終焉
美佐子は最近健太からの電話が減ったと感じた。每日あんなに時間を惜しんで話していたというのに。そんなに忙しいのだろうか。契約が取れないプレッシャーでもあるのだろうか。健太は優秀な営業マンであまりプレッシャーを感じなさそうなタイプだけども。每日の子育てや仕事の上にあの事故を起こした樹里のことで手一杯なのかも知れない。健太との時間を優先するあまり、陽菜が学校で自傷行為をした時に迎えに行けなかったり、陽菜の合宿の日程を知らなかったり。私は母親失格だわ⋯。でも私だって話を聞いてくれる人が欲しかった。俊介じゃなくて。私自身を認めてくれる人に。その俊介が建ててくれたこの家に一人でいるととてつもなく広く感じた。当時階段のない平屋に俊介は異様に拘っていた。階段は危ないからと、平屋の勾配天井がこの家の最大の魅力で開放感があるがそれが今では広すぎる効果を生み出している。救いはモカだった。ワン!とおやつをねだる。お手とおかわりをしてからご褒美を。陽菜はモカのトリミングをしてあげたいからとトリマーになりたいと言っていたのに⋯いきなり看護大に行きたいなんて。頑張ってるのはいいことだけど。体調崩さないかな⋯母親らしいことを最近出来ていなかった。ごめん、陽菜。
「健太、浮気してんでしょ?」真由美が健太の背後からいきなり声を掛けた。
「えっ?そんなのしてないよ。なんで?」
わざとらしい返し方だったろうか。バレてないはず。
「早く子供たちをお風呂に入れて。」
真由美は浮気の事に返事はせず、子供を風呂に入れるよう急かした。普段スーパーのレジ打ちで客から急かされるのであろう、いつも早く何かをこなしたがる。子育て中は時間が嵐のように過ぎ去るとはこのことだ。子供たちを風呂に入れ、ご飯を食べさせ、寝かしつけるときには絵本を読み聞かせるも自分が寝てしまい絵本が手から滑り落ちて自分が寝落ちしていたことに気づく状態。あぁ。これから書類の整理もあったのに。子供たちが寝静まった頃、真由美が感情を抑えた声で
「浮気相手とは早く別れなさいよ。子供たちまだ小さいんだから。」
「そんな、浮気なんてしてないよ。」
真由美からは返事はなかった。絶対にバレてないはずなのに。すると真由美が何か写真?と書類の様な紙を投げてきた。それは、紛れもなく自分が美佐子とホテルに入るところを隠し撮りした写真で、書類には健太が行動した日時と内容が事細かく記載されていた。
「興信所でも使ったのか。」
「あたし、この女に会って別れて、って言って慰謝料ふんだくってやるんだから!こっちは真面目に仕事して子育てしてんのよ。私は悪くない。それでなきゃ離婚よ。離婚!慰謝料と養育費は払ってもらうから。」
冷や汗がでて心臓がバクバクしてきた。指先が冷たくなる。
「ごめん。済まなかった。だけど彼女に直接会って言う、っていうのは勘弁してくれないか。実は彼女の娘さんが自傷行為をしたらしくて⋯。」
興奮状態の真由美は黙り込んだ。
「だからって浮気していい理由にならない。」
その通りだった。
佐野真由美と名乗る人物からいきなり美佐子宛に電話が掛かり、会って話がしたいと言われた。電話番号をどうやって調べたのだろう。そして真由美は佐野健太の妻だと言った。自分が起こした物事の重大さに漸く気付かされた瞬間だった。
少し騒がしいチェーン店のカフェを指定された。隣との席が近くて会話が筒抜けだ。真由美はちょっと若作りしている服装、髪は茶髪。ディズニーキャラクターのトートバッグを肩から下げていた。恐らく興信所で調べあげ入手したと覚しき写真や書類をカフェテーブルに投げ広げる真由美。それらは健太との情事や密会を証言するには十分な証拠だ。あの時撮られていたなんて。全く気が付かなかった。
「これ、あなたですよね。」
これだけ証拠が揃っていてとぼけるのはわざとらしいだろう。
「ごめんなさい。」
頭を下げた。
「でももう最近は健太さんとはお会いしていません。電話にも出て貰えなくなりました。距離を置かれているようです。」
真由美の視線が刺さる。怒りを抑え込んでいるのだろう。
「あたしはあなたを許せない。健太のことも。だけどまだ子供たちは小さいし、離婚してシングルマザーやっていくってのは現実的じゃないと思ってる。健太の事は許せないけど離婚したいほど嫌いな訳じゃない。子供たちの父親だし。あたしたち、高校の時からずっと付き合って結婚したから。だから、あなたはもう健太に会わないで欲しい。そっと、静かに消えていなくなって!健太を本当に思ってるなら私たちと子供たちの事を考えて欲しいの。あなたも母親なんでしょ?娘さん居るんですよね?裁判沙汰にしたりするのは私だって本望じゃない。慰謝料とかそういうのも。だから、私としては〈もう健太とは二度と会わない〉とサイン書いて貰いたいのと、掛かった興信所代30万貰いたい。パート代から興信所代を工面するのも大変だったんだから。」
真由美の言葉全てが正論だった。真由美の希望を飲むしかないのだろう。
「一筆書くのは出来るけど、私のパートの給料では30万円はとてもじゃないけどすぐには用意できないわ、ちょっと時間をくれないかしら。」
「じゃあ、とりあえずサイン書いて。」
真由美はA4用紙にキャラクターのボールペンを乗せた。先程のトートバッグと同じキャラクターだった。A4用紙にはWord文書と思われる文字列があった。
キャラクターのボールペンを握る手に力が入らない。
佐野真由美殿
本日を以て佐野健太氏と金輪際会わないことを約束します。万が一、今後佐野健太氏と接触(対面、電話、メール、SNS等あらゆる手段を含む)した事実が判明した場合、違約金として金100万円を即時に支払うことを約束します。本約束に違反した場合、貴殿が被った精神的苦痛に対する慰謝料請求、および法的措置を講じることに一切の異議を申し立て致しません。本件に関し、今後佐野健太氏に対して求償権を行使しないとを誓約します。
もうサインするしか道がないだろう。もう健太とは会えない。未来がない愛だとは気づいていた。こんな形で終焉を迎えた。あっけなかった。真由美は誓約書のみをトートバッグに入れ席を立った。また連絡する、と捨て台詞を吐いて。
テーブルの上に散らばった証拠類をかき集めた。隣のテーブル客の視線が刺さる。写真に写っているのは健太をうっとり見つめる間抜けな自分。バカみたい。
「ママ、まだ彼氏と続いてたんだ⋯」
後ろから聞こえたのは、恐らくカフェで模擬対策の勉強をしていたと思われる陽菜の冷ややかな言葉。イヤホンを外しながら呟いていた。バカが愚か者になった瞬間だった。




