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四葩 (よひら) の月  作者: 八興 心湖翔
二章 欠けた家と湖上の月
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ホーム

 卒後半年目の秋だった。


 マンションの地下駐車場に停めた自家用車から降りると、つい嘆息を洩らした。


 事あるごとにバッテリーの上がる、中古のゲレンデを尻目に腕時計を見た。知人から安価で購入しただけのことはあり、安易に、実に容易く故障する。


 部屋に戻り、玄関に置いてある自転車を引っ張り出した。ペダルを漕いで急いで駅に向かった。駐輪場に滑り込み、エスカレーターに向かって走った。遅刻は目にみえている。アップルウォッチをかざして自動改札を通り、下りのエスカレーターに乗った。一息ついたとき、自転車の急ブレーキをかけたような、耳をつんざくような声がした。


 桐生蓮(きりゅうれん)は、咄嗟にエスカレーターを駆け下りた。


〈まもなく……列車が……黄色い線までお下がりください……〉

アナウンスが流れ、視界に映るホーム全体に目を凝らした。二番線付近に女性らしき人が倒れているのが見えた。生ぬるい風が吹き上げ、近くにいた子連れの母親が叫んでいた。


 間に合うか──。


 肩に掛けた鞄を放り投げ、全速で走った。プラットホームから半分ぶら下がった身体が真下の線路に落ちる寸前に、背負っていたリュックを掴んだ。はずみで片肘が地面に付き、自分の体が傾いた。体制を戻し、渾身の力で引っ張り上げる。両脇を後ろから掴み、中腰で思い切り引きずってホームから遠ざかった。


 次の瞬間、ヘッドライトと共に電車が入ってきた。息が上がり、全身から汗が噴きだしてくる。駅員が何人か走ってきて、上から覗き込んで何やら(わめ)いていた。事無きを得てはじめて、自分が人を抱えたまま仰向けに倒れていることに気が付いた。


「大丈夫ですか! しっかり」

 二人まとめて、駅員が支えながら起こしてくれた。

「ストレッチャー持ってきて」誰かが叫ぶ。


「待って待って、応急処置をしますから。急いでAEDお願いします」

 桐生は駅員に、続けて促した。

「リュックを外すから、手伝ってください」


 頭を支えながらゆっくりと下に置き、両肩を叩きながら呼びかけると意識反応があった。身体の出血の有無を確認した後、腕時計を見ながら脈拍を測る。所見は十代後半〜二十代半ば、自分くらいか。鼻と口元に耳を当てると、はっきりと呼吸音がした。


 つぎに迅速に上衣を引っ張り上げた。一瞬怯んだが、即座に対応する。胸元を開いて再度呼吸を確認する。腹部の上縁、最下端の肋骨に連なる部位が規則的に上下している。額に汗が浮かんだ。骨折等の有無を確認したが、出血と共にとりあえず目立った外傷は見当たらなかった。


「これ、あなたのでしょう?」

 誰か分からないが、ありがたいことに放り投げた鞄を持ってきてくれた。奇しくも昨日持ち出していた聴診器を取り出し、心音と呼吸音を聴取した。念の為、近くにいた駅員に頼んだ。借りた懐中電灯で瞳孔の対光反応を確認した後、溜め息が洩れた。


「医務室、どこですか? このまま運びます。救急車は呼ばなくても大丈夫かと」

 駅員達に告げる。身体を抱え上げ、もういちど腕の中の人物を見る。


 呼吸がしっかりしていたので蘇生は試みなかった。胸骨圧迫で肋骨を骨折させてしまう可能性もあるし、そこは慎重に対処したつもりだ。今でも規則的な呼吸音が聞こえる。透けた髪色の下の真っ白な顔を見る。

 桐生は首を傾けながら、促されて医務室に向かった。



 遠い意識を手繰り寄せると、低い天井が見えた。天井と一緒に、見知らぬ男が上から覗き込んでくる。

「あの、大丈夫ですか」


 瞬きしながら起きあがろうとすると、柔らかい口調で嗜めた。

「まだ動かない方がいいですよ」


 彼が、持っていたペットボトルを自分の頭の横に置いた。

「水、起き上がってから飲んでください」


 男は、医務室みたいな部屋にいた駅員と、二言三言ほど話しをすると、また屈みながら伝えてきた。

「すみません、俺、仕事に行かないといけないので、これで失礼します」


 そのとき、さっきホームから引きずって助けてくれた声の持ち主が、この人だと分かった。駅員じゃなかったのか。なにか言いたかったが喉が干上がって、声が出ない。そうだ、お礼を言わないと──。


 黙って瞬きしかしない自分を見ながら、大きな眼を細める。改めて見ると、まだ若い人だった。潤んだような黒い瞳が印象的だった。


「誰か、迎えに来てくれる人っています?」

 喋ることがままならないので、少し頭を傾けた。

「タクシー、乗れますか」

「……」


 男が首に手を当てた。

「うーん。あ、スマホ、携帯持ってますか」


 ──リュック、手前のポケットに……やっぱり声が出てこない。

「ハイ、あなたのリュック」


 しゃがみ込み、見える位置に掲げて、この中かと男がジェスチャーしたので、コクコクと頷いた。

 勘がいいのか直ぐにスマートフォンを取り出して、見せてくれた。


「家に誰かいます?」

 ひとり暮らしだから、誰かがいる筈もなかった。首を振って応える。男が明らかに困惑した面持ちで、今度は上着のポケットから自分の携帯電話を取り出した。


 長めの髪や身なりからして、どう見てもサラリーマンには見えないが、確かさっきこれから仕事だと言っていた。


 男は少し離れた場所で、何処かに電話をかけているみたいだった。(まく)り上げたシャツの肘から手首にかけて、長く赤い()り傷が見える。


 ふと気づいた。あれって、さっきホームから助けてくれたときの怪我なんじゃないか──とにかく謝りたくて、置いてくれたペットボトルに手を伸ばした。


「あ、無理しないで」

 労うように声がかかる。


「勤務先に電話をかけて事情を説明しました。直ぐに行かないといけないけど、タクシー乗り場まで付き添いますよ」


 学生みたいな社会人の男の人が、腕時計を見る。声が出ないので、手を伸ばして指で差した。

「ん、なんですか」 


 肘に向かって指を動かした。

「ああ、大丈夫ですよ、これくらい」


 男は少し考えてから、続けた。

「あなたも打ち身があると思います。倒れた原因も分からないから、ちゃんと病院に行って下さいね」


「あ……はい」 

 口輪が取れたかのように、声がこぼれ出た。


「あっ、喋った」

 その人が白い歯を見せながら、笑った。




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