屋根裏部屋のサラ・クローリー
連載のプロローグとして書いたものの、消化できそうにないので短編に。
窓から見る世界は水面に絵具を落としたように彩り溢れている。
ふわふわゆらぐ風、行き交う人たちの気忙しさも聞こえてくるよう。
窓枠に頬杖をついて、サラは海に浮かんで見える家々を眺めていた。
馬車が辻を行き交うように、いくつもの小舟が水路をゆらゆら揺れながら進んでいく。船頭はたった一本の櫂で小舟を巧みに操っていた。時折ぶつかりそうになっても、あっと目をつぶった次の瞬間には何事もなかったかのように元通りになっている。
サラは屋根裏部屋の小窓からこの景色を眺めるのが好きだった。
この街の住民は、世界で一番美しく、世界で一番色彩豊かな街だという。けれど、彼女にはわからない。
確かに美しいと感じる。
色彩が豊かかどうかまではわからない。
彼女が見ている世界に色はないのだから。
目の前を通りがかった小舟に、顔馴染みの船頭が立っていた。
まだ若い十五、六の少年だった。
彼は彼女に気がつくと軽く手を上げて大きな声で挨拶をした。
「おはよう、サラ!」
大きな声で挨拶を返すのが少し恥ずかしくて、サラは微笑んで手を振った。
船頭は満足げに手を振り返す。
今日も挨拶してくれた――もう何週間もずっとそうだ。
サラにはわからない。どうして彼が毎朝自分に声をかけるのか。
ほんの少しのもしかして。
でもそれを思い浮かべるだけで、なんだか胸がぽかぽかして、軽快に跳ね回る。
そわそわして、でも不思議と嫌いじゃない。
少女はまだ知らない。
恋に心が燃えて身を焦がすような情熱を。
その灯火はまだほんの小さな火種に過ぎないのだから。
***
大聖堂の鐘の音が、波紋を広げるように聞こえるとき。
広い湖に浮かぶゼニスの街は一層賑々しく沸き立つ。
狭い水路に軒を連ねる店が扉を開ける。
客はみな小舟でやってきて、店の前に係留していく。
野菜や肉、魚だけは訪問販売で、家人は水路をゆったりと進む商人に声をかけて、桟橋や窓から商品を買う。時々落として水しぶきがあがるのはご愛敬。
午前中の気忙しさも、九番街だけはどこ吹く風。
気怠さを残した遊女たちが寝起きの髪を整えている。
九番街は色街なのだ。
朝一番に泊まりの客を追い出せば、遊女たちは二度寝を決め込んで、街が賑やかさを取り戻してきたころにようやく目を覚ます。
それぞれに事情がある。
大抵は金の切れ目に足を踏み外した女たち。
稀に自ら飛び込むものもいた。
けれど、一度九番街に足を踏み入れてしまえば、もう逃げ場はなかった。
なにせ湖に浮かぶ街。どこへだって逃げ出せない。月に一度は女の水死体が浮かぶ。この街の住人にとって、その光景は日常の風景に過ぎず、誰もそれを問題だとは思わない。精々、不憫だ気の毒だと目を逸らして見なかったことにするだけ。
死んだ女に如何ほどの価値があるのかと、この色街の存在そのものが訴えかける。鳥籠の中から抜け出すために、めい一杯に着飾ったカナリアは美しく鳴いて男に春を売る。
けれど、それは一晩の夢。四六時中虚構を塗り固めたままではやりきれない。
「姐さん、姐さん。起きてくださいな。もうすぐ正午になりますよって」
ベッドに寝転ぶ部屋の主人を揺り起こす。
寝惚け眼をこする主人を見て、サラは水を張った桶を持ってくる。
固く絞ったふきんを手渡せば、その遊女は顔を拭いて目やにを除いた。
「もう風呂の時間かしら」
寝起きの乾いた声にサラは頷いた。
遊女であり、サラの主人でもあるクレアは眉根を寄せた。
「ああ、嫌だわ。昨日の客ったらねちっこくて。身体中ベタベタで気持ち悪いもの」
パイプを吸ったあとに舐めるなと言ったのに――クレアは諦めたような声で嘆く。
「神官様でしょう?」
「他の女がなんて言ってるか知らないけれどね。わたしはもっと若くて働き者の男がいいわね。あんまりねちねちせずに、激しく愛してくれる人がいいじゃない。あと太っちょは嫌いなの。重たくて蛙みたいに潰れちゃうわ」
クレアは「ぐえっ」と声に出して露骨に嫌がる顔をした。
まだクレアの小間使いとして床に上がっていないサラにはなんのことだかわからない。
けれども、クレアは何かを夢見ている。それはサラにもわかる。
「でも、姐さんはお貴族様だったんでしょう?」
「サラ。ここでは過去のお話は聞いちゃダメだって言ったでしょう? まあ、それは事実だけれど、昔は昔。今のわたしはしがない遊女なのよ。やっぱり男は汗水流して働く方がいいわ。覚えておきなさいな。椅子に座って口先で商売しているような男は一番ダメよ」
クレアはそういうと勢いよくベッドから飛び降りた。
布団が飛んで裸体が露わになった。窓を閉めていてよかった、とサラは小さくため息をついた。
***
「戦争ってのはいいもんさ。なんてったって出撃すれば手当がつく」
クレアの部屋にあがった軍人はワインを飲んでご機嫌だった。
軍人は高級将校で、それなりの扶持をもらっている風に見えた。
寄りかかるクレアの肩に腕を回し、ボタンをひとつ外してずいぶんと寛いでいる。
「でも、戦争は死ぬかもしれないのでしょう?」
「なんだい、心配してくれるのかい?」
「もう会えなくなるなんて嫌だわ」
クレアは彼の軍服の隙間から白い手をそっと入れて、その筋肉質な身体を撫でた。
甘えた女の声に、軍人である彼もひとときネジを緩める。
「もし私が死んだら……。そうだな。海鳥になって帰ってこよう」
「ゼニスは湖の上にあるのよ。海鳥なんて来ないわ」
「あはは、これは参ったな」
軍人は頭をかいてワインを飲み干した。
サラはそっと彼のグラスにワインを注ぐ。
「君はいくつになった?」
突然の質問に、サラはハッと顔を上げた。
面白そうな顔をしているクレアと目が合う。
「十一になります」
サラが小声で答えると軍人は微笑んだ。
「あと数年で立派な遊女というわけだ」
「あら、わたしというものがありながら、もう手をつけておこうだなんて虫がいいったらないわ」
クレアが文句をつける。けれども、本気でないことはその顔つきからわかった。
冗談めかす彼女に軍人は言う。
「戦争が終わる頃、私がまだ生きていたら、君のハジメテは私がもらおうじゃないか。そのぐらいのわがままはいいだろう?」
「そればかりは若旦那の決めることですから」
「なあに、話は通しておくさ。どうせ種なしの独身軍人だ。少々の手付金なら払うとも」
快活に笑う軍人の瞳は何かに怯えているようにも見えた。
「お礼をなさい」とクレアが言った。
サラは意味がわからなかった。けれど、部屋の主がそういうので従順に頭を下げた。
そのあと、クレアが「もういいわ」と言うので、サラは屋根裏部屋に登ってベッドに潜り込んだ。
程なくして砂糖をレモン果汁で溶かしたような声が聞こえてきた。
けれど、朝から働いたサラはベッドの中で、その嬌声を子守歌のように聞いて眠りについた。
翌朝になって、軍人はクレアを寝かせたまま屋根裏部屋に忍び込んできた。
まだ日も昇らないうちだ。
サラは物音に目を覚まし、昨晩来たときのように皺一つない軍服を着ているのを見て、きれいだと思った。アイロンを掛けたみたいに伸びた背筋がかっこよかった。
「起こして悪いね」
「どうかなさったのですか?」
目元をこすりながら尋ねると、軍人はサラのベッドに腰を下ろして彼女の頭を優しく撫でた。
「あと二時間もすれば出港するんだ。その前にお嬢ちゃんの顔を見ておこうと思ったのさ」
サラはどうして自分の顔をわざわざ、と不思議に思った。
それに客の軍人が起きているのにどうしてクレアがいないのかも。
客が起きる前に起きるのが遊女の掟だった。
「不思議そうな顔をしているね。クレアのことなら心配いらないさ。しみったれた別れの挨拶はいらないと私が言ったんだ」
サラには軍人の言っていることがよくわからなかった。
けれど、彼の瞳は屋根裏部屋の暗闇の中でも、美しく輝いて見えた。
まるでマッチを擦った瞬間のわずかな煌めき。
「同僚は軍人たるもの約束など残してくるものじゃない、と言うんだ。まあ、いつ死ぬかわからないから、それも仕方がないね」
軍人はそう言ってくすくす笑った。
サラが小首を傾げると、彼は軽く頷いた。
「まだわからなくていいんだよ。いや、わからない方がいいかもしれないな。まあ、とにもかくにも、私にはあまり関係のないことさ。こんなことを言っては臆病者と思われるかもしれないが、軍人が死ぬのは結果論なんだよ」
「姐さんが悲しみます」
「そうだと嬉しいね」
軍人が死んでクレアが悲しむことを彼は嬉しいと言う。その感覚をサラは理解できなかった。
「女を泣かせる男はダメだって姐さんが言ってました」
「あはは、敵わないな。そいつは正しいとも」
「軍人さんも悪い男ですか?」
彼はふっと微笑んで、もう一度サラの頭を優しく撫でた。
「ああ、そうかもしれないね」
そうして彼は立ち上がると、別れを告げて梯子に足をかけた。
サラは何かを言わなければならない気がして声をかけようとしたが、彼がにっこりと微笑んだせいで何も言えなかった。
「クレアに、すまなかったと――」
それは、とても寂しい響きがする言葉だった。
けれど、その音はサラにとってとても温かく聞こえた。
***
その軍人が戦死したことを知ったのは、敗戦から数日後のことだった。
クレアのもとに届けられた遺品は確かに彼の着ていた軍服で、ところどころ破れていた。その上、全体的に乾いた血糊で汚れていて、彼の死に様がどんなものだったのか想像することさえもできなかった。
クレアは涙を流さなかった。
あくまでも客のひとりだったんだ、とサラはとくに声をかけようともしなかった。
けれど、クレアはその軍服を竃に放り込んだので驚いた。
「――嘘つき」
サラはその時のクレアの表情を瞼に焼き付けた。
思い出せば、軍人が帰った朝もクレアは眠ったふりをしているだけで、彼がいなくなるとすぐに起き出していた。
「姐さん?」
「サラ、覚えていなさい」
クレアは軍服の灰を火かき棒で崩して掠れる声を震わせる。
「戦って散った男が欲しいのは女の涙なんかじゃないのよ」
それからクレアは沈黙した。
屋根裏部屋の窓から眺めた空には、珍しく海鳥が飛んでいた。
ほどなくして、サラは娼館の若旦那に呼ばれた。
身請けの話があった。
クローリー家から使用人が大金を持ってやってきたのだという。
「身に覚えがありません」
サラは小太りの若旦那に正直にそう告げた。
すると彼は大きく頷いた。
「クレアの常客だった軍人だ。覚えているだろう? ほら、この前遺品の軍服も届いたじゃねえかい」
ようやく得心したサラは、けれど不思議だった。
クレアを遊女から解放するというのなら納得できる。けれど、どうして小間使いの自分を身請けしようとしたのかわからなかった。
それに、確かに軍人はサラのハジメテをもらうと冗談を言っていたけれど、本人は戦死してしまった。一体誰に買われるのかわからなかった。
若旦那はこう言った。
「クローリー家ってのはお貴族様さ。まあ、今度の戦争で爵位やらなんやらはぶっ飛んだって話だが、まだ財産がある。信じられない話だが、あの軍人はお前を実家の養子にするって遺書に残しておいたそうだ」
いよいよわからなかった。それならクレアの面倒も見てくれたらよかったのに、と思った。
けれど、若旦那はサラの気持ちなんて見透かしたように言う。
「クレアはな、断ったんだろうよ。あいつの性格だ。死んだ男の骨をしゃぶるなんて真似するはずがねえのさ」
それを聞いて、サラはようやくクレアの気持ちが理解できたような気がした。けれど、それはほんの少しだけ、それも表面の上澄みみたいなもの。
「じゃあ、わたしもそんな真似はできません」
「そいつは全く別の問題だ」
若旦那は苦笑した。首を傾げるサラに問答を投げかけた。
「クレアは泣いたか?」
サラは首を横に振った。
すると彼はまた問う。
「あの軍人が、クレアにとってただの客だと思ったか?」
サラはまた首を横に振った。
すると彼は満足げに頷いてまた尋ねた。
「じゃあ、どうしてクレアは泣かなかったと思う?」
サラはたくさん考えた。
普段使わない頭をひねって叩いてぐるぐる回してみたけれど、やっぱり答えは見つからない。
クレアに聞けば早いのに、それはなんだか嫌だったし、してはいけないことだと思った。
若旦那はサラの様子を見て愉快そうにくつくつ喉を鳴らした。
「根っからの気高い女なのさ、クレアはな」
それは答えのようで、全く答えではなかった。
***
娼館の桟橋に係留した小舟に乗り込んだサラに、クレアは小さな筒のようなものを渡した。
「万華鏡というの。中を覗いてごらんなさい。違うわ。下を向かずに光の方に向けなさいったら」
言われた通りに小さな穴から中を覗くと、とてもキラキラしていた。そこに色とりどりの何かがあるのだろう。サラにはそれが光の明暗が幾重にも明滅しているように見えた。それだけでも十分に美しかった。
「きれい。姐さんの瞳みたい」
「お世辞はお止しなさいな」
苦笑してクレアは言った。
「それがもっときれいに見えたら、あなたにも色んなことがわかるようになるわ」
「これがもっときれいに見えるんですか?」
驚いた様子のサラに、クレアは鼻を鳴らして得意気に腕を組む。
「元気で暮らしなさいね」
「姐さんもお達者で」
「どこで覚えたのかしら、そんな言葉」
別れ際にクレアを驚かせることができて、サラはなんだか嬉しかった。
いたずらが成功した腕白小僧のように笑った。
遠ざかる小舟から、サラは見えなくなるまでずっと手を振っていた。
クレアもまたずっと彼女を見送り続ける。
いつの間にか隣にやってきた若旦那が言った。
「お前さんのお役目も終わりってわけだ」
「そうね。ここには置いておけないもの」
小舟が曲がって見えなくなると、クレアは小さく息をついて空を見上げた。
白い雲がいくつか浮かんでいるが、海鳥はいなかった。
「しかし、よかったのかい?」
クレアは若旦那の唐突な質問に首を傾げた。
彼は湖面に映る街並みに何かを重ねて言った。
「お前さんだって、もうここにいる理由なんてないんだぜ?」
「若旦那は見てくれの割にお人好しだって、わたし知っているわ」
「そうかい。まっ、好きなだけここにいればいいさ」
若旦那は背中がかゆそうに肩を回した。
見えなくなった小舟の行方を見つめているクレアに、若旦那は踵を返して背中を見せる。
「なあ、クレア。あの軍人は幸せものだぜ」
お前さんは死んだ男の覚悟と誇りを守ったんだ。
本当に気高い女だ――若旦那は惜しむように笑った。
桟橋にひとり残されたクレアは真っ青な空を仰いだ。海鳥はいない。
瞼を閉じてもサラの顔は浮かばなかった。
「ハジメテの外は、きっと楽しいでしょうね」
願わくば、あの小さく無知な女の子に、この世の誰にも劣らない幸せを。
――クレアは初めて目元を拭った。