだという自覚は皆無だった。ただ、数年間に亘り大量の薬を服用したことによる耐性ができた。その耐性がその後の人生を変えた。
寺の両親から連絡があったが、巻き込みたくなかった。気狂いのような喋り方をしたら、二度と連絡はこなくなった。それで良かった。じぶんは頭がおかしいのだから、気狂いのようなという胸懐は誤りだと思った。
離れの部屋に入った。木枠のドアは腐っていた。引き伸ばして額に入れて飾った、大学の講堂の大隈重信像の写真と、証である角帽のオブジェにおそろしいほどの埃が被っていた。
玄関の横に紫陽花が自生していた。昔、母の部屋から見える庭に咲き乱れていたものと同様に美しかった。青紫の萼が花序の周りを縁取り、雨の雫を湛えていた。
掘り下げては思い出せなかった。療養中は、頭の中でいつも誰かに話しかけられていた。それが自分なのか他人なのかは、分からなかった。
この家を三ど後にした。いちど目は憶えていなかった。生まれて直ぐに寺に養子にだされた。にど目は大学進学だった。さんど目の赤色灯が見えた先では、生涯で五年間を共に暮らした相容れることのできなかった実母が、警察官に肩を抱えられていた。走り出したパトカーの後部座席から振り返った。母が真っ直ぐにこちらを見ていた。
雨の庭先で、粉々にした陶磁器の蛙を思い出した。長年、池のふちに居座っていたであろう、善悪の番人。
俺と血を分け合った、あの蛙を──。