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四葩 (よひら) の月  作者: 八興 心湖翔
二章 欠けた家と湖上の月
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畏怖

 

 タクシーの運転手に自宅の住所を告げると、硬い背もたれにもたれ掛かった。圧迫感が酷く、目頭を摘む様に押さえた。


 何ともなかった身体のあちらこちらが、ズキズキと痛み出した。さっき倒れたときには気付かなかったけど、やはり打ち付けた箇所があるのかもしれない。()まない頭痛にこめかみを押さえながら、目を閉じた。


 若いのにしっかりして、人柄も良さそうなひとだった。瞳が潤んだように真っ黒で、吸い寄せられそうだった。ポケットからメモを取り出して、今度はまじまじと見た。ここから電車で隣街に通うことを思えば、自宅から遥かに近い。


 いや、どうかしてるかもしれない。さっき出会ったばかりの、見も知らぬ人なのに。そういえば、如何にも育ちの良さそうな風采(ふうさい)だった。しかし自分の生きている場所と、あの人の世界が相容(あいい)れることなどある筈もなかった。


 自宅のアパートに着いたとき、タクシーの窓から見慣れた車が見えた。何処に行こうが逃れられない現実に、シャツの首元を掴んだ。


「きょうは病院の日か、随分と早いな」

 タクシーから降りた自分に近づく男の足元の砂利(じゃり)が、不快な音を鳴らした。


「ちょっと、具合が悪くて……」

「その具合を治しに行ったんじゃないのか。とりあえず部屋にいこう、顔色が悪いぞ」


 無遠慮に肩を抱く手を振り払った。

「大丈夫です、少し寝たら治ります。気にしないで……帰ってください」


「心配だから、部屋まで行くよ」

 男が腰に手を回して、アパートの階段へ促した。仕方なくそのまま部屋の前まで行き、もういちど言った。


「もう大丈夫ですから」


「鍵、ちゃんとあるのか」

 慌ててリュックを探る。入れたはずの場所をどんなに探っても、部屋の鍵が見当たらない。倒れた弾みでホームに落としたかもしれなかった。


「ほら」

 男が目の前に鍵を差し出した。


「おまえはいつもそうだから」

 額に汗が滲む。引ったくるようにそれを奪うと、鍵穴に差し込んだ。ドアが閉まると、逃げるように狭いキッチンに行き、冷蔵庫から水を取り出した。


 どうせこの合鍵で、なんども部屋に入ったに違いない。見られて(まず)いものなど何ひとつ有りはしないが、当たり前に気分の良いものではなかった。


「……飲みますか」

 そこに居るのが当然である、尤もだと言わんばかりに後ろに立っている男に、ペットボトルを差し出した。


「いや、俺はいいよ。喉が乾いてるんだろう、おまえが飲みなさい」


 男を尻目にキャップを捻りゴクゴクと音を立てて、干上がった喉を潤した。後ろから腰を引き寄せられ、弾みで飲んでいたボトルが転がり派手に床を濡らした。


「や、やめて……」

 発した声に繋がって、冷たい汗が背中を這うような錯覚を覚える。


「どうして黙って前のアパートを引き払ったんだ。まあ、あの木造物件よりはここの方が(いく)らかマシそうだな。しかしディンプルキーに変えて貰ったらどうだ。いまどきシリンダーキーなんて物騒だろう」


 言いながら、首筋に唇を押し付けられる。


 無断で合鍵まで造っておきながら、いったいなにを言っているのだ。立場上、非難の声さえあげられないので、身震いしながら喉を詰まらせる。


「やめてください……」嗚咽をこらえながら両脇に力を入れ、自分にしがみつく。


 鍛え抜かれた体躯と力には、到底抗えなかった。二の腕を掴まれ、部屋の中へ連れて行かれる。


「やだっ、放して」


 パイプベッドに力任せに押し倒すと、馬乗りで覆い被さってくる。乱暴にシャツのボタンを左右に開かれる。首筋に唇を押し付けて、ねっとりと厚い舌を這わせる。


 首を振って必死に抗った。

「やめてくださっ……」こんどは声を張った。


「騒ぐと隣に筒抜けなんじゃないのか」


 低い声音に嫌悪感が(みなぎ)り、押し黙る。震える唇に手の甲を押し当てると、ゴツゴツとした指が下半身に降りた。


 声を絞り懇願する。

「きょっ、今日は嫌だ、薬がないんです、お願い、やめて……」


 男は何も言わず、外したボタンの隙間から手を入れてくる。涙と汗がこめかみから耳に流れ落ちた。


「……よくないのか」

 粗鬆な動きに耐えられない身体が、ビクビクと跳ねるように動いた。指で中を広げられる痛みに抗った。


「お願い……痛いっ」

 視界に斑点が現れ、喉の奥から血の味が漂いはじめた。自分を失ったことなど蒸し返す術もなく、強く唇を噛んだ。


「ああ、ゴメン」

 男は下に降りると、唾液で強かに濡らしながら、舌先で割って入ってくる。


 目を閉じて身を捩りながら、あの人を想起していた。彼の笑顔と、この狭き俗世があまりにもかけ離れ過ぎていて、また涙が溢れた。


 身体が激しく揺さぶられる度、涙の粒子が細かく散った。

「久しぶりだから、辛い?」


 降ってきた唇に、首を振って抗う。早まる律動に、ホームで打ち付けた箇所がズキズキと悲鳴をあげた。


「痛い、あ、痛い……」

「痛いの……何処が」


 辛くてかぶりを振りながら、〝痛い〟と、それだけを繰り返した。






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