パンドラの椅子
中卒で雇用された勤務先は、一応は某大手車両メーカーの下請けの、その下の、それまた更に下の──。
社長の言い分は、主に行きつけの焼鳥屋で端を発する。ハイボールのオーダーあたりから、本領を遺憾なく発揮する。
分厚いセルロイドの眼鏡の縁をあげ、頭上から俺の髪の毛をクシャっと掴むように撫でる。それから、いくつになっても仕事は辞めるなよと、念を押す。
十八でフォークリフトの免許を取ってから、ひたすら荷物を運んでいる。最初のうちは左手の操作が困難だった。パレットに乗せた荷物が、上手い具合に昇降できない。ハンドルノブを握る左手が、何度もブレた。後ろのタイヤで舵を取るから、走行中に曲がると車両の後部が大きく振られた。
幼少期から大抵のことは、上手く運ばない。生まれた家に父親は不在がちだった。
父が脱サラした後に、数年越しで当選した築五十年の市営住宅に移動した。毎月市報に載る募集住宅に目を通し、母が随時役所に抽選に行った。五年かけてようやく手に入れた、父と母と妹と俺の住処だった。
夕方になると、チェストみたいな形の鏡の前にある、丸椅子に母が腰掛ける。妙な刺繍を施した薄汚れた、しかし凝った造りの赤いベルベットの椅子だった。椅子の蓋を開けると、妹のガラクタが溢れてる。
鏡に向かう母の、化粧品の匂いが鼻につく。最後に決まって振りかける香水に、胃のむかつきを覚える。鼻と口を押さえたくなる。
遺体だってきっと、あんなに下卑た臭いは放ってなかったんじゃねえか。
かつての椅子は、あのひなびた写真館の鮮やかな緑色のラグの上で、ひときわ赤く煌いていた。ロールスクリーンを下ろした前にパンドラの箱のように、居座っていた。三脚の横に存在する、当時の丸椅子の中身は空っぽだった。
染みのあるカーテンから西日が射し込む。古い市営住宅の畳に、ベランダの手すりの格子が長い模様を落とす。夕方の影は、なんでいつも長いんだろう。
妹の七五三のあとだった。真新しいパンドラ紛いの赤い蓋を開けてから、全てが狂い始めた。
経営難に陥った写真館は潰れた。父親は車で脚を運び、県内外を奔走した。ナビもついてないポンコツ車で地図を広げ、日本中の写真を撮りながら、営業に尽力した。ガソリン代に全てを注ぎ込んだ。
写真だけじゃ駄目だ。額縁代だって半端ねえ。個展を開けば、ギャラリー代だって馬鹿にならねえ。二科展になんど入選しようが、無名の写真家が撮った写真に、金を出す奴なんかいねえ。
金持ちのインテリ野朗か、はたまた医者か──存外、写真館が潰れた際に、破産しないように金で父を助けた祖母が、客のフリをして買ってたんじゃねえか。
電話の線を抜いたって、玄関からフツーに借金取りがくる。あんまり妹が泣くから、家の近くにある高校のグラウンドで時間を潰した。テニスコートの横にある山の上で、野鳥が巣作りに精をだしている。フェンスの向こう側の河原では鳥が一本足で立ち、餌の魚を狙ってる。鳥だって家族の為に懸命に働いてる。
「白鳥」
「白サギだろ」
妹の眼に映るもの、耳から入るものは、この先どう記憶に残るだろうか。
父が死んだ日、暑い夏の昼だった。ポンコツ自家用車で写真営業に奔走し、ついに事故った。挙句に慣れない代車で、ブレーキとアクセルを踏み違えて壁に激突した。幸いなことに他人はいっさい傷つけなかった。傷を負い巻き込まれるのは、いつも俺たち家族三人だけだった。最後にもやっぱり親父は、家族だけを取り込んだ。
借金はどうなるんだ? 第一報を受けた当時十四だった俺は、不埒にも懸念した。妹はまだ九歳だった。
親父といえば、カメラだった。カメラといえば写真だった。写真といえばガソリンだった。ガソリンといえば金だった。金とは、総じて《《借金》》だった。
病院の暗い部屋で、信じられないくらい細い柩に押し込まれた親父は、遺体搬送車でそのまま火葬場の隣にある《冷凍庫》に直葬した。ステンレスの天板に乗せられた親父は、柩と同じサイズの細長く凍った引き出しの中に勢いよく収納され、呑み込まれた。
冷凍庫か。夏だもんな。入れなきゃ腐っちまう。胸を強打して即死だったが、顔面には目立った傷が無かった。人間が死んでから腐敗することくらい、頭の悪い俺だって知ってる。
代わりに愛用していたCanonの一眼レフが、大破した助手席の下から拉げた姿で見つかった。
写真館の後始末を手助けした祖母は、数年前に老衰で死んだ。身内に借金を重ね、親族からはとっくの昔に絶縁されていた。入りきらねえ督促状に、ポストだって悲鳴をあげていた。
親父は火車に乗り、写真営業をしていたのだ。葬儀をやる金なんて、当たり前に一円だって無い。なにをするにも金がいる。しかし無いもんは仕方ねえ。通夜だって、葬儀だってしてやれねえ。
俺とオフクロと妹の三人で、火葬場の入り口に立ち尽くした。火葬許可証を呈示し、受付で金を払った。火葬代が意外にも安値だったことに驚いた。
親父を燃やす代金が、親父の《命》の金額だった。
葬儀代を聞いて、オフクロと二人で目を剥いたってのに。馬鹿げてる。
命とは金だ。金がなければ、死んだ人間を燃やすことさえできねえ──金がなければどんなにいい写真を撮ったって、売れねえ。イケる写真には、でっけえフレームがなきゃならねえ。金がなきゃスポンサーだってお断りだ。
アナログ写真の現像液の匂いが充満する。市営の穴ぐらみてぇな仕事部屋を覆う、遮光カーテンの手前に、酸っぱい匂いの液体の上のロープに、木の洗濯バサミで挟んだ写真が連なりぶら下がってる。
下手過ぎんだよ、生きるのが。氷じゃねんだから、人間が冷凍庫の引き出しの中って悔し過ぎじゃねえか。なあ、悔しくねーか? 親父、聞いてるか?
──いま、苦しくはないか? その狭い柩の中。傷が痛むだろう。
──いま、寒くはないか? 真夏でも、寒いだろう。冷凍庫の中じゃよ。
たまにはさ、辛いだの苦しいだのって、言えよ。写真の裏側は虚栄心ばっかじゃねえか、一緒にぶら下げんなよ。もう、本音を吐けよ。
今にも倒れそうなオフクロの代わりに、俺が喪主となった。別れ花とやらはオフクロが用意した、小さな百合と白いカーネーションだった。
エレベーターのような火葬炉に向かい、車輪の滑る音が鳴り響く。親父の後ろを、俺ひとりがいく。轟音とともに、台車から移動した柩が持ち上がった。
一、二〇〇度の、燃え盛る炎を想像した。
飛び火が親父の身体の隅々まで行き渡る。烈しい炎が、一瞬で柩を融解する。火の風が親父の痩せ細った身体を、大きく揺り動かす。親父の沸騰した内臓が破裂する。学のある脳みそが四方に飛散する。親父と別れ花が爆ぜる。
おい、熱くねえか。熱いだろ?
痛くねーか? 辛くねーか?
親父、辛いだろ? 今までずっと辛かったと言え。ほんとうは苦しかった、いま楽になりたいと。いつもみたいに、外食や家族旅行だのマイホームなんてくだらないと、声高に言うのはやめろ。もう、いいんだよ。金は俺がなんとかする。
「もう苦しむな!」
着火ボタンを押した。
覚えてない──思い出せない。
四つん這いになり、その場をのたうち回っていた。火葬場のやつらが俺を羽交締めにしながら、口では優しく言った。
落ち着けと。おとうさんが安心して天国に行けなくると。おかあさんと妹さんが泣いていると。
そりゃあ困る。いい按排に逝ってもらわねーと。これから俺は忙しいんだ。オフクロと妹の面倒をみてやらなきゃなんねえ。中学を卒業したら働いて、俺が二人を支えねえと。こんな所でよだれと鼻水垂らしながら、みっともなく泣いてる場合じゃねえ。そんな暇はねえよ。
俺はいく──強く、高く狼煙をあげる。高みを目指して、ここから這い上がる。
親父と俺は違う。有名大学卒だと? 高学歴だと? クソみてえな称号じゃねえか。
なあ親父、なんでだ。なんだって、こんな高尚な名前をつけやがったんだ。名前負けして目も当てられねえ。
「おい、ヒーロー」
立待陽色は、振り返らなかった。目の前の鏡に映ったからだ。会長の雨宮の姿が。シャドーの手を止めた。
「あれからどうだ」
「変わらないです、ずっと。やっぱ尾けられてるみたいです」
「おまえ、身に覚えはないか? 大丈夫だろうな」
「なにも──警察に尾行されるようなことは」
「プロテストが近いからな、用心しろよ。なにかあったら直ぐにここに来い」
「はい、迷惑かけてすみません」
踵を返す、広い背中に声を投げた。
「雨宮さん」
「なんだ」
「あの眼鏡のヤツ、どうしたんでしょうか。スパーリングのときの」
「誰だ?」
「眼鏡の男です。あいつ、やめたんですか? さいきん見ないから」
「眼鏡? 眼鏡かけてりゃボクシングできないだろ。そんなやついたか?」
「いえ、あの……あ、職場の奴と勘違いしてました」
雨宮がフンと短く鼻で笑い、事務所に戻っていく。
あの日、カメラの三脚の横で、ベルベットの赤い丸椅子の蓋を開けた。中身は空だった。丸いプラスチックの底面に、俺の顔が映っていた。たちまち俺を取り巻く世界が変化していった。
殺したのは俺かもしれない──。
何してんだ、黒眼鏡。なんでジムに来ねえんだ。広島の大会終わっちまったよ。
おまえの世界も暗いのか。金持ちのインテリ野郎でも、暗いのかよ──。




