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四葩 (よひら) の月  作者: 八興 心湖翔
二章 欠けた家と湖上の月
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自炊と一家団欒

 入居の際に、マンションの部屋を此処に決めた主だった理由なんてない。実家から逃れられるのなら、何処だって良かった。父と親族名義の物件に、空き部屋が何件か存在した。桐生(きりゅう)家を出るにあたり、いくつかの条件が付いた。駆け出しの自分の収入を考慮しても、不本意ながら甘んじるしかなかった。建物は立木に囲まれ、窓から眺めると湖が一望できた。


 扉を開くと、収納棚の上にキーリングを放り投げた。リビングに入り、テーブルにコンビニ弁当を置いた。スマートフォンのBluetoothからペアリングして、天井のスピーカーから曲を流す。基本的にテレビは点けない。文献に目を通し、頭に叩き込むことができなくなるからだ。宅配ボックスに届いていた書物を開封した。


 入居して六年経っても、殆ど自炊はしない。育った家には家政婦がいたが、なにを食っても美味いと思えなかった。十八歳までの間に、いったい何人が入れ替わったことか。父親が不在がちなのをいいことに、最後に割り当てられた女からは妖しい声までかかってきた。ご丁寧にお断りしたが、辟易し、タイミング良く父が再婚したので家を出た。二回生のときに妹ができた。継母の長男に挨拶したときと同様、微塵も興味が湧かなかった。


 この世に二つだけ、どうしても自分にそぐわない不適切なものがある。

 〝自炊〟と〝一家団欒(だんらん)〟だ。


 ホームで出会った人物は、桐生より年上だった。落ちていた白い手帳には、マイナートランキライザーの羅列が連なっていた。


 アパートの階段を上る、痩せた背中を思い浮かべた。まだ若いうえに、部屋で会話した感じからして、あれほど多種に(わた)る処方の必要性に疑問が生じる。カフェで話しをしたときだって、何ら日常生活に問題を来たしているようには(うかが)えなかった。セカンドオピニオンで服薬管理をした方が良いのではと、つぶさに思う。


 こんど会ったときに、自分の勤務先で一度診てもらうという選択肢を持ちかけようかと思案もした。しかし出会ったばかりの人に対し、そこまで口を挟むのも如何なものかとも思う。付き添った親戚の医院で受けた血液検査の結果が、既に手元にあるにはある。


 届いた本を開きながら、ソファの肘掛けにもたれかかる。選び抜いただけのことがある内容に、安堵する。なにしろ医学書はコストがかかる。給料なんて直ぐに吹っ飛んでいく。


 知り合った人がホームで倒れた原因は、依存性の高い薬の反復使用を中止したからだ。


 SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)の離脱症状は金属音のような耳鳴りやめまい、頭痛、吐き気やしびれといった様々な身体症状を引き起こす。医師の指示通りに減薬しなければ重症の場合、二〜三ヶ月続くこともありうる副作用だ。脳に衝撃を受けるような感覚にも値する、といっていい。セロトニンに慣れている身体は、セロトニンに対する反応が鈍っているから、いきなり減薬するのは危険な行為だ。


 桐生は起き上がり、冷蔵庫からビールを取り出した。弁当とビール。同期たちからの冷笑が、目に浮かぶ。キッチンカウンター裏にある備え付けの引き出しから封筒を取り出し、中の検査表を広げた。


 SSRIの服薬管理を行うのは、かかりつけの医師だ。外科専門医の臨床研修中である桐生にとっては、蚊帳の外の話しだった。しかしあの人の身になってみれば、四年に亘る抗うつ薬の処方に嫌気がさし、病院から脚が遠のいてしまうのは、あって当然のことではないだろうか。医師の自分にとって、不謹慎な解釈であるにせよ。


 仮に自分ならどう対処する。やめたい薬、やめられない薬。助ける薬、助けられない薬。

 やめたいのにやめられない、助けたいのに助けられない。


 客観的に戻してみる。何かに似てやしないか、これって。〈人間の相互性〉、限りなく近くはないか。やめたいのなら、それに手を貸してやる。正論として其れが、(もっと)もではないのか。


 前期研修を終えれば、病院に篭りきりになるのは目に見えている。桐生が将来的に専門医取得後も大学に在籍するのは、父が桐生の勤める医大の外科教授だということが大いに関係していた。


「桐生、聞いてるか?」

 指導医の声に、我に返った。ローテートの内科研修も中盤にさしかかり、考え毎等している暇もない程、多忙な毎日を送っていた筈だった。


「すみません……」

 同期の結衣(ゆい)が、目配せしながら顔をしかめている。視線を反らしながら、カルテにペンを走らせた。今日は午後から手術の予定もあるから、身を引き締めていかなければならない。


 先の話しではあるが、後期には医療機関での副業の許可がおり金にはなる。但しスケジュールの幅は狭まる一方だ。しかしながら卒後一年目も後半に入り、これからが本番だった。頭の切り替えにもオペは打ってつけだと、胸裏で独り()ちた。




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