魔法にかけられて、夏
突然、5・7・5のリズムでしか言葉を発せなくなった。理由は分かっている。通りすがりの魔導士に魔法をかけられたからだ。しかも、
「ベアトリクス=カミッラ=キャンベルだな」
と、まるで天敵を見つけたかのような至極それらしい言葉を発しながら魔法をかけられたのだが、私はベアトリクス=カミッラ=キャンベルでは無い。完全なる人違いである。
魔導士の持っている杖から、積乱雲のような紫色の稲妻が私の身体に飛んで来た瞬間、座る姿は牡丹、立てば忽ちうどの大木だと言われた淑やかで無能な私は5・7・5で言葉を話すリズムカルな人間になってしまっていた。逆を言えば、5・7・5でしか言葉を発せず、発言の度に頭を悩ます羽目になってしまったのである。
「何をする! 困るんですが! 人違い!」
慣れない575に戸惑い、頭の中で575を組み立てて漸くそう口に出した時には、その魔導士は霞のように姿を消してしまっていた。仙人か…?!
「如何しよう 如何すれば良い?! 絶望だ…」
涙目になりながら、兎に角この魔法を解いてもらわなければ! と、かかりつけの魔導士の元を訪ねると、齢39歳、この近所では腕利きの魔導士だと評判の先生が、
「申し訳ないけれど、僕には解けない」
と、ハッキリと告げた。そんな…と絶望していると、私の顔色を見て心情を汲み取ったのか、
「かなり高度な魔法なんだ。魔法陣も複雑で、解読が難しい」
と、私のお腹に刻まれた錬成陣を見ながら続けた。
「如何すれば 私これから 如何すれば…」
「1人、優秀な魔導士を知ってる。10歳で国立クラベル魔導大学に入学して、2年で薬学魔導博士と修士、医学魔導博士と修士の国家試験に同時に受かった大天才だ。ただ、かなりの変わり者で、的確な言い方が難しいが、かなり気難しい」
10歳でクラベル国立魔導大学に入学した大天才。先生の言葉を頭の中で反芻して、驚く。国立クラベル魔導大学とは、この国最高峰の大学だ。卒業生は、漏れなくこの国の要職に就いていて、入学試験の難しさと卒業試験の厳しさでも知られている。その試験に10歳で合格するなんて…。俄には信じ難い事実に絶句していると、
「紹介状を書くから、あとは、君が直談判してくれ」
と、机の上に先生が紙を広げた。えっ?! 先生から話を通してくれるんじゃないの?!
そんな気持ちで先生を見つめ返すと、察しが良い先生は再度私の気持ちを察してくれたのか、
「彼は魔導士が嫌いなんだ。僕から頼むと絶対に断られるからね」
と、先生が告げた。
そうして、先生が書いてくれた紹介状と地図を頼りに、私はその大天才の魔導士の家へと向かった。てくてく街を歩いていると、彼方此方から虹色のシャボン玉が飛んで来た。割れずに目の前に漂っていた円球を目で追うと、不意に風に舞い上がって、建物の2階部分へと虹色を煌めかせたまま上がっていった。その先に、建物から建物へと飛んで移動している人間がいる。魔導士だ。
この国は、魔導の力で成り立っている。
政治を担うのは、この国が出来た時から代々続いている王家で、魔導士を政治と国防を司る中枢に集め、彼らを統べる事でこの国の安定と発展を担って来た。
勿論、一般市民も少なからず魔力があり、多少なりとも何かしらの魔法が使えるが、中には全く魔法を使えない人間もいた。私の事だ。
こんな風に地道に地面を歩く人間なんて、この国には殆どいない。魔力のコントロールが出来ない子どもか、認知症が進んでしまったお年寄りくらいのものだ。
生まれた時から魔力がゼロだった私は、魔導士では無いものの当然の如く魔力がある両親に驚かれると同時に、将来を心配された。魔導の力で成り立っているこの国では、魔力の無い人間が自立して生きて行く事は難しい。貴族となれば、魔力があって当然で、魔力の強い者同士が結婚して、その家系の血統を守る。一般市民もそうだ。魔力があれば、出来る仕事も多いが、魔力が無ければ就職口も無い。魔法関係の施設や研究所に勤められる筈も無く、魔法使いの使いっ走りが限られた就職先だった。経済的に余裕があり、魔力の無い人間にも理解のある魔導士の元で働かせて貰うしか方法が無いのだ。
そんな世界で、学校を卒業したばかりの私は、丁度就職口を探していたのだが、まさかこんな変梃な魔法に掛かるなんて、絶望でしか無い。歩いている内に泣けて来たが、泣いている場合では無いと自分に言い聞かせ、ひたすら足を動かした。気が付けば街の中心部を抜け、そうして郊外に入り、更には舗装されていない凸凹の畦道を通って、森の中へと向かっていた。
「地図通り 私来たよね? 間違えた?」
地図を再度確認したが、矢張り魔道士の家はこの森の中で間違いないらしい。まるでお伽噺に出て来る森のように、左右前後を鬱蒼とした木が覆い茂っている。時刻は夕刻を迎え、傾いた太陽から滲んだオレンジ色の光が木々の隙間から差し込んでいる。これが無くなれば、直に夜が来る。木の合間からでは星の輝きが届かないだろう。その事に気付いて、一気に心許無い気持ちになったが、今更戻る事も出来ず、只管森の中を進んだ。そうして、早足で小径を駆けて息が上がった頃、不意に一軒の家が現れた。
凡そ人間の手が加わっていない鬱蒼とした森にそぐわない、人工的で幾何学的な家だった。円柱型の建物が3つ並んで、その周りを丸い衛星のような物体が巡回するように飛んでいる。小さな黒い煙突から煙が出ている事を思えば、中に人がいるのだろう。
…此処が、先生の言っていた魔導士の家に違いない。
何度も確認している間にすっかり皺が寄ってしまった地図と、目の前に聳え立つ家との間で視線を動かした。兎に角、魔導士に話を聞いて貰おうと入口を探したが、一向に見つからず、ぐるぐる家の周りを回っていると、3周したところで、漸く壁に同化したドアのようなものを見つけた。
「すみません 誰かいますか こんにちは」
壁と同化したドアらしき箇所を叩きながらそう声をかけたが、中から声が帰って来る事は無かった。
「すみません! お会いしたくて! こんばんは!」
少しだけ強くドアを叩いてみる。しかし、結果は同じ。何の返答も無かった。煙突から煙が出ているので、てっきり誰か居ると思ったのだが、勘違いだったのだろうか…。
明日になったら帰って来るのだろうか…。そんな確証の無い願いにも似た感情を抱いていると、不安と心細さと只管歩いて来た疲れとがドッと溢れて、思わずドアの前にしゃがみ込んでしまった。
明日になったら、帰って来るのかな。帰って来たら、私にかけられた妙な魔法を見て貰えるだろうか。
そんな事を思いながら立てた膝に額をつけて蹲っていると、
「邪魔だ」
と、頭上で声がした。その直前まで、一切の気配が無かった。衣服の擦れる音も、匂いも、風の音も、何もかも。弾かれた様に顔を上げれば、黄金色の刺繍が入った真っ白なローブを着た背の高い人物が、私を見下ろしていた。頭のてっぺんからローブについたフードを目深に被っているので、顔が見えない。けれど、その出立ちで分かる。こんな綺麗で上等なローブ、相当身分の高い魔導士しか着られない。
この人が、かかりつけ医の魔道士の先生が言っていた大天才の魔導士に違いない。
「お助けを! お願いします 困ってる!」
勢いよく立ち上がって、白いローブを来た人物にそう告げると、
「知るか」
と、一言だけ返された。
知るか…?
予想外の言葉に絶句した。しかし、馬鹿みたいに絶句していても仕方が無いので、
「酷い人 なんて奴だ! 名を名乗れ!」
と言えば、
「お前こそ誰だよ」
と、白いローブを着た人物が告げた。
最もなご意見だったので、私は、と名前を名乗ろうとしたものの、575の魔法がかかっているせいで名前が名乗れない。575でその事情も説明出来ず、口籠もっていると、
「面倒臭ぇ魔法をかけられやがって」
と、白いローブを着た魔導士が告げたので、思わず目を見開いた。魔法陣を見てもいないのに、私に魔法がかかっている事が分かるのか。
「お前の問題にオレを巻き込むな」
そう言い残してドアから家の中に魔導士が入ろうとしたので、慌てて閉じられそうなドアを両手で掴んで、足を捻じ込んだ。
「何してんだ! 離せ!」
「離さない 私はドアを 離さない」
「離せ」
ローブの下から出て来た手が、ドアを掴んでいる私の手首を握った。魔導石の指輪が付いた指輪が3つ、その指に嵌っている。思ったよりその手が大きくて、手首だけで無く、私の肘さえもぐるりと握ってしまった。
「面倒事を齎されんのは御免だ」
ドアの向こうで魔導士が告げる。面倒事、確かにそうだ。その通りである。ーーーでも、
「意気地無し! 実力不足! 不人情!」
「あぁ?!」
「澆薄で 冷酷無残! 氷点下!」
「なんだと?」
意味分からねぇ事言いやがって、と、魔導士が握った私の腕に力を入れたので腕が痛んだ。離して欲しくて暴れると、指先がローブに当たって、パサリ、と頭からローブのフードが脱げた。褐色の肌、短い蜂蜜色の髪、ブルームーンのように美しい青い瞳。
綺麗な男の人だった。
凡そ、青く透き通るような肌をした人間しかいないこの国には、珍しい肌の色をしている。驚いていると、魔導士が私の腕をドアの外へと引っ張り出して、ドアに割り込んでいた私の足を蹴っ飛ばすと、そのままドアを閉めてしまった。
「閉めないで! 開けて下さい! 助けてよ!」
ドアを叩きながらそう大声で叫んだが、中から声が帰って来る事も無く、ドアも開く事無く、スンとも言わなかった。
「最悪だ 如何すれば良い? 絶望だ…」
かかりつけの魔導士の先生にすら、如何しようも出来ないと言われたのに、誰に魔法を解除して貰えば良いのだろう。魔導士の知り合いなんて、先生以外いないのだ。
家に帰ったとしても、親の心労を増やすだけである。ただでさえ魔力が無い娘だと言う事で肩身の狭い思いをさせているのに、これ以上負担をかけるのは可哀想だ。
明日になれば、話を聞いてくれるだろうか。
家の中に入るドアは此処しか無さそうなので、ドアの前で待っていれば、外出するタイミングで話を聞いて貰えるかもしれない。そう願いながらドアの前に座り込むと、ぼんやりと家の前に広がる森を眺めた。木々の隙間から射し込んでいたオレンジ色の光はいつの間にか消えて、隙間に広がる空の色がダークな色彩に変わっている。
家に来た時からずっと、衛星のような丸い物体が家の周りを旋回していた。ドアの前に等間隔で現れるその丸い物体を時折見つめながら、膝を抱えた。辺りが急激に冷え込んで、見えない筈の星さえも落ちて来そうなくらいに重い空気を湛えている。
―――夜だ。
一気に視界が暗くなる。家の周囲に、風に吹きしなるギィギィと言う音だけが響いていた。その音に少し心細くなっていると、
「お嬢さん」
と不意に声を掛けられた。全く気配を感じなかったその声に肩を躍らせながら顔を上げれば、獣の骸骨を被った人物が、森の境目、家の前に立っていた。夜を染み込ませたような、真っ黒なローブを着ている。
な、何の用だろう。そして、誰だろう。
衝撃的すぎるビジュアルに驚いていると、私が驚いて声が出せないと思ったのか、
「驚かせてすみませんねぇ。ここの家の人?」
と更に私に訊ねた。その言葉に、逆に私が驚いた。てっきり魔導士の知り合いかと思ったのだが、違ったらしい。と言う事は、この人も何かに困っていて、同じように助けて貰いに来たのだろうか…。と、そんな事を思っていると、獣の骸骨を被った人物の背後を、衛星が旋回して行った。
「違います 用事があって 待ってるの」
そう説明すると、獣の骸骨を被った人物の喉が空洞を震わすような奇妙な音で鳴った。
「そうでしたかぁ〜」
獣の骸骨を被った人物が、一歩、私に近付いて来た。真っ黒なローブが、地面に擦れる音がする。随分と厚手で立派なローブを着ているのに、その周囲が冷えきっているのは何故だろう。
「お嬢さんも、魔導士なのかなぁ?」
そう言って喉の中で声を転がすように笑いながら、獣の骸骨の鼻先を私の鼻先に向けた。骸骨の鼻の穴の向こうに、空洞が広がっている。まるで、そこにある筈の物が無いかのように。息が出来ずにいると、同じく、獣の骸骨を被った人物が動くのを止めて、
「アレ? 魔力が…」
と不思議そうに呟いた。その瞬間、
「莫迦野郎!!!」
と、突然真後ろのドアが開いた。凭れていたドアが無くなった反動で後ろに倒れると、中から伸びて来た手が私の着ているローブのフードをむんずと掴み、力任せに家の中へと引っ張った。そうして、爪先がドアの中に入った瞬間、凄まじい勢いでドアが締まり、5つもの鍵がオートで掛かった。家の中は温かく、クリームスープの匂いがした。
フードを引っ張られた事で首が締まって苦しい。ローブの首元を押さえて苦しんでいると、突然手を離された。仰向けに倒れた視界に、黄金の刺繍が施された白いローブが見えた。私のローブを掴んでいたのは、私をドアから森へと放り出した魔導士だった。そうして、床に座り込んでいる私を見下ろすと、
「夜に森に出る莫迦がいるか!!!」
と、魔導士が怒鳴った。いや、ドアから締め出したの貴方なんですけど。
そう言いたくて堪らなかったが(言葉には出来ないけど)、如何やら先程は非常にマズイ状況だった事と、恐らく助けてくれたらしい事は分かったので、
「ありがとう 助けてくれて ありがとう」
と言えば、魔導士が整った顔を歪ませて私を見下ろした。そうして、眉間に深い皺を刻んだまま、
「知ってるだろ。アイツは人間じゃ…」
とそう言い掛けて、
「お前、魔力が全く無いのか?」
と私を見てブルームーンのような瞳を真ん丸にした。その言葉に、お腹の中が一気に冷えた。
魔力が物を言うこの世界で、魔力の無い私は虫ケラも同然である。魔導士の先生が推薦するような立派な魔導士の目にどんな風に映るのかなんて、考えなくとも分かる。一般市民からでさえ、失笑の的になるのに。
如何しよう…私にかかった魔法を解いてくれないと言われたら…。もう、アテが無い。
魔導士を見る事すら怖ろしくなって思わず俯くと、
「トマズ」
と魔導士が身体の向きを変えて、部屋の奥にあるドアに向かって声を掛けた。
トマズ?
何の事だろう、と思っていると、ギイッとドアが開く音がして、第3者の足音が聞こえた。顔を上げれば、近くに1人の青年が立っていた。ダークグリーンの髪の毛に、フォレストグリーンの瞳。見た感じ私より年下だろう。背も私よりも低そうだった。トマズと言うのは如何やら名前だったらしい。
「如何思う」
「如何って…。珍しいですね。僕に意見を聞くなんて」
「余計な事は良い」
「はいはい。良いんじゃないですか? 見たところ、お金目当てでも、貴方目当てでも無さそうですし」
「かかってる魔法が、………じゃなきゃな」
何やら一部聞き取れなかったが、私の目の前にやって来た魔導士は私のローブの裾をむんずと掴むと、無遠慮に裾を捲った。パンツから胸の下までが丸見えになって、思わず叫び声を上げそうになったが、575のリズムでは無かったからか、喉から声が出なかった。如何やら575の調子で無い限り、叫び声も上げられないらしい。でも、575の叫び声って何?
「お前、ダセェ下着着てんな」
魔導士が告げる。その後ろで、トマズと呼ばれた青年が、顔を背けて目元を手で覆っている。
デリカシーのカケラも無い魔導士の言動に怒りすら覚えたが、開き直って、
「セオリーよ カボチャパンツは 魔女だもの!」
と告げると、
「お前魔導士じゃねぇだろ」
と魔導士が返した。何気ないその言葉に、息が詰まった。
ずっと憧れていた。ずっと、魔導士になりたかった。けれど、魔力が無くてなれない。それならせめて、誰かの役に立てるように薬学の知識をつけられないかと、そう思ったけれど、それすら無理だった。薬科大学は魔力の無い人間の入学を認めてはくれなかったのだ。
目の前にいるのは、私が憧れた魔導士。性格は難が有りそうだし、デリカシーも無い。それでも、私とは対照的な、雲の上の存在である、大天才の魔導士。
―――いいな。私も、なりたかった。
「面倒臭ぇ魔法かけられやがって」
そう言って、眉を顰めた魔導士が私のローブを下ろした。
面倒?
そう言えば、先程も同じ言葉を言っていた。面倒とは如何言う意味だろう。
「これは、お前に魔法をかけた魔導士のオリジナルで作られた物だ。この世に2つと存在しねぇ」
こんな妙な内容の魔法なのに? と魔導士の言葉に驚く。そうして、
「高度な魔術の知識と魔力が無ぇと、こんな魔法陣は作れねぇ」
と、かかりつけの魔導士と同じ言葉を、その先生が大天才と称した魔導士も口にした。
「解読するのにクソ程時間がかかる」
大天才と言われたこの人でもそうなの…? 驚きが初めに出たが、『出来ない』とは言っていないと言う事に気付いた。『解いてやる』とも言われてはいないが。
「お前、何で此処に来た」
不意に鋭い目付きになった魔導士が私に訊ねた。かかりつけの魔導士の先生に、この魔導士ならば魔法が解けるかもしれないと教えられたからなのだが、それを575で如何説明しようかと考えた時、そう言えば紹介状を貰ったのだった! と思い出した。慌ててローブのポケットから、魔導士の先生に書いてもらった封筒を取り出すと、何故か中に入っている紹介状が真っ白になっていた。間違いなく文字が書かれていた筈なのに、如何して…。
「なんだ」
魔導士が私を見て怪訝そうな表情を浮かべた。しかし575でその理由を説明出来ず、首を振って、紹介状を封筒ごとポケットに突っ込んだ。
「聞きました 魔法が解ける あなたなら」
「それを誰に聞いたんだ」
「かかりつけ 魔導士さんに 聞きました」
「ソイツが誰だって訊いてんだ」
的を射ない私の回答に、魔導士がイラっとしたのが分かった。そう言えば、この人は先生の事を知っているのだろうか。先生はこの人の事を知っていたけれど、その逆もまた然りなのか?
そんな疑問が首を擡げたものの、この国に魔導士は何万といるので、知らなくて当然な気もした。
「炭鉱の 街中にある 診療所」
「炭鉱の街…知ってるか?」
魔導士がトマズさんを振り返って訊ねた。
「全て把握してる訳無いじゃないですか」
そう言いながら、トマズさんが一冊の冊子を何処かから持って来た。見た事の無いシルバーの冊子だった。何だろう? と思っていると、
「王家からの通達で、診療所を開いている魔導士は開業を申告する事になってるんです」
これは、その一覧表です、とトマズさんが柔らかい口調で教えてくれた。そんなものがあるのか。一般市民である私の家には無かった。魔導士の自宅には配られるものなのかと、1つ新たな知識を知ったところで、
「城外秘です」
とトマズさんが笑った。“ジョウガイ秘“? 意味が分からず首を傾げていると、
「誰かに言ったら殺す」
と、魔導士が私を睨んだ。目の前で勝手におっ始めたのに、一方的におっかない事を言っている。実に身勝手だ。
「ある人の魔導データをハッキングしてるんです」
トマズさんがそう言って本を開いた。驚く事に本は見開き1ページしか無く、中は真っ白だった。驚いていると、「調べたい内容を打ち込みさえすれば、データを検索出来るんです」とトマズさんが教えてくれた。理屈は分かったけれど、方法は分からない。一体全体如何するんだろう、と思っていると、魔導士が空中に指で何か文字を書き始め、その文字列を開いた本の中に沈めた。その瞬間、今まで白紙だった本のページに何やら文が並び始めた。
……凄い。でも、何と書いてあるのか全然読めない。有名な話なので、私でも聞いた事がある。もしかしたら、これが、魔導士たちが使うと言う特殊な文字なのかもしれない。
「『炭鉱の街 診療所』どいつだ」
「この人ですかね?」
如何やらプロファイルらしい。本を覗き込みながら腕組みをした魔導士とトマズさんが先生を探している。覗き込んで良いものか分からずにいると、魔導士が私を見て、
「コイツで合ってるなら頷け」
と、数あるデータの中から、1人の魔導士のデータを選んで指で押さえた。すると、開かれた本の中から、顔写真と文字列が飛び出して宙に浮かんだ。プロフィールだろうか。文字が沢山書かれている。生憎文字は読めないが、顔写真で分かった。齢39歳。かかりつけの先生だ。
コクコク頷くと、魔導士が視線を浮かんだデータへと視線を向けて、
「知らねぇな」
と眉を顰めた。
「まぁ、師匠は有名ですから」
向こうは知っていたとして不思議じゃないと思いますけど、とトマズさんが言いながら、プロフィールを読み上げた。
「39歳。師匠よりも20歳近く年上ですね」
「気になる事はそこだけか」
「ん〜…あとは笑顔が胡散臭い事ですかね」
「同感だ」
何やら先生が好き勝手批評されている。しかも先生の預かり知らぬところで。眼鏡をかけた優しい魔導士。胡散臭い事なんて無いのに…と、2人の会話を聞きながら、頭の中に先生の顔を思い浮かべる。
と言うか、
「この魔法 解いてくれるの? あなたなら」
本題はそこである。魔導士にそう訊ねると、
「お前、今、何してる」
と、返答では無い質問が返って来た。何してるとは? と、質問の意味が分からず返答を返せずにいると、
「学校に通ってるのか、仕事をしているのか、普段は何をしているのかと訊いているんです」
と、トマズさんが説明してくれた。私はと言えば、学校を卒業して、就職先を探している身分である。その選択肢のどれにも当て嵌まらない。
「出たところ 仕事探して 3ヶ月」
「ホントですか!」
すると、トマズさんが弾かれたような声を上げた。
「渡りに船じゃないですか!」
トマズさんがフォレストグリーンの瞳を輝かせながら、私を見て、そして魔導士に視線を向けた。何故かもの凄くテンションが上がっている。渡りに船とは如何言う意味だろう。
「丁度、家政婦さんを探していたんです」
へ?
「魔導士以外で!」
そう言ってトマズさんが何処かへと駆けて行った。その後ろ姿を目で追えば、如何やら隣の部屋へと向かったらしい。
は? 家政婦とは? と、突然、目の前で繰り広げられた会話について行けずにいると、
「今までトマズにやらせてたが、手が回らなくなった」
と森に出るドアへと視線を向けながら魔導士が告げた。何処見てるの?
「ドアの外 飛ぶ衛星は 何の為」
ドアを見ている魔導士に、ドアの外にいた時に気になった事を訊ねたが、魔導士は森に出るドアを見つめたまま、返事を返してくれなかった。この人冷たいんですけどー。と、ジト目で魔導士を見遣ると、隣の部屋からトマズさんが書類の束を持って戻って来た。
「契約書です!」
トマズさんが書類の束を頭上に掲げた。いや、話が進み過ぎなんだけど…。此処で家政婦するなんて一言も言っていないのに、何故か決定事項として話が進んでいる。
「丁度人手が欲しくて、助かりました」
似たもの同士なのか、弟子も人の話を全く聞いていない。
「何故私 初めましての 初対面」
「師匠は魔導士が嫌いなんです」
トマズさんが書類を揃えながら告げた。かかりつけの魔導士の先生も同じ事を言っていたが、嫌いと言うのは何か理由があるのだろうか。
「それから、師匠の魔力が強すぎて、夜になると家の周りにある森に魔力を餌にする魔物が集まるんです。昼も擬態化した奴らが来る事があって〜」
なので、僕も貴方が来た時返答しませんでした! ごめんなさ〜い、とトマズさんが時差で私に謝罪を繰り出した。ドアを叩いても中から返事すら無かった理由はそれか。トマズさんの言葉に納得していると、ドアを睨んでいた魔導士が、近くにあったソファへと腰を下ろした。アームレストに肘を置いて非常にリラックスした様子だが、貴方の弟子がなんだか怖い事を言ってるの分かってる?
「お前なら、狙われねぇ。狙われても死なねぇ。バケモン相手なら」
すると、私のそんな心の声を読んだかのように、魔導士が告げた。へ? と、魔導士の言葉にぱちくり、瞬きを返す。
「師匠、家の事をするの壊滅的に下手で、僕も魔導士の修行がレベルアップして来たので、誰か代わりにやってくれる人を探していたんです」
違う。聞きたいのはその話では無い。狙われないとは、如何言う意味だろう。しかも、狙われても死なないと言うのも、如何言う意味だろう。
しかし、その疑問を575で纏められず口に出せなかったので、代わりに、目下1番の問題について訊ねてみた。
「解読は してくれるのか しないのか」
私は魔力が無い。就職口も無い。魔力が無い人間に偏見の無い魔導士に雇って貰うしか、今後の人生を1人で生きていく術は無い。3ヶ月間、探していた就職先。ずっと見つけられなかった就職先。両親にこれ以上迷惑をかける訳にはいかないし、私としても働かせて貰えるのは有難い。けれど、それよりも、魔法を解いて貰えるか如何かが1番の問題だ。
「師匠」
トマズさんの視線を受けて、魔導士が面倒臭そうに視線を逸らした。何その反応! してくれるの? してくれないの?! 魔導士の態度に憤慨していると、面倒臭そうに魔導士が溜息を吐いた。
そんな魔導士に怒りを向けつつ、1つだけ気になる事があった。魔法の解読に対して支払う報酬である。今まで魔法にかけられた事が無いので、魔導士に魔法を解いて貰った事も無く、相場が分からない。私に払えるだろうか…。無職で収入はゼロ。しかし、親に迷惑はかけられない。魔導士の性格を思えば、法外の金額を請求される可能性だってある。
魔法は解いて欲しい。けれど、お金は無い。お金が払えなかったら? 解いて貰えないの? 不安になっていると、私が魔法を解いて貰えない事を心配していると勘違いしたのか、
「何だそのツラ。別に解いてやらねぇとは言ってねぇだろうが」
と魔導士が蜂蜜色の眉を顰めた。
「貴方なら 解いてくれるの? この魔法」
恐る恐る魔導士にそう訊ねると、
「半年間、タダ働きだな」
と魔導士が告げた。
は? タダ働き?
「我無職! 暮らしていけぬ! 衣食住!」
「あ?」
「常闇に 馳せる我が身の 明日は来ぬ」
「何、文豪のジジイみてぇな話し方してんだ」
しかも内容がクソしょうもねぇ、と魔導士が呆れたように呟いた。
「衣食住の保証はしてやる」
魔導士が溜息混じりにそう告げると、
「明日からお願いします! 住み込みで」
と、食い気味でトマズさんが言葉を続けた。何故か575のリズムになっているが、その言葉に、ん? と眉が寄る。住み込みで?
「住み込みで?! 男性2人! 身の危険!」
「ふざけんな! 誰がお前に手を出すか!」
何故か魔導士も575のリズムになっている。そうして、妙な心配してんじゃねぇ! と今まで通りの調子で怒鳴りながら、
「オレの名前は、ジェラルド。お前の魔法が解けるとしたら、オレか、お前に魔法をかけた魔導士だけだ」
と、自信満々に告げた。その自信の高さにも驚いたが、案外フツーの名前で、存外すんなりと自己紹介してくれた事にも驚いた。返礼として、私も名乗ろうとしたものの、名前が575では無かったので自己紹介出来ずに終わった。