畏怖
タクシーの運転手に自宅の住所を告げると、硬い背もたれにもたれ掛かった。圧迫感が酷く、目頭を摘む様に押さえた。
何ともなかった身体のあちらこちらが、ズキズキと痛み出した。さっき倒れたときには気付かなかったけど、やはり打ち付けた箇所があるのかもしれない。止まない頭痛にこめかみを押さえながら、目を閉じた。
若いのにしっかりして、人柄も良さそうなひとだった。瞳が潤んだように真っ黒で、吸い寄せられそうだった。ポケットからメモを取り出して、今度はまじまじと見た。ここから電車で隣街に通うことを思えば、自宅から遥かに近い。
いや、どうかしてるかもしれない。さっき出会ったばかりの、見も知らぬ人なのに。そういえば、如何にも育ちの良さそうな風采だった。しかし自分の生きている場所と、あの人の世界が相容れることなどある筈もなかった。
自宅のアパートに着いたとき、タクシーの窓から見慣れた車が見えた。何処に行こうが逃れられない現実に、シャツの首元を掴んだ。
「きょうは病院の日か、随分と早いな」
タクシーから降りた自分に近づく男の足元の砂利が、不快な音を鳴らした。
「ちょっと、具合が悪くて……」
「その具合を治しに行ったんじゃないのか。とりあえず部屋にいこう、顔色が悪いぞ」
無遠慮に肩を抱く手を振り払った。
「大丈夫です、少し寝たら治ります。気にしないで……帰ってください」
「心配だから、部屋まで行くよ」
男が腰に手を回して、アパートの階段へ促した。仕方なくそのまま部屋の前まで行き、もういちど言った。
「もう大丈夫ですから」
「鍵、ちゃんとあるのか」
慌ててリュックを探る。入れたはずの場所をどんなに探っても、部屋の鍵が見当たらない。倒れた弾みでホームに落としたかもしれなかった。
「ほら」
男が目の前に鍵を差し出した。
「おまえはいつもそうだから」
額に汗が滲む。引ったくるようにそれを奪うと、鍵穴に差し込んだ。ドアが閉まると、逃げるように狭いキッチンに行き、冷蔵庫から水を取り出した。
どうせこの合鍵で、なんども部屋に入ったに違いない。見られて拙いものなど何ひとつ有りはしないが、当たり前に気分の良いものではなかった。
「……飲みますか」
そこに居るのが当然である、尤もだと言わんばかりに後ろに立っている男に、ペットボトルを差し出した。
「いや、俺はいいよ。喉が乾いてるんだろう、おまえが飲みなさい」
男を尻目にキャップを捻りゴクゴクと音を立てて、干上がった喉を潤した。後ろから腰を引き寄せられ、弾みで飲んでいたボトルが転がり派手に床を濡らした。
「や、やめて……」
発した声に繋がって、冷たい汗が背中を這うような錯覚を覚える。
「どうして黙って前のアパートを引き払ったんだ。まあ、あの木造物件よりはここの方が幾らかマシそうだな。しかしディンプルキーに変えて貰ったらどうだ。いまどきシリンダーキーなんて物騒だろう」
言いながら、首筋に唇を押し付けられる。
無断で合鍵まで造っておきながら、いったいなにを言っているのだ。立場上、非難の声さえあげられないので、身震いしながら喉を詰まらせる。
「やめてください……」嗚咽をこらえながら両脇に力を入れ、自分にしがみつく。
鍛え抜かれた体躯と力には、到底抗えなかった。二の腕を掴まれ、部屋の中へ連れて行かれる。
「やだっ、放して」
パイプベッドに力任せに押し倒すと、馬乗りで覆い被さってくる。乱暴にシャツのボタンを左右に開かれる。首筋に唇を押し付けて、ねっとりと厚い舌を這わせる。
首を振って必死に抗った。
「やめてくださっ……」こんどは声を張った。
「騒ぐと隣に筒抜けなんじゃないのか」
低い声音に嫌悪感が漲り、押し黙る。震える唇に手の甲を押し当てると、ゴツゴツとした指が下半身に降りた。
声を絞り懇願する。
「きょっ、今日は嫌だ、薬がないんです、お願い、やめて……」
男は何も言わず、外したボタンの隙間から手を入れてくる。涙と汗がこめかみから耳に流れ落ちた。
「……よくないのか」
粗鬆な動きに耐えられない身体が、ビクビクと跳ねるように動いた。指で中を広げられる痛みに抗った。
「お願い……痛いっ」
視界に斑点が現れ、喉の奥から血の味が漂いはじめた。自分を失ったことなど蒸し返す術もなく、強く唇を噛んだ。
「ああ、ゴメン」
男は下に降りると、唾液で強かに濡らしながら、舌先で割って入ってくる。
目を閉じて身を捩りながら、あの人を想起していた。彼の笑顔と、この狭き俗世があまりにもかけ離れ過ぎていて、また涙が溢れた。
身体が激しく揺さぶられる度、涙の粒子が細かく散った。
「久しぶりだから、辛い?」
降ってきた唇に、首を振って抗う。早まる律動に、ホームで打ち付けた箇所がズキズキと悲鳴をあげた。
「痛い、あ、痛い……」
「痛いの……何処が」
辛くてかぶりを振りながら、〝痛い〟と、それだけを繰り返した。




