理性と静止
俊介が自宅の書斎で完璧な構造計算をしている最中だった。陽菜が「パパ⋯」と入ってきた。
「陽菜??どうした?」陽菜の泣きそうな顔。学校で何かあったのだろうか。もしかして⋯いじめ?
「パパ、忙しいの?」これはちゃんと話をした方が良さそうだ。メモ書きしていたペンを置き、ひとまず陽菜に向き合う。
「パパたち、りこんするの?」
⋯えっ?娘は何を言っているのだろう。とりあえずいじめではなかったが離婚という語句を瞬時に理解出来なかった。何故娘の口からこんなワードが。もしかして聞き間違いかも知れない。
「離婚??誰がそんな事を言っているのかな、離婚なんてするつもりないよ。」
ヤブから棒に何なんだ。しかし陽菜の話を聞くと美佐子には男がいて、離婚したがっている旨の電話の会話を陽菜が聞いてしまったのだという。そんな会話を娘に聞かれて恥ずかしくないのか。それでも母親なのか。恥を知れ。娘をこんな気持ちにさせて。他にも僕があたかも美佐子をコントロール下に置き美佐子の人権を軽んじているという内容もあったそうだ。美佐子が言っているのだろうか。そんな支配欲で美佐子を操っていない。美佐子が喜ぶであろうことは全てやってあげている。サロンだってネイルだって⋯陽菜の学校行事にはなるだけ参加しているし自治会も近所付き合いも⋯美佐子の両親や兄妹に対しても抜かりはない。
陽菜が寝静まった頃、美佐子と対話を試みた。
家族の団欒を何度も考えて勾配天井にした開放的なリビング。陽菜が生後間もない頃夜泣きが酷くて夫婦で交代であやしたこともあった場所。自分が最も拘った場所が夫婦のこんな対話の舞台になってしまうなんて。皮肉なもんだ。
「陽菜に君の電話の会話を聞かれていたようだ。」
怒りを極限まで抑え込みながら発すると声が思うように出ない。掠れる。この喉の奥の閉塞感から逃れたかった。
「何の事?」
美佐子は真っすぐ見つめてきた。
「とぼけるのか?」
こんな状況で何故そんな台詞が出てくるのか、理解に苦しむ。
「男がいるのか?僕と離婚したいのか!どうなんだ。」
思わず握拳に力が入る。
「全て君の為にやってあげているだろう。家のことも金のことも。陽菜の事にしても、君の両親に対してもだ。」
僕は悪くない。こんなに美佐子にやっているのにわからないのか。
「あなたはいつもそうやって自分は全て完璧にやっている。文句ないだろうって私に言うけど、私だってひとりの人間なのよ。あなたの型に無理矢理はめ込まないで。私の意見や気持ちを一度だって聞いてくれたことはないじゃない。全てをこうだと決めつけて押しつけるのよ。私は何度もあなたにお願いしてるのに。」
「だから浮気したのか?他の男に?」
そいつは美佐子の話をうんうんと頭でも撫でて聞いてやるのだろうか。
「浮気なんてそんなんじゃない。私はあなたと真剣に離婚を考えています。」
この怒りを鎮めたい。もっと落ち着いて話し合わなければ。声を荒らげれば陽菜に聞かれてしまう。陽菜をこれ以上傷つけるのは本望ではない。
握った拳を広げ冷静を試みる。その掌を振り上げ美佐子に振りかざしそうになるが理性で静止した。最も人間としてやってはいけないことだ。言いたいことは沢山あるが明日も早くから仕事がある。
「今日はとりあえず寝よう。明日は早いし陽菜も学校があるから。」
夫婦のことに陽菜を巻き込んではいけない。この時はまだ美佐子と修復可能だと思っていた。美佐子の離婚願望も一時的なもの。そう思い込んでいた。




