未完の躯体
僕は宗像さんに電話をした。残業しなければ今日はもう終業時間のはず。
「宗像さん、今から現場に来て頂けませんか?とても大事な話をしたい。」
僕のただならぬ声に動揺したのか、宗像さんは仕事を切り上げて向かうと言ってくれた。
宗像さんの建物は既に基礎工事は終わり柱と梁が組み上がった状態にまでになった。職人たちは今日の作業は終わり撤収していた。宗像さんはまだ到着していない。夏のこの夕方から夜にかけ、暮れなずむ時間帯に仮の照明を点けた。僕の車はコインパーキングに停めたから照明があれば僕が所在していることが判るだろう。
宗像さんは程なくして来てくれた。職場から直行だと判るユニフォーム姿、通勤に使っている自転車に跨り自転車用のヘルメット。
「宗像さん。ごめん。急に呼び出したりして。」
「あっ⋯いえ⋯そんな⋯。」
宗像さんのちょっとびっくりしているような、戸惑っているような表情。僕は宗像さんを困らせたくないのに。
「矢田から冷蔵庫のコンセントの位置を上げると連絡があって⋯。」
いや、本当はこんな事を言いたいんじゃない。
とりあえず彼女を冷蔵庫置き場まで案内し、位置をポインターで示し確認してもらう。
「あぁ。10センチ上げるって事ですよね。」
なぁんだ、そんな事か!といった感じのホッとした表情の彼女にちょっと笑顔も見られた。
「うん。そうなんだ。」
正直言うとこの時の僕はコンセントの位置なんてもうどうでもよく、寧ろ話すきっかけでしかなく。
「矢田が⋯」
何と切り出したらいいのだろう。
「矢田さん?」
宗像さんはヘルメットを外しながら尋ねる。
矢田より先に自分から告白をしたい。矢田に宗像さんを渡したくない。と言おうとして飲み込んだ。こんな時に矢田を引き合いに出したくない。間抜けな自分にほとほと愛想を尽かす。
でも宗像さんの気持ちはどうなんだろうか。一番大事な彼女の気持ち。
「僕は宗像さんと一緒に暮らし始めて、もう生活の一部いや僕の人生の一部でかけがえのない存在なんだ。だから⋯。」
僕たちは互いに見つめ合った。到底逸らすことは出来ない。彼女は僕の次に発する言葉を待っている。意を決して。
「だから、これからも一緒にいたい。この家が完成しても。ずっと。」
これが今の僕の本心だ。
「宗像さんの、気持ちを教えて欲しい。」
言ってしまった。
随分僕たちは長い時間を瞳を逸らすことができず、互いの気持ちを視線だけで確かめ合っていた。僕の目を、僕の右目と左目の瞳を交互に何度も何度も視線だけで往復させ、僕の本心を見抜くような見透かされそうなその宗像さんの眼差しの動きに僕は釘付けになる。そして、その瞳はみるみるうちに潤い、その潤いが溢れそうになるも時間はそれを受け入れずに留まる。
「私は⋯私は、宮島さんはもう分かってると思いますが、自分を切ってしまいます。リストカットです。」
瞳の潤いは留まることを許さず、時間はそれを漸く受け入れ瞳から涙となり雫となり溢れ落ちた。最初に右目の目尻から、その直後に左目から。
宗像さんは半袖のユニフォームの下にあるアームカバーを片手ずつ、ゆっくり外した。右利きの彼女が刃物を持って左腕前腕から上腕にかけつけたのであろう無数の切り傷。肥厚性肥大したものも萎縮性瘢痕したものもあった。夥しい数。こんなに彼女を苦しめているものの正体は一体何なのか。教えてくれ。
「でも、んんっ、私は宮島さんと出会ってから⋯切ることから距離を置くことが出来ています。もう切っていません。」
泣きながら、でもしっかりと伝えたいという彼女の意思が伝わった。
「それから、ずっと止まっていた生理も再開しました。宮島さんと一緒に生活を共にし始めてから。だから、だから、私にとって⋯」
宗像さんは両手で涙を拭いながら、激しい嗚咽と共に一瞬瞼を閉じ、それから一気に開眼し
「私にとって宮島さんは、あなたは、私の人生になくてはならない、かけがえのない人です。⋯こんな事を言ってごめんなさい。」
僕はもう気持ちが高ぶり、宗像さんを引き寄せて抱きしめ、胸の中にすっぽり囲っていた。
この骨組み、今しかこの形を留めて置くことができない未完成の、そして不完全なものの中で明日にはまた違った景色と表情になるこの未完の躯体の中で僕たちは長い間抱き合い何度も瞳を確かめ合った。
日が漸く落ち、辺りが暗くなってきた所で宗像さんの現場で巻尺を忘れた事に気づき矢田は引き返した。宗像さんの土地には車は停められないため近くのコインパーキングに停めた。あれっ?宮島さんの車もある。来てるのかな。もしや俺のコンセント位置の提案を再確認でもしてるんだろうか。俺が宮島さんを論破するなんてそうそうない。逆は今まであったけど。会ったら何ていうかな。ちょっと楽しみだ。ちょっとの距離でも歩くと汗が噴き出る。帰ったら一番にシャワーを浴びよう。そんな事を考えながら現場に向かうと照明がつけっぱなしになっていたようだ。職人の奴ら、もうあれほど言ってあるのに。消し忘れたか。明日注意してやる。それともやっぱり宮島さん来てるのかな。そんな事を考えながら進むと照明で照らされたふたりの人間の影が浮かんだ。えっ?宮島さんと、まさか宗像さんもいるのかな?その影はやはり宮島さんと宗像さんのようで。そして宗像さんの声。泣き声のような、でも悲しい感じではなく。俺はドキドキしながら。するとそのふたつの影は抱き合いひとつになり、その後長い時間見つめ合ったり抱き合ったりを何度も繰り返していた。ふたりはお互いを確かめるように。互いの愛を。
俺は立ち入ることができずにコインパーキングへ引き返すしかなかった。音を立てず引き返すしか。




