それは小さな声だった。
私には幼馴染みがいる。
同じアパートに住んでいた幼馴染み。
彼女とは決して短くない時間を共に過ごした。
どうでもいいことで喧嘩して、一か月、口を聞かなかったこともある。そんなのは彼女とだけだ。
そして、私はそれなりに彼女の家の事情も知っていた。直接聞いたこともあったし、そうじゃないこともあった。
同じアパートに住んでいると、多かれ少なかれそれぞれの家の事情というものは、まあ耳に入るものでして。
それに、彼女の住んでいた部屋からはよく怒鳴り声や罵声が聞こえたものだから、アパートの住人は色々あることないこと噂していた。
時々、通報があったのか、警察が訪れることもあったようだ。
偶に、ホントに偶に、彼女は家のことで愚痴を吐くときがあった。
彼女自身、アパート内で色々言われているのは気付いていたのか、あまりそういったことは話に出さなかったが、ごく稀にそれはあった。
私の家族はまあそれなりに仲の良い家族だと思う。もちろん、喧嘩することはあるけど、それでもアパート内に響くような声量のものではなかった。
あの、時々聞こえてくる、至る所で反響して、アパート全体に響き渡っていた怒声とは違った。
時々、というか、割と頻繁にあったと思うけど。
とにかく、私の幼馴染みの家庭は多分あまり良いモノではなかった。
そのせいか、彼女は幼稚園から小学校に上がって、学年が上がっていく毎に、だんだん笑わなくなった。
表情が乏しいというか、無表情がデフォルトになっていた。
幼稚園の頃は、結構コロコロ表情を変える子だった。感情豊かな感じで、まあそのぐらいの年の子ならそれが普通だろうけれど。
でも、私はその変化に鈍感だった。
彼女の家が大変なのは知っていたけど、それが当たり前だと思っていた。
いや、それが普通じゃないのは分かっていたけど、私は彼女の家が異常だということに慣れてしまっていたのだ。
慣れというのは恐ろしいものだと思う。
そんな普通じゃないことを「当たり前」だと思ってしまっていた。
いつも一緒にいるから。
人は派手で分かりやすい急な変化には敏感でも、毎日の少しずつ緩やかな変化には鈍感だ。
近くにいたから。
だからこそ、気づかなかった。
彼女の苦しみも、悲しみも、歪さも、醜さも。
小さな小さなその声にも、私は気づけなかった。
小学校三年か四年か、とにかくその位の頃だったと思う。
ある日、彼女は学校を休んだ。
別に学校を休んだことがおかしいとか言いたいのではなく、風邪で休むことは今までも普通にあったわけだし、その時も体調を崩したんだろうくらいにしか私は思っていなかった。
次の日、彼女はいつもより少し遅めに家を出て来たのか、登校の時には一緒に行かなかったので、学校に来てから顔を合わせた。
特別、変わった様子もなく、普通だった。普通だと思った。昨日はきっと風邪だったんだろう。
そう思った時。
彼女が少し首を傾けて、今まで見えていなかったものが見えた。
前髪に隠されていたから気づかなかったのだ。
きっと、それに気づいた人はあまり多くなかったと思う。
サラリと流れた前髪の隙間からチラリと見えた、白い布のようなモノ。
彼女は頭を怪我していたのだ。
彼女の様子から、あまり酷いものではないだろうとは思ったけれど、それでも心配する。幼馴染みだから当然だ。
少し切っただけかもしれない。でも、もしかしたら、昨日休んだのがコレのせいだったら?
実は、その布の下は、私が思った以上に酷い傷があったら?
「…それ、どうしたの?」
「あー、コレ?何かコップが上から降ってきた。」
笑いながら、冗談めかしたような答え。
どこか要領を得ない、そんな返事。
彼女が何でもないように笑うものだから、私も釣られて笑う。
「えー?何それ。」
私は知っていた筈だった。
彼女の家の異常さも、彼女の性格も。
少なくとも彼女の家族の次くらいには、私は彼女のことを知っていた。
そう思っていた。その筈だった。
だって、幼馴染みだから。
だから、私はそのちょっとした異変を何でもないことだと見逃した。切り捨てた。
私の傲慢で自分本位な思い込みがそうさせた。
私は恐らくこの時から、いやホントはもっとずっと前から、選ぶべき選択肢を間違えていた。
間違え続けていた。
それが間違いであることにも気づかず、私は選び続けた。
だからあんな結果になってしまったんだろうなと、今なら分かる。
小五の冬。
唐突にそれは突然に、派手で分かりやすい変化だったから、私は直ぐに気がついた。
彼女は、幼馴染みは、母親と一緒に家から出て行った。
それは、ある意味当然の結果で、多分あの時じゃなくてもどのみち通らなければならない結末だったんだろう。
ようやく、彼女の家族は長い長い悪夢に終止符を打って、収まるところに収まったというわけだ。
彼女の希望か、引越し先はあまり離れておらず、小学校も中学校も結局同じところを卒業した。
けれど、私は彼女が家から出て行ってから、あまり関わっていない。
無意識に避けて、私は罪悪感から逃れようとした。
愚かにも。
そんなことをしても、じわじわと蛆が這い回るようなこの気持ち悪さからも、後味の悪さからも逃れることは出来ないというのに。
「何かコップが上から降ってきた。」
それは、小さな声だった。
小さな小さな、彼女のSOSの声だっだ。
冗談というヴェールに隠された、彼女の痛切な訴え。
今思えば、そういう小さな声はそこかしこにあった。
彼女は確かに私に助けを求めていた。
誰かに助けを求めていた。
きっと、私が一番気づく可能性はあったのに。
私は私の傲慢さと自分本位な思い込みと、慣れに甘えていた。
きっと、この結果を招いたのは、彼女と彼女の家族と私を含めた周りの環境全てだ。
私は今でも後悔に苛まれる。それは、私の罪だった。