過去形
俊介は持参した和香の入院荷物を解いた。眼鏡ケースからあの事故を経て無事だった丸眼鏡を取り出し「無事だったよ。」と和香に見せた。眼鏡がないから今まで良く見えなかったかな?他にもタオルやコップ等の日用品も取り出した。
看護師が面会終了の時間が近づいていることを知らせる。また、来るからねと伝えて退室した。
「先生、ちょっとびっくりしましたか?和香さんいつも元気だから⋯。」
俊介が大輝に声掛ける。
「はい、母親のああいった姿は流石に初めてです。でもこっちが言ってることは解ってるみたいで⋯。」
陽菜も頷いている。
病院を出た頃漸く美佐子から電話があり、仕事で出られなかった事を詫び、学校に電話したら俊介が陽菜を迎えに行ってくれたと知りごめんね、と詫びた。
「仕事、忙しいんだね?陽菜は大丈夫だよ、今日は僕の所に泊まるから。大丈夫。」
とだけ伝えて電話を切った。
大輝からは金銭的な心配をする申し出があったが今はまだ手付金しか払っておらず、保険で後から返してくれればいいからと伝えた。黒猫達も面倒みているから大丈夫だと安心させた。大輝は帰りはアパートまで歩いて帰られるとの事で僕に何度も頭を下げ、ここで別れた。
陽菜は帰りの車の中で助手席に座った。先程まで大輝が座っていた場所。それすらも愛おしいのかい。座った太ももとシートの間に手を入れ掌全体でシートの感触を感じ、もう残っているはずもはない大輝の温もりを探しているのか。
「あの人⋯和香さん?左腕に傷があった。」
太ももの下に手を入れたまま陽菜が言う。
「そうだね。」
「もしかして、リストカットかな?」
何と答えたらいいのか。しかし、それを否定し事故の傷かも?なんて下手にとぼけるのもわざとらしいか。
「そう。和香さんもリストカットしていたらしい。でも過去形。」
「過去形⋯。」
陽菜は呟く。
「でも、家を建て替える事を決めて僕と出会ってからもう切っていないそうだ。だから僕は和香さんの力になりたいと思ってる。あの人は自分で立ち直ろうと努力しているよ。」
あえて陽菜に自傷行為はやめろ、と言うのはやめておいた。
「今日は疲れたろう。夕飯食べてお風呂入って寝よう。もうすぐ夏休みだ。それから和香さんの黒猫がいるんだよ、2匹。猫は面白いね。モカも元気にしてるかな?」
「うん。元気。この前トリミングしたばかり。」
この時陽菜は高校卒業後の進路をトリマーの専門学校に行きたい、と言った。俊介はいいね、学校は近くにあるのかな?と返事をした。
俊介はこの頃から仕事は家で出来るものは出来る限り在宅に切り替えた。これから和香が退院しても右手が使える様になるまでは暫くマンションで隣にいた方がいいだろうという判断と和香の黒猫達の世話も気になる。夏休みに入った陽菜には今まで通り美佐子と家にいてもいいし、俊介のマンションで過ごしてもいいと伝えた。和香の部屋とは別に陽菜用に一部屋確保しておいて良かった。
数日後、俊介が病室まで行くと和香は酸素マスクは外れベッドで端座位になっていた。明日からは尿バルーンも外れもう歩いてトイレに行くつもりだと教えてくれた。和香がちゃんと自分の言葉で説明してくれた。眼鏡を左手で自分で掛けたのだという。着実に快方に向かっている。良かった。和香は大輝と同じく金銭的な心配をしてくるので保険で後から返してくれればいいと伝えた。親子だな。それから黒猫達は僕がちゃんとごはんをあげているしトイレの掃除もしているから大丈夫。仕事の事も施設長の貞子さんに話しているから心配するな、と伝えた。和香は泣いて左手でその涙を拭った。
「泣かないで大丈夫。早く退院しよう。明日からリハビリだね?明日は午前中来れるから。10時半。」
和香の顔の擦り傷は大分良くなっていた。
翌日、病院に到着して駐車場から和香の病室を見上げると窓際に和香がいて左手を振ってくれた。時間を前もって伝えておいたから待っていてくれたのかな。僕も振り返す。今行くからまってて、と。病室に到着すると看護師がバルーンを引き上げていた。もう和香に管は付いていない。数日間でも寝たきりを味わった和香は歩いてみようとする。
「じゃあここまでおいで。」
数メートル離れて僕は立ち、両手を広げた。
「よしっ。」
力強く返事をした和香、ゆっくり立ち上がり僕に向かって歩く。一歩一歩踏みしめて。僕に近づき胸に飛び込んで来た。
「歩けたー!」
あの躯体の中で何度も抱き合った時とはまた違う感情が沸き上がった。ふたりで喜ぶ。隣で見ていた看護師もニコニコ顔だ。抱き合っててもこの場面なら許されるかな。陽菜が初めてよちよち歩き出した頃のような。何だか懐かしさもあり。不思議な感覚だ。でも素直に喜んでいいんだ、和香。




