功罪
またひとつ欠落した。たぶんもう、埋まらない。
床の拭き取りが終わった時点で、消え失せそうな精気に抗った。
前屈みでバスタオルに含ませようとしたとき、血溜まりの中に白いものを見た。指で摘むと折れた数本の歯だった。首の筋肉が強張った。
両手で血溜まりごと掬い上げ、シンクで洗い流した。震える指で、手のひらに乗せた歯を撫でた。吸ってばかりで吐ききれない息に喉元を掴み、その場に蹲った。
生ぬるい風が吹き上げていた。晩秋だった。電車の振動が伝わる。ベッドに横たわった自分の上から覗き込んできた面持ちが、子どものようにあどけなかった。綻ばせた口元から、白い歯が見えた。
その全てを奪った自分を赦免できる手立てなど、何一つ有りはしない。わななく唇を手の平で覆う。身体中に帯びた死の匂いと一体化し、もはや他の臭気を微塵も嗅ぎ取ることはできない。
果物ナイフを新聞紙でくるみ、フリーザーバッグに入れた。更に黒い袋で重ねあげる。折れた歯はティッシュに包んだ。涙の靄が視界に膜を張っていく。枯れた指を動かしてみる。その後の行為が曖昧だ。でも、それで丁度いい。首を振り、残った記憶を削ぎ落とした。不意に吐き気を催し、シンクに顔を伏せた。うなじから冷たい汗が流れて、耳のうしろに沿う。
全てが終わり、時計を見た。灯取りの向こうは白い闇だった。パントリーの引き出しの奥に手を突っ込んだ。干上がった喉に、ペットボトルの水で流し込んだ。座り込み、キッチンカウンターにもたれかかると両膝を引き寄せた。外れた枷の代償に手脚が鉛のようだ。虚無に身を委ね、寄り縋った。
転がった携帯を手繰り寄せた。ひとつだけ、最後にひとりだけ連絡をしたいひとがいた。しかしそれをアクトすれば、四つの約束の内のひとつを破り大いなる嘘になる。血が眼の中に飛び散ったままの視野に向かって、目をしばたいた。
あれは今日のことなのか? はやる気持ちを押さえ、帰路を急いだ。壁のカレンダーに目を向ける。近時の出来事がごっそりと根こそぎ持ち去られていったような、感覚に包まれる。
手から携帯が滑り落ちた。画面に指で触れ、鳴らない電話を切った。その行為が、この人とのぜったい的な別れだった。
枯れたはずの涙が、堰を切って溢れた。疲弊と寝不足が相まって、深い睡魔に襲われた。
──音がする。何だろう、いまこの時間軸は。自分は何かしたかったはずなのに。夢寐にも忘れないことがあるはずだ。
インターホンのチャイムに反応した身体が、跳ね上がる。まずい、いま何時だ。
咄嗟に時計を見た。たった三十分だった。胸を撫で下ろす余地のない、二度目のチャイムが鳴り響いた。静寂を破るその音が、耳を聾する。
こんな時間に、ここに来るはずのない誰かが、エントランスの呼び出しボタンを押している。ゴクリと唾を飲み込んだ。おもむろに起き上がった身体が、冷たくなっていた。
インターホンに近づいた。白い闇を背負い、燐光を帯びる人物に目を凝らす。深く被られた帽子に隠された顔は、性別さえも分からない。
やり過ごすべきか──しかし呼び出し音が、多少なりとも両隣に響くのではないか。何かの拍子で警察にでも通報されたら、全てが水の泡だ。
四度目のチャイムで通話ボタンを押した。空気と風を切る音の中に、人の息遣いが重なった。
「……分かりますか」
カメラを凝視する。
「いま……話せますか」
この状態ではまずかった。声を出せば、会話が外に筒抜けだ。仕方なくエントラスのロックを解除して、玄関ホールで待つ。しばらくすると人の気配がした。扉のドアスコープから、再度確認した。間違いなくひとりで立っている。
鍵を開け、ドアガードをしたまま、僅かに扉を開いた。