03.気付かなかった恋心
だが、事前に集めさせたアナスタシア姫の情報を精査すればするほど、彼女は非の打ち所のない完璧な存在としてフィラムモーンの心に強い印象を残した。
彼女はまず間違いなく、このイリシャ連邦の次世代最高の存在であり、他国に嫁に出すのではなくアカエイア王国内で重用すべき人材だとしか思えない。
無論、アカエイアには彼女の兄で現王太子のヒュアキントスがいる。彼もまた次代の王として認めるに足る能力と実績を示しているから、アナスタシア姫が兄を差し置いて女王となる未来など、よほどのことがない限りあり得ない。
だが、それでも。
「姫がわざわざカリトン陛下に嫁ぐことを望む理由とは、一体なんなんだろう……」
アナスタシア姫はこれまで、ごくプライベートな旅行など以外ではアカエイア王国から出たことがないという。そしてカリトン王も、生まれてこの方マケダニア王国外に出たことがない。新年祝賀の祝いに、アカエイア王宮にヘレーネス十二王家当主が集い連邦王に挨拶する慣例ですら、国内の政情不安を理由に名代を立てて済ませることを認められているのだ。
つまりアナスタシア姫は、一面識もないカリトン王に嫁ぐことを自ら希望したのだ。それもおそらく、王が『“悲劇の公女”オフィーリア以外を娶るつもりがない』と言っていることを分かった上でのことだろう。
この婚姻はカリトン王の方には多大な益がある。だがその一方で、アナスタシア姫の方には見るべきメリットが見当たらない。それなのに、乗り気なのはどう考えてもアナスタシア姫の方なのだ。その疑問と違和感が、フィラムモーンの興味をアナスタシアへと向けさせた。
ミエザ学習院のフェル暦678年度入院式。在院生代表として新入生祝辞を述べたフィラムモーンは、会場である大講堂をまんべんなく見回すフリをしつつ、ずっとアナスタシア姫の様子を窺っていた。彼女は物怖じする様子もなく堂々として、新入院生として答辞を担当したサモトラケー公爵令嬢エンデーイスの嫌味にも、なんら動じた様子もなかった。
それがまた、彼の興味を引いた。
それから、フィラムモーンは積極的にアナスタシアとの関わりを増やしてゆく。最初の顔合わせのあと、二回生のハラストラ公爵令嬢テルクシノエーとサロニカ伯爵家のテルシーテースに絡まれていたのを仲裁したことに始まり、あくまでも先輩と後輩、学生会長といち学生としてではあるが、院内では親しく声をかけ合う仲になるまでさほど時間はかからなかった。
陽誕祭の祭主を務めた晴れ舞台もアナスタシアが見ていると思えば気合が入ったし、目を輝かせて見入ってくる姿をチラリと見て心中ひそかに快哉を叫んだものだ。
誇り高きヘレーネス十二王家の公子として厳しく躾けられてきた自分に、これほど子供っぽい一面があったなどと、我がことながら初めて気付いたフィラムモーンであった。
そしてまた、彼女が学友の平民オルトシアーの実家である農場を訪問した帰りに襲撃されたことを知って、大慌てで参内し見舞ったこともあった。それが実は、襲撃から半月あまりも自分に知らされていなかった事実を知って、フィラムモーンは父に激しく抗議したものである。
いつの間にか、彼女の姿が頭から離れがたくなっている。ミエザ学習院が暑季の休校中で、院内で気安く顔を合わせられないことも一因にあるのだろうが、それを差し引いてもこれほど異性を気に掛けたのは初めてのことだった。
「フィラムモーンさまは、アナスタシア姫に恋慕されておられるのですわ」
そしてソニアにそうハッキリと断言されるまで、そのことに自分自身全く気付きもしていなかったフィラムモーンである。
「……僕が、姫に、恋慕を?」
「左様でございます」
アポロニア家とカストリア家の定期交流という体で続いているソニアとのお茶会。今は彼女の兄ヘーシュキオスがアルヴァイオン大公国の賢者の学院に留学している関係で、フィラムモーンの姉リパラーも同席を遠慮しているため、事実上ソニアとふたりだけの私的な時間になっている、その席で。
婚約するのだろうと長年考えていた相手から、違う女性に恋していると指摘された彼の心中はいかばかりか。
「だ、だが、僕は」
「カリトン陛下の養子となって、王位をお継ぎになるのですわよね?」
「……えっ?」
「フィラムモーンさまが王位継承権をお持ちであること、十二王家の一員としてわたくしも当然知っております。ご婚姻なさらない陛下の次代を考えるにあたり、御身を措いて他に誰がおりましょう」
カリトン王の養子となって王位を継ぐ。それは確定した話ではなく、まだ正式な打診さえ受けていない。現状ではただアナスタシア姫を口説けと言われているだけで、首尾よく口説き落とせればそういう事になるのだろう、という漠然とした推測があるだけである。
「フィラムモーンさまがアナスタシア姫と婚姻なさり、そしてマケダニアの王位をお継ぎになる。姫もそのおつもりで、ミエザ学習院に進学なさったのではありませんか?」
ああ、なるほど。言われてみれば確かに第三者にはそう受け取れるのか。
つまり、ソニアの目には以前から話が水面下でまとまっているように見えるのだ。事前にアナスタシアがマケダニア入りして、フィラムモーンと学生生活を共にすることで仲を育んでいると。彼女と正式に婚約すると同時にカリトン王への養子入りも発表されて、数年後には譲位を受けてフィラムモーンが新王、アナスタシアが王妃となるのだと。
そう考えればアナスタシアがマケダニアに、わざわざミエザ学習院に進学して来たことにも説明がつくわけだ。
そして、困ったことに大筋で外れていないのだ。ただ順番が前後しているだけで、予想される結末は同じなのだから。
悪いことに、詳細を話す許可を与えられていないフィラムモーンの一存で、ソニアに全て話していいものか咄嗟の判断がつかない。だから誤解だと釈明もできなかった。
「……僕は、貴女と婚約するものと思っていた」
ようやく絞り出せたのは、それだけ。
「ええ。わたくしもそう信じておりました」
ソニアも同意を示してくれて、想いを同じくしていてくれたことに安堵して。
「ですが、アナスタシアさまは素晴らしい方ですもの。まだ数ヶ月ほどしか経ちませんけれど、お側に侍っていれば分かります。あの方であればフィラムモーンさまにも相応しく、そしてマケダニアの次期王妃にも申し分のない方だと存じます。わたくし、おふたりを応援しておりますわ」
そして絶望の底に叩き落とされた。
いやそもそも、何故そこで絶望しなければならないのか。
そこに思い至って初めて、フィラムモーンはソニアのことを好ましく思っていたことに気がついた。
ソニアへの気持ちに気付かぬままに、フィラムモーンはアナスタシアに恋をした。しかもあろうことか、そのソニアに指摘されるまでそのことに気付きもしていなかったのだ。
なんと鈍感だったのだろうか。そしてどれほど薄情だったのだろうか。女性に対する気遣い気配りは恋多き陽神に仕える神官家の家訓として叩き込まれてきたはずなのに、これでは神にも顔向けできぬではないか。
「わたくしのことは、お気になさらず」
ソニアは穏やかな笑みをたたえたままで、無理したり強がったりする様子は見受けられない。
「大好きなおふたりが幸せになってくださるのならば、わたくしも応援のし甲斐がありますもの!」
「…………貴女は、それでいいのか」
苦し紛れに漏らした呟きに、ソニアの顔が一瞬、真顔になった。
「……それをお聞きになられますの?」
これは明らかに失言であった。
マケダニアの臣下として、支持基盤の脆弱なカリトン王を支える親王派の双璧でもあるアポロニア家とカストリア家が、その子女たちが、何を是として何を成すべきか。ソニアに分からぬはずがないし、フィラムモーンもそれは同じことである。
つまりカリトン王がそれを望んでいる以上、フィラムモーンにもソニアにも選択肢などないのだ。なにより、親王派の双璧が意見を異にしてしまっては反王派を利するだけ。
「……そうだね、今のは僕が悪かった」
フィラムモーンは全面的に非を詑びて引き下がるしかなかった。
このうえ彼にできることと言えば、ソニアを諦めてアナスタシアを口説くことだけである。




