ロレイン公国の脅威
薄暗い廊下を薄暗い表情で歩く男。
名をマグラ・スレインという。
真っ黒な髪には艶がなく、目の下にはクマがある。
不健康さの象徴のような姿だが、別に不健康な生活を送っているわけではない。
生まれつきのものだ。
さて、彼にはそれゆえに問題がある。
マグラをめがけてやって来る健康そうな男。
名はジョー・ファルクス。
マグラの秘書官を勤めている。
彼は今のマーグラの状況を『いつも通り』と判断して話しかけてしまった。
しかし、彼は今とても大きなストレスを抱えているのだ。
「マグラ議員、報告です!
我々の艦隊はボルグの主力艦隊の撃破に成功しました!」
「そうかい、それは良かったよ。
だがね、今の私には百万の幸福を消し去るたったひとつの不幸があるのだよ。
ジョー、あのスパイはどうなったのだ?
ヤツはグリーズとボルグのどちらかを必ず屠ると豪語したのだぞ。
議会のボケ老人どもがその言葉を鵜呑みにした時点でイラついてはいたが……。
だが、これでもはや私の怒りは限界だ。」
「し、しかし我々が功績を上げ続けていれば、老人たちは嫌でも席を譲らなきゃいけなくなりますよ……。」
「君は分かっちゃいないな。
自分達の利権ばかり貪ってきたあのゴミクズどもが簡単に席を譲るものか。
きっと我々に責任転嫁をするだけのことだろう。
それにね、そういう問題ではないんだよ。
我々が上手くやっても、結局ヤツらの無能さのために足を引っ張られる……。
バカが集まったところで無能さに拍車がかかるだけだと言っているのに。」
「……確かにそうですね。」
「今回だってそうだ、我々が断固として譲らない姿勢を見せたからボルグ艦隊への攻撃が認められたのだ。
当初はそれすらも国の財政を圧迫すると言って憚らなかった。
あの老人どもは海賊というものを甘く見すぎなのだよ。
老いて牙が抜け落ちても尚、自らのことを猛獣だと思い込んでいる。
ええい、実に不愉快だ!」
「今はただ、ここに攻め込まれないよう願うばかりです。」
「……ふん、老人どもを殺してくれるなら大歓迎だがな。」
「ところでマグラ議員、午後からはロレンツ議員との予定が入っているはずですが、どちらへ?」
「この国の危機だというのに、先の短い連中の呑気なお遊びに付き合ってはいられない!
君が断っておけ、前にもそう言ったはずだ。
私の役目は国への貢献、君の役目は私のサポート全般。
断れないなら君が代理で行きたまえ。」
「ちょっと、マグラ議員!」
老人の保守的で傲慢な思想。
若者の革新的で慎重な思想。
その狭間に置かれたジョーの心境が穏やかでないのは確かだろう。
・・・
「……で、マグラの代わりに君が来たというわけかね。」
「何とお詫びすれば良いか……ロレンツ議員、どうかお許しを!」
結局、ジョーはロレンツ議員の執務室に赴いて事実を告げることにした。
黄金の燭台の光で照らされた部屋の絢爛さ。
ただ豪華なだけでなく、そこには上品さがある。
流石長年に渡って権力を維持し続けてきた老議員の部屋というだけある。
そしてその気品はロレンツ自身からも感じ取れる。
いまだ若々しく艶のある白髪に、鋭い眼光。
海軍で鍛え上げられたその筋肉は他のどの議員たちよりも逞しい。
「構わんよ、世代の壁は簡単には破壊できない。
ゆえに私が目くじらを立てて怒る理由もない。
理解し合えずとも尊重し合うことならば可能だ。
それに、実は君とも会話してみたかったのだ。」
「……私と、ですか?」
「率直に言おう、私の秘書になれ。」
「どういうことです?
あ、その……意味が分からないわけではないんですが。
私を選ぶ理由とか……何か、ええと……。」
「君はあの狂犬の秘書として立派にやってきた。
しかし、我々は今回の失策を全てアレに押しつけるつもりだ。
そうなればアレはもはや議員としての立場を失うだろうな。
しかしそれでは君まで巻き添えを喰らうことになる。
私はそれだけは避けたいのだ。
ね、悪くない話だろうジョー君。」
「失策……あのスパイの件ですか。」
「艦隊の件もだよ。
あれとて機動艦隊を取り逃がしているのだから結果的には敗北と言えよう。」
「スパイの派遣を容認したのはあなた方老人ではありませんか!
それに、出撃する艦船の数を最低限に抑えるよう指示したのもあなた方だ!
もしあの指示がなければ我々の艦隊は機動艦隊をも全滅させていました!」
「グリーズとボルグの討伐に予算を注ぎ込もうとしたのは君ら若い世代だよ。
我々は海賊との融和措置を取ってきたのに、全て君らに妨害されてきた。
スパイの派遣もその一環だっただろう?
無理な政策を推し進めた責任は我々にはない。
艦船の数を抑えさせたのも同じ理屈だ。
ここまで君達を退陣に追い込まなかっただけ、感謝されるべきだと思うのだがね。」
「勝手な理屈を……!
海賊との融和など、夢のまた夢だ!」
「言っても分からぬならそこまでだな。
コイツを投獄せよ。」
いつからか部屋の外で待機させていたらしい。
すぐさま二人の護衛がやって来てジョーの腕を掴む。
圧倒的な力の差。
ジョーは抵抗することも出来ないまま連行された。
・・・
ロレイン公国はボルグが評価する通り『小国』であった。
しかしその発展速度は凄まじく、僅かな戦力を投入しただけでボルグの主力艦隊を壊滅させるほどになった。
ボルグの主力艦隊は名実ともに最強と言われていたが、ロレインの技術はそれをはるかに上回ったということである。
そして、それを可能にしているのは海賊たちが欲する宝『エアリング』。
かつて絶海の孤島に国を建てた男が見つけた秘宝。
以降、自然の防壁によって国もろとも海賊たちの前から姿を消した唯一無二の宝石。
エアリングはロレイン公国の民の願いを叶え、富も財も幸福も技術も、与えられる全てのものを望む限り与え続けた。
しかし、その宝石は『奪う』ことは出来ない。
あらゆるものを与えられるこの宝石は、しかしあらゆるものを奪えない。
全て満たされたロレイン公国だが、革新派の若い議員たちはまだ足りない。
海賊たちを根絶し、エアリングを完全に手中に収めたいのだ。