境界線の判断
卒後二年目の初期研修中である四月に、ローテートで婦人科腫瘍科の研修に準じた。その際に、輝元碧と出会った。彼女は高校一年の春休みに卵巣に腫瘍が見つかり、入院を余儀なくされていた。
桐生蓮は、煌星鳥大学医学部附属病院に勤務する初期臨床研修医である。
外科専門医プログラムコースを選択しているため、初期研修二年目の四月は女性診療科群の研修に当たる月だった。外科専門医プログラムとは、外科マインドを徹底的に身につけ、外科専門医の最短取得を目指すコースである。
一年目の最初の六枠で本院 (煌大)の外科三科(第一外科、心臓血管外科、胸部外科)を二枠ずつ研修する。必須科目の内科、婦人科、精神科、地域医療、救急、小児科を研修し、最終は本院で外科研修に準じるものである。初期研修修了時は、外科医として一歩前に出ることになる。
出勤すると、まず八時半に医局に各科の医師が集合して、夜間当直帯で入院となった患者の担当を決めるミーティングがある。これをカンファレンスという。
終了すると研修医各自がローテートしているスケジュールに従って、各科の診療を開始する。
基本、指導医と共に病棟を回診するのが常である。症例プレゼンテーションによって、チームで情報を共有する。病歴聴取や身体診察による情報収集と臨床推論、症例プレゼンテーションの研鑽を重視している。
研修医はチーム医療の一員として、入院初療から退院まで一貫して担当医としての自覚と責任をもって患者の診療に関わる。プレゼンによって情報を共有した後、検査や治療の方針について指導医とディスカッションをする。そこでたくさんのフィードバックをもらいながら、研修医は主治医としてのマネジメント能力の土台となる基本的臨床能力を身につけていくのだ。
外科研修では、病棟回診後に手術に入る。積極的に手術に参加して外科の基本的手技・知識を身につける。術前から退院まで、患者中心の安全で安心なチーム医療を実践することを目標にしている。
煌大の産科婦人科は女性診療科群と呼ばれ、女性診療科、婦人科腫瘍科のふたつから成っている。桐生は指導医の多賀と共に、担当となった患者の病室に行く前に、再度ディスカッションをした。
「個室なんですね」
「父親の意向なんだ、まだ高校生だからな」
「初回手術は来週でしたよね」
「ああ、病理診断ができないからな。卵巣は骨盤内の深いところにあることから、腹部の皮膚から針を刺して組織や細胞を採取することができないんだ。エコーやCT、MRIで卵巣がん、卵管がんの疑いがあると判断された場合はまず手術を行い、切除した卵巣や卵管の組織診断を行って、がんかどうかを確定するんだよ」
「自覚症状が少ないんでしょうか」
「うん、比較的な。腫瘍が大きければ膀胱や直腸を圧迫して、頻尿や便秘が生じるんだが自覚症状は日常生活では気づき難いんだ。脚の浮腫や、腹部膨満感もある。腫瘍マーカーで血液中CA125を測定したが、判断しかねての結果だ。手術前に境界悪性や悪性が疑われた場合には、手術の範囲を決めるために、オペ中に組織や細胞を採取し、病理診断を行うことになるんだが」
「沈黙の臓器ともいわれているんですよね。でも腫瘍の八五パーセントは良性だと」
多賀がMRIの検査結果の画像を呈示した。
「卵巣が風船のように膨らんでるだろう。腫瘍の中に液状のものが充満してるんだ。この黒く写っているのが液体で、これに入った袋をもつものを嚢胞性腫瘍というが良性も多い。ただし、この黒い液状の部分を囲むようにして、グレーに写っている充実成分(固形成分)の層が重なってるだろ。この成分が多く、不整な形をしているとがんの疑いが強くなるんだ」
桐生が目を凝らしてMRIの画像を見る。
「腫瘍は、そう大きくはないのですね」
「個人差もあるが、腫瘍の種類によっては巨大化しやすく、十センチ以上になることもある。前例で、摘出した嚢胞が十キロもあった症例もある。その患者は良性だったんだが……」
多賀が、話し終わらないうちに席を立った。婦人腫瘍科病棟の個室に着くと、扉横でアルコール消毒をして多賀の後ろから部屋に入った。
直ぐに香りがした。窓際に大きなディフューザーが見える。多賀がベッドで雑誌を読む、担当の患者に挨拶をする。
「碧ちゃん、おはようございます……碧ちゃん?」
患者からの返事は無い。齢四十の指導医が、再度声をかけた。
「碧ちゃん?」
長い首のボブヘアの耳の中に、白いワイヤレスイヤホンが見える。
桐生が多賀の後ろからベッドに近づいて、枕元に置いてあったスマートフォンのBluetoothをオフにした。
いま気づいたと言わんばかりに、患者が桐生を見上げた。大きな耳からイヤホンを外す。
「ちょっと、触らないでください」
意思の強そうな眼差しで、桐生を一瞥する。
「挨拶です、多賀先生が挨拶をしてますよね」
患者が、立ちはだかる研修医に隠れて見えない多賀を、桐生の肩越しに覗いた。
「多賀先生、すみません。聞こえなくて……てか、このひと誰ですか?」
「ああ、彼は桐生先生だよ、研修中なんだ。しばらくは僕と一緒に、彼も碧ちゃんの主治医なんだよ。よろしくね」
なぜか、じぶんの代わりに多賀が挨拶を交わす。
「研修医? あー、だから不躾なんですね」
「気づいているのに、イヤホンを外さないからです。ノイズキャンセリングは解除して、外音取り込みにしておくようにしてください。遮音は必要ないでしょう」
桐生が少し語気を強める。
Apple純正のAirPodsproの白い収納充電ケースには、名前が刻印されていた。
《Aoi》
「きりゅう先生、わたし、音楽を聴くときは静寂が好きなんです」
「K-POPアイドルを聴くのにですか?」
「勝手に見ないでくださいっ」
「勝手に見えたんです」
「おい、桐生」
多賀が後ろから嗜める。
碧が口元に拳を押しつけて、頬を膨らませている。初対面で完全に嫌われた感が、ひしひしと伝わってくる。しかし自分は間違ったことを述べてはいない。
輝元碧は長い首を伸ばして大きな目を瞬かせると、多賀に訊ねた。
「多賀先生が、私の主治医ですよね? このオニイサンとは、話しが合いそうにありません」
「あなたに、主治医を選ぶ決定権はありません」
桐生のことばに、唖然とした碧の色白な肌が紅潮した。
「ありえない、高いお金を払って個室にしてもらってるのに、人権蹂躙です!」
思わず桐生が指で鼻を押さえて俯いた。
「な、なにが可笑しいの?」
「いえ……すみません、なんだか色々とバランスが……」
「は?」
静寂とアンバランスな碧に、多賀がいった。
「碧ちゃん、とりあえず血圧を測ろうか」
素直に腕を出す碧の細くて長い右腕には、採血や点滴の皮下出血が無数に混在した。俯いた髪の毛から、大きな耳が覗いている。白い頬にはそばかすがあった。離れ気味の一重の大きな目と、随分小さな顔の下には細くて長い首が付いている。要は顔以外の大部分が、細くて長かった。
「お腹の張りはどうかな? 触るよ」
多賀が胸元にロゴの入った部屋着の下から、腹部を触診した。
碧が少し顔を顰めた。指にパルスオキシメーターを挟み酸素数値の測定をした後、小さな嘆息を吐いた。
「心配しないでください。僕は研修医なので、ここに長居はしませんから」
釈然としない面持ちで見上げてくる碧に、桐生が口元を綻ばせた。
*
カンファレンスが終わり点滴オーダー、明日の検査・薬剤等のオーダーを済ませると、担当患者の輝元碧の病棟に向かった。生意気な女子高生に嫌われようが、別段なにも感じなかった。桐生蓮は、婦人科腫瘍科病棟の個室の扉を開いた。
「来週の水曜が手術日です。勿論ご存知ですよね」
ベッドの横に立ち、体温と血圧、酸素数値を見ながら、プリントアウトした電子カルテに目を通した。
「良性の卵巣腫瘍の可能性が高いんですが、腫瘍が今後大きくなることが予想されますので、手術で摘出するんです。多賀先生から、なんども聞いていますよね」
微動だにしない碧の耳の中は空っぽで、テーブルの上にイヤホンが転がっていた。
「きょうは聴かないんですか」
「なんか、気分じゃないから……」
「朝食はぜんぶ残してましたよね、具合が悪い?」
「お腹が張ってる感じがして……食べられませんでした」
「手術が近いから、緊張もあるかもしれませんね。お父さんはいつ来られますか?」
「──来ません」
「ずっとですか? 手術日も?」
「父は忙しいひとですから」
ディスカッションで、輝元碧が父子家庭であることは熟知していた。母親は碧が幼少期に、卵巣がんで亡くなっていた。
卵巣がんの約一〇パーセントは遺伝的要因によるものと考えられている。特に、細胞のがん化を防ぐ働きをするBRCA1遺伝子あるいはBRCA2遺伝子に変異がある女性では、卵巣がんと乳がんを発症するリスクが高いことがわかっていた。
しかし、これらの変異があるからといって必ずしもがんになるとは限らない。輝元碧は胸水や腹水が溜まっていなかった。よって、術前に皮膚から針を刺して胸水や腹水を採取して、がん細胞を調べることは不可能だった。
「輝元さん、どんな曲が好きなんですか」
むっつりと下を向いていた碧が、おもむろに顔を上げた。
「桐生先生、きょうは優しいんですね……初めて会ったときは怖かったのに」
「そうですか? うーん、愛想はあまりよくないかもしれません」
「愛想が悪いというか、敵視を感じました」
「僕がですか? あなたに?」
「──はい……わたしのことが嫌いなんだと」
少し驚いて、伏し目がちな横顔を見た。
「ああ、それはありません。僕は医師なので患者さんにいちいち優劣の差をつけていたら、仕事になりませんから」
「撤回します──先生はやっぱり優しくない」
「要は、あなたと僕は同等だということです」
「……え」
「Appleミュージックで聴いてるんですか?」
「あ……いえ、YouTubeミュージックで──Appleだと好きなアイドルのソロカバー曲が聴けなかったり、YouTubeだとリピートできないから」
「どんなアイドルが好きなんですか」
「え……だって、桐生先生は知らないと思います」
「確かに……きみが聴いてたK-POPは有名だから分かったんだけど、他はさっぱり……あ、セブンティーンは知ってます」
「えっ、桐生先生が、セブンティーン?」
「名前をローソンキャンペーンで見ただけです……僕がいつも男性K-POPアイドルの曲を聴いてたら、なんだか怖いですよね」
碧が驚いたあとに、花が咲くような笑顔を見せた。この病室に初めて来たときから眉のあたりに皺を寄せた、しかめ面しか見たことがなかったので面食らった。いつも不機嫌な原因を作っているのは、自分が要因に違いない。
笑った顔がやけに大人びて見えた。不意に、早く学校に戻り、日常下で過ごせることを強く願った。
何しろこれまでのローテートで出会った患者は、殆どが高齢者か中高年、幼い子どもだった。生意気な女子高生など初めてだった。生意気でも笑うと愛らしかった。自然と桐生も笑みをこぼした。
「桐生先生って、私が好きなアイドルグループの推しに似てるんです。初めて先生を見たときに、えーって」
「オシ?」
オシ──オシとは一体なんだろう。アイドルの名前か?
「さっき笑ったでしょう? やっぱり似てる」
「へえ、それは光栄です」
適当に切り抜けることにした。
「桐生先生は、研修医二年目なんですよね? 何歳なんですか?」
突然目を輝かせ、身を乗り出す女子高生に圧倒される。さっきまでの陰鬱さはどこへいったんだろう。
「二十五歳です」
「若っ」
「輝元さんほどではないです」
「一年のときの担任が二十五歳オトコだったけど、同じ人間とは思えません」
「高校は……二年になってからまだ登校してませんよね、早く学校に復帰できるといいですね」
「べつに、行きたくないです」
「どうして? 友だちも心配してるでしょう」
「──そんなもの、いません」
たったさっきまで嬉々としていた表情が、学校の話しをした途端に青菜に塩のありさまだ。碧の顔をつい、まじまじと見た──面白い、瞬時にここまで変貌を遂げる人種など、滅多に身近ではお目にかかれない。さすがは現役女子高校生だ。
「学校が嫌いなの?」
「あんなに頑張って勉強して入ったのに、ひとつも楽しくありません……」
「理由があるんでしょうね、訊きませんけど」
「えっ、桐生先生って優しいのか冷たいのか、よくわからない」
「訊いて欲しそうですね」
「いえ、別に」
「良かった、そんなに暇ではないので」
「先生から訊いたくせに」
「輝元さんが、担任の話しを呈示したからです」
「……アイドルグループの話しは、撤回します」
「撤回が多いんですね」
碧が電動ベッドのボタンでリクライニングを下げると、掛け布団を被って潜り込んだ。
「輝元さん」
「出ていってください」
「そういう訳にはいきません」
「オニイサンとは、やはり相容れません」
「同等ですが相容れる必要性はありません、ちょっと触診させてください」
桐生が布団の端を引っ張る。
「も、やめて」
「みせてください」
「言い方がいやらしいです」
「診察で診るんです」
碧が布団の隙間から、長いまつ毛の下の瞳を覗かせる。
「お腹が張っていると言ったでしょう、診察させてください」
桐生がユニフォームのポケットに入れていた、聴診器を首にかけた。
「桐生先生は……嫌です」
「──輝元さん」
「多賀せんせいは?」
「今日は外来の日です」
仕方なく、桐生がまた布団を引っ張る。負けじと碧が強く引っ張り返した。
弾みで桐生の院内シューズが、オーバーテーブルの駒に引っかかった──布団を掴んだまま、桐生の身体がベッドに傾れ込んだ。咄嗟に、碧の上に倒れまいとベッドのパイプを掴んだ。何かが視界を掠めた。小さな顔の横に手のひらを付いた。しかし甲斐なく身体が碧に被さった。
「大丈夫か!」
桐生が大きな声をあげた。慌ててベッドから身体を起こした。
「お腹っ、大丈夫?」硬直して動かない碧から、掛け布団を引き剥がす。
「どこかぶつからなかった?」
何も言わない碧に狼狽した。動揺し、顔を近づけた。
「先生、血が……」
「え、どこだ、どの辺りだ」
「先生が……眉毛の横、切れてる……」
潤んだ声で碧が長い指を伸ばした。桐生がその指先を掴んだ。震えが伝わってきた。
桐生の口から、安堵のため息が洩れた。
「──俺は大丈夫、血は触らないで」
「ごめんなさい、怪我っ……怪我を……私はなんともないです、先生がっ」
碧が顔を歪めた。細めた瞳から筋を引いて涙がこぼれた。
「平気です、大丈夫」言いながら痛みが走った。ベッド上の何かで切れたのか、血がこめかみを伝うのがわかった。腕で拭うと、紺色のユニフォームに血が滲んだ。
「患者さんに血液が付着したら大変なので、ちょっと詰所に行ってきます。輝元さんは、ほんとうに大丈夫だった?」
「桐生先生、待って」
輝元碧はベッドから飛び降りると、病棟に備え付けのチェストからガーゼタオルを取り出した。
「これ、コレで押さえて」
「あ、構わないで、大丈夫です」
桐生の片腕を掴んだ碧が、切れたこめかみをタオルで押さえた。
「ごめんなさいっ、痛い? ──ごめんなさい、ゴメっ……」
しゃくりあげながら、碧が繰り返した。
染み込む血が気になり、タオルで押さえる碧の手の甲を掴んだ。背の高い彼女の歪めた眉の下の瞼から涙が溢れ、頬を伝った。あんまり泣くので、正直驚いた。小さな顔の濡れた頬に、髪の毛が張り付いていた。他にことばが思い浮かばなかった。床に落ちた聴診器を拾った。
「ありがとう、きみに怪我が無くて良かったです」
*
「気をつけろよ、術前だからな」
「申し訳ありません、以後気をつけます」
医局で多賀に嗜められた。出血の割に傷は浅かった。詰所の看護師がワセリンと抗生剤軟膏を塗って、大袈裟なガーゼまで貼ってくれた。念のため、碧はエコー検査を受けた。異常はなかったが、大失態だった。
「桐生、公私混同するなよ」
「まさか、まだ十六歳です」
「治療に関してだ」
「はい……勿論です」
桐生は自省した。しかし、治療に対して公私混同などした記憶もないし、今後だってするはずもなかった。役割りに応じて、適切な対応を取ったつもりだ──病室内での記憶を反芻させる。
脳裏で首を捻る桐生を尻目に、多賀が初期手術の詳細を述べた。
「術中迅速診断は、病変の良性ないし悪性の判定や切除範囲の決定などを目的として手術中に行う検査だ。病理組織診や細胞診、intraoperative consultation (術中に術者が病理医の意見を仰ぐという意味)だ」
多賀が脚を組み直し、ノートパソコンに視線を走らせる。
「手術中に行う組織検査で、手術で取れた卵巣腫瘍を瞬間的に凍らせて、顕微鏡で検査できる標本に加工する。これは、frozen section (フローズンセクション)と称されている。日本では凍結させるという意味の独語で、gefrierenからゲフリールまたゲフと呼んでいるんだ」
「摘出した腫瘍の中に、異常な所見がみつかった場合はどうなるんでしょうか」
「迅速診断に提出して、ここで初めてがんと診断される場合が稀にある。そういった場合には、予定していた手術よりも広い範囲の手術を行うんだ。しかし、いったんは予定どおりの手術にとどめておいて、最終的な病理診断を慎重に検討して、もう一度手術を行う可能性もある」
「術中の迅速診断の信頼性にかかっているんですね」
「そういうことだ。だが、術中に調べることができるのは腫瘍のごく一部だからな。迅速診断が最終的な病理診断と異なる場合も稀にある。例えば、がんであっても迅速診断で良性や中間型と判断される場合もあり得るし、また中間型であっても迅速診断では悪性にみえる場合もある。当然だが、あの子はこれから妊娠・出産を希望している。妊孕能温存手術を予定している場合には、迅速診断の結果を非常に慎重に考慮する必要がある。通常は、子宮や反対側の卵巣は残しておいて最終病理診断を待つということになるんだ」
「現段階で、腫瘍マーカーCA125、CA19―9、CEAや画像検査での所見は、良性腫瘍だと捉えていいんですよね?」
「現状ではだ。だがな、卵巣腫瘍には良性、境界悪性、悪性の三種類があるということを念頭に入れておけ」
「はい。多賀先生、一般に卵巣腫瘍の迅速診断は他臓器腫瘍と比べても難しい部類に属しているのに、その正診率は九〇~九五%というのが疑問です。この差異はなぜ生じるのでしょうか」
「卵巣境界悪性腫瘍の迅速診断の精度が、婦人科領域の中で最も低いからだ。正診率は六四~六七%だ。過小評価されることが、過剰評価されるより多いんだ。上皮性境界悪性腫瘍のうち、特に診断精度が低いのは粘液性腫瘍で、良性──すなわち過小評価される傾向が強い」
「境界悪性腫瘍──迅速診断では、良性と診断されがちだということですね……」
「そうだ。粘液性腫瘍の大部分を占める腸型粘液性腫瘍は、良性、境界悪性、悪性腫瘍が混在することが珍しくないために、主にサンプリングエラーによって診断精度が低くなることが指摘されている。病理医は迅速診断時に肉眼所見を詳細に観察し、より高度の病変が疑われる部分から標本採取するよう心がけることはいうまでもないが──」
多賀が言葉尻を濁した。
境界領域病変──。
あの花が咲いたような破顔と、桐生の怪我を心配し、とめどなく流した碧の涙が脳裡を掠めた。
あたかもそれは碧の病と同じかの如く、桐生の意識と潜在意識の境界領域より下に、サブリミナルメッセージを与えた。
あれは──ぜんぶ輝元碧の悲嘆じゃないか。彼女の境界線を、誰もが見逃していただけなんじゃないのか──。
「彼女……輝元さんの父親はなぜ、手術日当日にさえ付き添うことが出来ないんでしょうか。碧さんは、たったひとりで手術に望むんですか? まだ高校生なのに? 十六歳なんて、まだほんの子どもじゃないですか」
咎めるような口調で、多賀を言及した。椅子に座った膝のうえの無力な拳を握りしめた。
「言っただろ、公私混同するなと」
「こういったことも、含まれるんですか……」
「違うと思うか?」
「僕はただ患者はまだ未成年だし、親族がひとりも手術に付き添わないということに対して……理解が困難なだけです」
「いろいろあるさ。コロナが五類に移行になったとはいえ、院内の規制になにひとつ変化はない。皆ひとりで入院しひとりで手術を受け、退院して行くじゃないか」
「でも……幼い子どもたちや、高齢者や重病患者の全てが、それに限ったわけではありません」
「碧ちゃんの父親には、ICは厭というほどしてある、その心配なら無用だ」
多賀が、俯く桐生に告達した。
「おまえの眼で、彼女の病巣を確かめろ。おまえはなぜ、外科専門医のレジデントになったんだ。考えてもみろ、患者と相容れようとするな。言うまでもないが、外側から患者という患部に向き合え。いまおまえが思い煩ってることは、十年あと回しにしておけ」
「相容れるなんて、そんなつもりは毛頭ありません。自分は……患者を自分の手で救いたいだけです。外科医になり、執刀した患者が元気に退院していってくれたら──心魂に徹して、医業に捧ぐことができたら……他には……いまはまだ、それ以外考えたこともありません」
多賀が、桐生の肩を痛いくらいに叩いた。
「脳外科教授の御子息という肩書きを捨てたいから──なんて言われたらどうしようかと思ったよ。おまえには期待してるんだ」
「勿論、それこそ論外です──」




