ホーム
卒後半年目の秋だった。
マンションの地下駐車場に停めた自家用車から降りると、つい嘆息を洩らした。
事あるごとにバッテリーの上がる、中古のゲレンデを尻目に腕時計を見た。知人から安価で購入しただけのことはあり、安易に、実に容易く故障する。
部屋に戻り、玄関に置いてある自転車を引っ張り出した。ペダルを漕いで急いで駅に向かった。駐輪場に滑り込み、エスカレーターに向かって走った。遅刻は目にみえている。アップルウォッチをかざして自動改札を通り、下りのエスカレーターに乗った。一息ついたとき、自転車の急ブレーキをかけたような、耳をつんざくような声がした。
桐生蓮は、咄嗟にエスカレーターを駆け下りた。
〈まもなく……列車が……黄色い線までお下がりください……〉
アナウンスが流れ、視界に映るホーム全体に目を凝らした。二番線付近に女性らしき人が倒れているのが見えた。生ぬるい風が吹き上げ、近くにいた子連れの母親が叫んでいた。
間に合うか──。
肩に掛けた鞄を放り投げ、全速で走った。プラットホームから半分ぶら下がった身体が真下の線路に落ちる寸前に、背負っていたリュックを掴んだ。はずみで片肘が地面に付き、自分の体が傾いた。体制を戻し、渾身の力で引っ張り上げる。両脇を後ろから掴み、中腰で思い切り引きずってホームから遠ざかった。
次の瞬間、ヘッドライトと共に電車が入ってきた。息が上がり、全身から汗が噴きだしてくる。駅員が何人か走ってきて、上から覗き込んで何やら喚いていた。事無きを得てはじめて、自分が人を抱えたまま仰向けに倒れていることに気が付いた。
「大丈夫ですか! しっかり」
二人まとめて、駅員が支えながら起こしてくれた。
「ストレッチャー持ってきて」誰かが叫ぶ。
「待って待って、応急処置をしますから。急いでAEDお願いします」
桐生は駅員に、続けて促した。
「リュックを外すから、手伝ってください」
頭を支えながらゆっくりと下に置き、両肩を叩きながら呼びかけると意識反応があった。身体の出血の有無を確認した後、腕時計を見ながら脈拍を測る。所見は十代後半〜二十代半ば、自分くらいか。鼻と口元に耳を当てると、はっきりと呼吸音がした。
つぎに迅速に上衣を引っ張り上げた。一瞬怯んだが、即座に対応する。胸元を開いて再度呼吸を確認する。腹部の上縁、最下端の肋骨に連なる部位が規則的に上下している。額に汗が浮かんだ。骨折等の有無を確認したが、出血と共にとりあえず目立った外傷は見当たらなかった。
「これ、あなたのでしょう?」
誰か分からないが、ありがたいことに放り投げた鞄を持ってきてくれた。奇しくも昨日持ち出していた聴診器を取り出し、心音と呼吸音を聴取した。念の為、近くにいた駅員に頼んだ。借りた懐中電灯で瞳孔の対光反応を確認した後、溜め息が洩れた。
「医務室、どこですか? このまま運びます。救急車は呼ばなくても大丈夫かと」
駅員達に告げる。身体を抱え上げ、もういちど腕の中の人物を見る。
呼吸がしっかりしていたので蘇生は試みなかった。胸骨圧迫で肋骨を骨折させてしまう可能性もあるし、そこは慎重に対処したつもりだ。今でも規則的な呼吸音が聞こえる。透けた髪色の下の真っ白な顔を見る。
桐生は首を傾けながら、促されて医務室に向かった。
*
遠い意識を手繰り寄せると、低い天井が見えた。天井と一緒に、見知らぬ男が上から覗き込んでくる。
「あの、大丈夫ですか」
瞬きしながら起きあがろうとすると、柔らかい口調で嗜めた。
「まだ動かない方がいいですよ」
彼が、持っていたペットボトルを自分の頭の横に置いた。
「水、起き上がってから飲んでください」
男は、医務室みたいな部屋にいた駅員と、二言三言ほど話しをすると、また屈みながら伝えてきた。
「すみません、俺、仕事に行かないといけないので、これで失礼します」
そのとき、さっきホームから引きずって助けてくれた声の持ち主が、この人だと分かった。駅員じゃなかったのか。なにか言いたかったが喉が干上がって、声が出ない。そうだ、お礼を言わないと──。
黙って瞬きしかしない自分を見ながら、大きな眼を細める。改めて見ると、まだ若い人だった。潤んだような黒い瞳が印象的だった。
「誰か、迎えに来てくれる人っています?」
喋ることがままならないので、少し頭を傾けた。
「タクシー、乗れますか」
「……」
男が首に手を当てた。
「うーん。あ、スマホ、携帯持ってますか」
──リュック、手前のポケットに……やっぱり声が出てこない。
「ハイ、あなたのリュック」
しゃがみ込み、見える位置に掲げて、この中かと男がジェスチャーしたので、コクコクと頷いた。
勘がいいのか直ぐにスマートフォンを取り出して、見せてくれた。
「家に誰かいます?」
ひとり暮らしだから、誰かがいる筈もなかった。首を振って応える。男が明らかに困惑した面持ちで、今度は上着のポケットから自分の携帯電話を取り出した。
長めの髪や身なりからして、どう見てもサラリーマンには見えないが、確かさっきこれから仕事だと言っていた。
男は少し離れた場所で、何処かに電話をかけているみたいだった。捲り上げたシャツの肘から手首にかけて、長く赤い擦り傷が見える。
ふと気づいた。あれって、さっきホームから助けてくれたときの怪我なんじゃないか──とにかく謝りたくて、置いてくれたペットボトルに手を伸ばした。
「あ、無理しないで」
労うように声がかかる。
「勤務先に電話をかけて事情を説明しました。直ぐに行かないといけないけど、タクシー乗り場まで付き添いますよ」
学生みたいな社会人の男の人が、腕時計を見る。声が出ないので、手を伸ばして指で差した。
「ん、なんですか」
肘に向かって指を動かした。
「ああ、大丈夫ですよ、これくらい」
男は少し考えてから、続けた。
「あなたも打ち身があると思います。倒れた原因も分からないから、ちゃんと病院に行って下さいね」
「あ……はい」
口輪が取れたかのように、声がこぼれ出た。
「あっ、喋った」
その人が白い歯を見せながら、笑った。




