1話
女は狂気的な笑顔のまま呟いた。
「幸治さん。」
チャノキの葉にどしゃぶりの雨が打ち付ける中、公園の真ん中に、傘すらささずに男と女が対峙していた。
二月四日
雪が積もり屋根や道路が白くなり、家の前では雪退けをしている人を横目に僕はバイト先に向かって走っていた。
いつもは出勤時間の20分前にはバイト先についてゆっくりしているのに、雪が積もって歩きにくい今日に限って寝坊するなんて。本当についてない。
何とかぎりぎり時間には間に合ってけど、靴も靴下もびしょびしょになってしまった。バイトの時は決まった靴を履くかないといけないから、靴と靴下は店長に予備を借りるとして、濡れた靴で帰らないといけないのかとロッカールームで考えてると。
「幸治君がこんなにぎりぎりに来るなんて珍しいわね。」
前を見るとカフェ翠湖のオーナー兼店長の前田幸子さんがいた。幸子さんは身長が170㎝後半でモデルみたいな体型をしている。おまけに今年40歳とは思えないような若作りをしている。いまだにお客さんにナンパをされているのを見たことがある。
「いつも目覚ましがなくても起きれていたんですけど、最近寝るのが遅かったので寝坊しました。」
「そうなの?今日は遅れなかったからいいけど。慢心はダメよ。」
「はい。昨日課題も全部終わったので、今日からはいつもどおり寝れそうです。」
「そう、なら案信ね。それと今日から新しくバイトの子が来てくれてるの。今は千歳さんが店内の案内や説明をしてくれてるのだけど、開店したら幸治君についてもらうからよろしくね。」
そう言って前田さんは行ってしまった。新しく入った子かどんな人なんだろ何の情報も教えてもらえなかったけど、ガラの悪い人じゃなかったらいいけど大丈夫かな。
もうすぐ開店の時間だし僕も準備してみんなのもとに向かうか、そう思いロッカールームから出た。
僕のバイト先はそこそこおしゃれな喫茶店だ。僕ともう一人の人と接客を担当して、千歳さんと店長が厨房を担当している。今日から入った子はたぶん接客担当になるのかな。ホールに行くとちょうど千歳さんと新しく入ってであろう子がいた。
「あ、野分さんおはようございます。この子が今日から入る、由美ちゃんです。」
「下浦由美です。高校三年生です。宜しくお願いします。」
「僕は野分幸治です。大学一回生です。よろしく。」
下浦さんは150㎝位で10人中10人が美少女だと言うような容姿をしている。胸は、まぁ高校二年生といえば成長期だから今後に期待って感じかな。
「由美ちゃんは私の近所に住んでいて、今回のバイト先も私が教えてあげたんです。一緒にバイトしないかって。一通り説明も終わったんで私は厨房に向かいますね。」
「わかったよ。下浦さんは僕と一緒に接客担当だと思うからよろしくね。本当はもう一人小森さんもいるから、わからないことがあったら何でも聞いてくれていいよ。」
これが僕と由美との出会った瞬間だ。この時の僕は由美と同じバイト先以上の関係になり、そしてあのような目に合うなんて思いもしなかった。
三月四日
由美ちゃんが入ってちょうど一か月がたった。由美ちゃんはとてもしっかりしていて、とても気の利く子だ。それに由美ちゃん目当てのお客さんもいるくらいお客さんからの評判もいい。一つ問題があるとすれば。
「ねぇ、由美ちゃん今日バイト何時に終わるの?終わったらどこか遊びに行かない?」
「すみません。今日は夕方から友達が遊びに来るので。」
そう。ナンパだ。今まで前田さんへのナンパはあったがほとんどが冗談半分だった。でも最近は由美ちゃんに対するナンパが増加している。特に近くにある大学の学生によるものだ。
「いいじゃんかそんなのほっておいて、俺と遊びに行こうぜ。」
「お客様、それ以上当店のスタッフに対してそのような行為をする場合営業妨害として通報させていただきます。」
「チッ。」
そう言ってナンパをしていた男は店から出て行った。こうやってナンパの対応をするのもここ最近の僕の仕事だ。どうせ相手にされないのに何でナンパなんてするんだろう。よっぽど自分の容姿に自信があるんだろうか?
「いつもすみません幸治さん。助かりました。あの人ここ最近来るようになって、いつもああやって誘ってくるんで困っていたんです。」
「気にしなくていいよ。それにお店にも迷惑だしね。」
確かに、由美ちゃんは可愛いから仲良くなりたい気持ちは分かるけど、流石にナンパは無いだろう。
「二人とも今日はもう上がっていいわよ。雨が酷いし、あまりお客さんも来なそうだから。」
今日は天気が悪くて全然お客さんがいない、なんならさっきのナンパ野郎が最後のお客さんだ。
「いいんですか?」
「ええ、いつもみたいに幸治君は由美ちゃんをお家まで送って行ってあげてね。」
「わかりました。お疲れ様でした。」
店長が言うみたいに僕は由美ちゃんを家まで送っている。理由は先々週由美ちゃんが帰ろうとした時、由美ちゃんの帰りを店の前で待っていた変態がいたからだ。
それからは、千歳さんか、千歳さんがいない時は僕が家まで送っていくようになった。
「いつもすみません幸治さん。」
「気にしなくていいよ。由美ちゃんの安全の方が大切だからね。」
帰り道、僕たちは好きなミュージシャンの話で盛り上がっていた。
「幸治さん聞きました?ドラゴンスターの新曲、とてもいい曲でしたよ。」
「そういえば昨日新曲がでたんだったね。まだ聞けてないよ。」
昨日は友達と遊んでいたから新曲のことなんて完全に忘れてた。ドラゴンスターは僕より一つ年下で、独特の感性で意味のわからない歌詞が何故か人気のミュージシャンだ。CDも出すたびにすぐに売り切れになる。
「それなら、これから私の家に来て聞きませんか?」
「え?」
「私昨日お店に並んでなんとかゲットしたんです。それで、もしよかったら?」
これは、どうすればいいのだろう。手に入れた新曲を聞いて欲しいから誘ってるんだと思うけど。
「あっ、すみません。いきなりお家に来ませんかなんて、はしたないですよね。」
「あ、いや、そんなことは無いけど。」
そんなやり取りをしているうちに、由美ちゃんの家の前まで来てしまった。
「ちょっと待っててください。」
由美ちゃんは家の中へ走っていってしまった。少しすると由美ちゃんが袋を持って出てきた。
「はい。これ持って帰って下さい。」
由美ちゃんに渡された袋の中を見ると、ドラゴンスターのCDと高そうなお菓子が入っていた。
「何時も送って貰っているお礼です。CDは今度のバイトの時にでも返して貰えれば大丈夫ですから。」
そう言って、由美ちゃんは家の中帰っていった。
僕はどうしようか少し考えたあと、由美ちゃんの好意い甘え袋を持って帰った。
三月二十一日
『バシッ、パンッ、ドゴッ、』
「お願い。もう許して。もう近づかないから。もう痛いのは嫌なの。お願いします。やめてください。」
『パンッ、ドゴッ、』
「ダメ、小森さん、アナタは、ワタシの、コウジくんに、色目を使ったから。サヨナラ。」
『グサッ』
「ふふっ、これでワタシのコウジくんに近づく蝿が1匹減った。ふふふ。」
三月二十四日
「ねぇ2人とも最近小森さんと連絡が取れないんだけど知らない?」
由美ちゃんと二人で開店の準備をしていると店長が聞いてきた。小森さんは、僕と同じ学校に通っている人で、この店で接客を担当している。
「私は知りません。」
「僕も知らないですね。どうかしたんですか?」
「それが一週間前までは連絡が取れていたのに、次の日から一切連絡がつかないのよ。一日だけならまだしも、何かあったのかしら。」
店長は心配そうな顔をしながら携帯を見て厨房の方へと帰っていった。僕はなんだか嫌な予感がした。
「大丈夫ですか幸治さん?ボーとして。」
「あ、あぁ、大丈夫だよ。ちょっと考え事をしていただけだから。」
この日から僕の日常は壊れていった。