学校で起こる心霊現象を遠巻きに観察する人たち
ここは、良く幽霊が出ると噂の小学校の旧校舎…
から、川を挟んだ向かいにあるマンション。
とある夫妻はこのマンションの403号室に住んでいた。
近過ぎず遠過ぎない距離のため、このマンションのベランダからは旧校舎の全景が見える。
時期は4月4日。時刻は午後4時40分。
この夫婦は小学校の旧校舎へ注目していた。
「あなた…4時44分まで、もう少しね」
「そうだねえ、妻よ」
4月4日の4時44分…
この小学校の旧校舎には毎年、この日のこの時間に怪奇現象が起きる。
「暗いわね…」
まだ夕方の時刻だというのに、あの旧校舎の周りだけ何故か薄暗い。
「天気予報は曇りだったかな?」
「ピーカンよ。あなた」
「そうかい…もう始まってるのかねえ」
-午後4時41分。
ビュオ…
強い風が吹き始めた。
「風が出てきたねえ」
「まだちょっと寒いかもしれないわね」
「いや、多分この時間が特別なんだろう。どれ、何か羽織るものでも…」
「ああ、私が持ってきます。着る毛布っていうのがあったから」
「そこまで寒くはならないと思うが…じゃあ、お願いするよ」
部屋の中へ消える妻へ、優しげな視線を送る夫。
どこにでもある夫婦の、仲睦まじい姿だ。
-午後4時42分。
「はい、あなた」
妻は夫に着る毛布を渡した。
「ありがとう、早かったね」
「まだ冬物は、しまってなかったからね」
「とりあえず今は大丈夫だから、そこに置いておいてくれ」
夫が旧校舎の方へ目を戻すと、そこへ引き寄せられるようにサッカーボールが転がっていった。
「お、あれは怪奇現象かな?」
夫の声に従い、妻も旧校舎へ目を向ける。
「そうねえ、野球のボールが…」
「ん?野球?」
夫が聞き返す。
妻は別な方向を見た。
「あら、そっちの方にはバスケットボールが…」
「おいおい…」
旧校舎の校庭に吸い寄せられるように、野球ボール、サッカーボール、バスケットボール、ピンポン玉などが集まっている。
「傍から見てると、異様な光景ね」
「野球やサッカーボールまでなら分かるんだが…屋内スポーツの球も転がってきてるねえ。アレなんか、風船じゃないのかい?」
「ちょっと待って!あれ、バスケットボールじゃないわ!」
「何だって?どこだい?」
「肌色っぽくて似ているけどアレって…」
「肌色でボールぐらいの大きさの物体…?まま、まさか、生くb」
「水球よ!」
「なんだ水球か」
夫が安心したように「ふう…」と息を吐く。
妻が夫の方を向く。
「あなた…今、グロいこと言おうとしなかった?」
「いや、言ってないよ」
「『生首』…みたいな」
夫の目を見つめる妻。
対して夫は妻から目をそらしながら答える。
「生首なんて言ってない!な、生田目選手だ」
「誰よ?」
「何か…いただろう!野球の選手かなんかで!」
「知らないわよ。いたとしても、生田目選手が転がってたらおかしいでしょう?」
夫が押し黙る。
そして少しの沈黙の間、再び口を開いた。
「…そんなこと言ったら、水球も十分おかしいだろう。小学校で水球の授業なんかあったかい?」
妻が少し考えるそぶりを見せる。
「私のところは無かったわね。興味も無かったわ」
「じゃあ、なんで水球のボールを知っているんだい…」
「とりあえず、グロい発言は禁止ね」
夫の質問を無視して妻が言い放つ。
「グロいのが嫌なら、この心霊現象は見ない方が良いんじゃないのかい?」
「それとこれとは別なのよ」
「別なのかい」
夫は腑に落ちない顔を見せた。
-午後4時43分。
「随分集まったわね」
「ボールがねえ」
数十にも及ぶボールが、校庭に転がっている。
「もうちょっとあればボールプールが出来そうよ」
「だとすると、風船がちょっと怖いねえ」
「ああ、割れちゃいそうね」
「うん、地面に転がってるってことは中身は空気より重い気体が入ってるってことだろう?
きっと息で膨らましたんだよ。そんな知らない人の息が入った風船が割れた日にはもう…」
「そっちの怖さなのね…あ!」
「どうしたんだい?妻よ」
「興味を持ったのかしら?子供が何人か校庭に入ったわ」
夫が旧校舎の校庭を見ると、確かに小学生らしき子供たちの姿が見えた。
「流石にこんな大量のボールが吸い込まれてったら気になるよねえ」
「旧校舎の入り口が勝手に開いたわ!」
「おお!そして側には誰も居ない!無人!ということは今の時間は?」
妻は学校の時計を指さす。
「4時44分よ!」
「いやっほう!恐怖のゲームの始まりだい!」
右手を掲げて飛び上がり、はしゃぐ夫。
「あなた、落ち着いて」
それを妻は、冷静に宥める。
「ふう…ふう…大丈夫だ、落ち着いた。スマンな妻よ」
独特の呼吸法で落ち着きをとり戻す夫。
「見て見て!ボールが校舎の中に!」
開け放たれたドアに、転がり込むボール達。
「妻もテンション上がってるじゃないか!おお!本当に吸い込んでるねえ。怪奇現象だねえ。量が多過ぎるって意味でも怪奇現象だねえ」
「校庭に居た一人の女の子がボールを追いかけて入っていったわ!」
見ると、低学年くらいの小さな女の子が水球を追いかけて旧校舎に入る姿が見えた。
「話題的にホットな水球だねえ。何でアレを選んで追いかけたのかは謎だねえ」
入口からは離れていた子供の何人かが、その様子を見て女の子を追いかける。
「あ、あの子たちも校舎に入るみたい!」
「良いねえ、誘うように校舎へ吸い込まれるボール。気になって、それを追う小さな子供…さらにその姿を心配した子供が追いかける…と」
「何かが始まりそうね!というか始まってるわね!」
「これで小さい女の子と男の子が1人ずつ…そして高学年ぽい男女も1人ずつ入ったね。全部で4人か、意味深な数字だねえ」
4人が校舎に入ると、ドアが勢いよく閉じた。
「あなた!アレ!勝手に閉まったわ!」
「お約束だねえ。きっと開かないんだろうねえ」
「ここからは無線がつながっております」
妻がどこからかヘッドフォンやら大きな機材やらを出す。
「マジかい?妻よ!」
「嘘よ」
「嘘かい!妻よ!じゃあ何だいそれは?」
「朝のうちに忍び込んで仕込んどいたんだけど…どれも調子が悪くて。心霊現象と電子機器って、相性悪いのよねえ」
「こういうのって録りたい時に録れなくて、録りたくない時に録れちゃうからねえ…」
夫が残念がった様子を見せる。
「というか仕込みはしてたのかい。凄い行動力だねえ」
「この無線も、さっきから語尾に『くちゃーに…くちゃーに』言ってる人の声しか聞こえないわ」
「うん、それ呪われるやつだから可及的速やかに切った方が良いぞ妻よ」
「とりあえず、ここで見守ってましょう…はい、双眼鏡」
「ありがとう。流石準備が良いね、妻よ」
夫は高精度の双眼鏡を受け取ろうとする。
パツッ!
「オウフ!心霊現象だねえ」
夫の反応で、妻がとっさに手を引く。
「静電気ね…さっき毛布持ってきたからかしら?」
「科学的に諭されてしまったよ。今から非科学的なやつ見るのに」
「はい、あなた」
今度は無事に受け取る夫。
妻も別な双眼鏡を取り出し、二人で校舎の入り口をのぞく。
「入口のドアが激しく振動してるわ…きっと開かなくて叩いてるのよ」
「やっぱり開かないんだねえ」
「見て!あの小さな男の子は近くの窓を叩いてるわ!」
「お!あっちの高学年の男の子は水球のボールをぶつけて、跳ね返って自分に当たってるねえ」
「アレは水球じゃないわ。バスケットボールよ」
「何でそんなにボールに詳しいんだい、妻よ?というか、視力良すぎないかい?」
「あ!あの女の子も凄いわよ!」
「お?おお!アレは椅子かな?もしかしてアレで叩くつもりかい?パワフルだねえ。しかし、どこから持って来たんだろう?」
高学年の女の子が椅子で窓を破ろうとしている様子が見えた。
大きく振りかぶって…叩きつけた。
「凄いわね、反動が。『バイ~ン』って感じで跳ね返って転んでるわ。ヒビすら入らない。強化ガラスと同じ原理なのかしら?」
「…何か窓を抑えてる幽霊が、うっすら見えて来てないかい?」
微かにだが、校舎の外に窓に手をついている幽霊が数人現れた。
「あらほんと。割れないように押さえているのかしら?結構必死ね。あの幽霊達も」
「おや?子供たちの動きが止まったねえ」
「何だか怖がっているようにも見えるわ」
「あ~…多分、向こう側から見ると急に窓に無数の手が出てきたからじゃないかい?」
「こっち側から見ると、跪いた姿勢で手だけ揚げて抑えているようだけど」
「お?あの子たち、一旦集合したねえ」
高学年の男の子を中心に、子供たちが廊下の一角に固まった。
「廊下の明かりが点いたわ!」
廊下の電気がチカチカと照らされる。
点いたからと言って、決して明るくもない。
点滅を繰り返す、非常に不安な印象を受ける光だ。
子供たちも不安げに周囲を見ている。
「旧校舎って電気は通っているのかい?」
「通ってないわ」
「おお!ということは、あの子たちが点けたにしろ、自然に点いたにしろ怪奇現象ということになるねえ」
「あの子たち、点いた時にキョロキョロしていたから自然に点いたんじゃないかしら?」
「妻よ、ナイス考察だ」
夫は妻に向かってウインクしながらサムズアップした。
妻は再び校舎へ注意を向ける。
「今は、3人集まって高学年の男の子と女の子がスマホを見ているようね…」
「多分、外部と連絡を取ろうとしているんだろうねえ。そしてきっと、繋がらないんだろうねえ」
1階の廊下には、スマホとにらめっこしている高学年の男女が見えた。
小さい男の子はその様子をしげしげと眺めている。
どうやら彼はスマホを持っていないようだ。
「そういえば、4人入ったよね?もう一人の小さい女の子はどうしたんだい?」
「見えないわね…廊下の死角に居るのかしら?」
妻は双眼鏡をいったん外し、全景を見る。
「あ、あなた!あれ!」
「ん?見つかったのかい?」
「人面犬よ人面犬!校庭の砂場の方!」
妻の双眼鏡は、中年の男のような顔の人面犬をとらえていた。
「マジかい?ちょ、スマホスマホ!」
慌てて部屋に戻ろうとする夫を、妻が制する。
「待って!あるわ!でもスマホだとちょっとズームが弱いかも…」
「う~ん…こうなるんだったら、デジカメとか一眼レフを準備しとくんだったねえ」
「双眼鏡越しに撮るっていうのはどう?」
「う~ん…結構高難易度だねえ」
妻は双眼鏡を片手にスマホをあてがい、シャッターを切る。
カシャッ
電子音が響く。
「撮ったけど…どう?」
妻はスマホを夫に見せる。
「ああもう、ぶれちゃってるよ妻よ、これじゃあ心霊写真みたいだ」
「なら、もう一回写しましょ」
「どれ、今度は私が撮ろう」
「じゃあ、お願い」
妻からスマホを受け取る夫。
パチっ!
「オウ!妻よ、帯電し過ぎじゃないかい?」
驚きながらも、しっかりとスマホは手にした夫。
「『くちゃーに』のせいかしら?」
「関係ないと思うけどねえ。というかその話題で引っ張るのは、もうやめたほうが良いかもしれないねえ」
「よくわからないけど、わかったわ」
「詳細はググってくれ妻よ…じゃあ今度はぶれないように、しっかりと持とうか」
夫は出来るだけ手ブレをおさえながら、双眼鏡越しにシャッターを切った。
カシャッ
「どう?」
夫は首を振る。
「これもダメだ。心霊写真だ」
「ぶれちゃったの?」
「いや、心霊写真だ」
「え?…あ、マジなほうの心霊写真?」
「そうなんだ妻よ。人面犬に幽霊被っちゃったねえ」
「あらホント。窓の幽霊ね」
「今、幽霊を欲してないんだけどねえ。ホント、録りたい時に録れないねえ」
「ホントね!」
「アッハハハハ」
「ウッフフフフ」
二人の特徴的な笑い声がハモる。
「ふう…で、今はどんな様子なんだい?」
ひとしきり笑ったあたりで、夫が仕切りなおす。
「あの3人は、まだ動き出さないわね」
「そうかい。なら、はぐれた女の子でも探してみるかい?」
「う~ん…」
夫と妻が双眼鏡をのぞきながら校舎を探す。
「…あ、居た!」
「…今度は人面犬じゃないよねえ?」
「あの女の子よ!何か下向いて何かを追いかけてるみたいだけど…」
「何だって?まさか、未だボール追っかけてるっていうのかい?」
「そうみたいね、走り方が校舎に入っていった感じと同じみたいだもん」
「どこに居るんだい?」
妻が女の子のいる辺りを指さす。
「4階の廊下よ」
「4階の廊下…え?4階?よんか…4階!?え…、よ、4階!?」
驚きのあまり妻を二度見の後に、同じことを三回聞き返す夫。
「テンパり過ぎよ、あなた」
「本当に4階なのかい?どこだい?」
「あそこ、ホラ」
妻の指さした方向へ双眼鏡を向ける夫。
「…居るねえ。4階の廊下を、随分とゆっくりなスピードで走ってるねえ。ボールが転がるルートに、あの子は何の疑問も抱かなかったのかねえ?」
「あ、そろそろあの子たちも動きそうよ」
1階を指さしながら、妻が言った。
「恐らくスマホがつながらないから、先にはぐれたあの女の子を探す流れじゃないかねえ?」
「1階のどこかの教室に入ったみたいね」
「流石にこの双眼鏡でも、教室の中までは見えないねえ。せいぜい廊下ぐらいだ」
「ひとまず4階の女の子でも追ってみましょうか」
「そうだねえ…ん?居ないぞ?」
4階に視線を戻すと、女の子の姿は無かった。
「あらホント、どこに行ったのかしら?」
「う~ん…あ…!」
夫が視線を上に向ける。
屋上を見た後、何故かさらに上の方へ視線を上げていく。
そしてそのまま、固まった。
「どうしたの?あなた…居たの?」
「…」
「あなた!」
声を荒げる妻に、硬直が解ける夫。
「あ、ああ。うん。居たねえ。居たけど…」
やや言葉を言いよどむ夫。
「どこに?」
「…屋上だ、妻よ」
「屋上?…あらホント…!」
妻も屋上に視線を向けた後、さらに上へ上へ視線を移動した。
そして、同じように少しの間硬直した。
「ふう…まだ追いかけているねえ…一体何を追いかけているんだい?あの子は」
夫の声に、妻も硬直から解き放たれた。
「あ、うん…ちょっとここからじゃあ見えないわね…」
少女は屋上のペントハウスの周りをぐるぐると回っている。
足元はパラペットのせいで見えない。
「ちなみにパラペットっていうのは屋上の端部にある、低い壁のことだ」
「知ってるわあなた、役目は雨の防水でしょ?誰に説明してるの?」
「カバヤキにすると うまいぞ」
「それはウナギのことよ」
「うむ、ところで追いかけているのは本当にボールかい?」
「ボール追いかけてたんだから、ボールじゃない?」
「…あの子自体がが怪奇現象なんじゃ無いのかい?『妖怪ボール追いかけ』みたいな」
「歴史の浅そうな幽霊ね…もしかしたら、幻覚を見させられてるとかじゃない?」
「幻覚?」
夫は少し考える仕草を見せる。
「…幽霊に誘われて、そのままついていっちゃうみたいなアレかい?」
「そうそう」
妻が肯定する。
「もしくは憑りつかれて勝手に動いてるとか…そう考えると、あの子自体が幽霊って線もあるねえ」
「うんうん」
妻が頷く。
「うん…まあ、それはそれで良いんだが…妻よ」
「何?」
妻が首をかしげる。
「女の子よりも気になるのがあるんだが…アレは、何だい?」
夫は屋上より、はるか上空を指さした。
「建物の上に建物があるくらいの大きさじゃないのかい?」
そこには学校のサイズよりも、もっと巨大な人型の幽霊が浮いていた。
ちなみにボールを追いかけている女の子は、下を向いていて気付いていない。
巨大な幽霊は少女に気付いているのかいないのか、ほとんど動かない。
学校全体が薄暗くなっているのは、この幽霊の影になっているからだろう。
「アレは…私の考えだけど、良い?」
妻が右手を揚げる。
「どうぞ、妻よ」
夫が指先をつまむ。
パチィッ!
「帯電ハンパないな、妻よ」
何となく予想していたので驚かなくなった夫。
「念でも習得しようかしら?」
「話を戻そう…アレは何だい?」
「ラスボスじゃない?」
「ラスボス?」
夫は考え込んだ。
「う~ん…それがベストな答えじゃ無いとは思うんだが…そうなのか?」
「多分ね」
「アレがラスボスだとすると、直前である屋上への踊り場か入口あたりにセーブポイントがあるのかい?」
「かもしれないわね」
「じゃあ、あの子たちは最終的にはアレと戦うのかい?」
「そうなるんじゃない?きっと、それまでの道のりも危険なのよ」
「なるほど、前途多難ということかい。う~ん…」
夫は少しの間視線を下に落とし、難しい顔をして考えるそぶりを見せる。
「正直な感想を言って良いかい?」
夫は俯いたまま妻に尋ねる。
「どうぞ、あなた」
妻に促された瞬間、彼は弾かれる様に顔を上げた。
「凄い楽しみ!」
満面の笑みだった。
「私も!」
妻も、満面の笑みだった。
「妻!」
「あなた!」
夫が両手を広げる。
妻も両手を広げる。
引き寄せられる二人。
背景では、遠くで微かに響く子供たちの悲鳴。
二人の影が重なる…
パチチッ!
「ぐおお!静電気~!」
夫が飛びのく。
「あなた、静電気に怒っても仕方ないわ!」
「ええい、何で妻は平気なんだい!ガチで念を習得したほうが良いんじゃないのかい?」
「それよりもあなた…聞こえた?」
「ああ!そうだ…さっきのは!?」
「ええ」
抱き合おうとした瞬間、確かに聞こえた響き。
「…良いシーン見逃したか!?」
それは…悲鳴。
「何か絶叫みたいなのが聞こえたわね!」
電光石火で双眼鏡をのぞく二人。
妻は念を発動しているのかわからないが、夫よりかなり早かった。
「あの子たちはどこだ!?」
「あなた!あそこあそこ!」
「どこだあ!妻よお!」
「2階の真ん中よりちょっと右らへん!」
夫はそちらに双眼鏡をむける。
走っている人影が見えた。
「おお!走ってるねえボーイ!逃げているのかい?追いかけているのは…?裸の人間?
そんな訳ないか?そんな訳ないか!え?ってことは?うっひょう!人体模型だ!た~のしい!」
「あなた、落ち着いて!」
「ふう…ふう…」
夫が息を吐く。
「いや、つい興奮してしまった。取り乱して済まない」
「その呼吸法、何で息を吐いてるだけなのに落ち着くの?」
「女性にラマーズ法っていう呼吸法があるだろう?男性にも賢者モードっていう呼吸法があるんだよ」
「そうなの?」
妻は何となく腑に落ちない顔をしている。
「うむ。落ち着いた」
「とりあえずさっきのはアレね。理科実験室あたりでひともんちゃくあって、それで追いかけられている感じよ」
「妻よ、ナイス考察だ」
低学年の男の子は3階へ階段で上がり、すぐそばの教室の中へ駆け込んだ。
人体模型も3階までは来れたが、見失ったようにキョロキョロしている。
「あの小さい男の子は逃げ切れるのかしら?」
「しかし、高学年の男女組が見えないねえ…おお!?」
不意に、廊下にあったロッカーが倒れた。
側にいた人体模型は派手に吹っ飛ばされた。
「今の見たかい?妻よ」
「見たわ。あの人体模型、バラバラになったわね」
むくりと起き上がる人影。
「あ、立ち上がったわ!」
「え?あの状態でかい?」
妻が人影を注視する。
「いや、二人いるわ…あれは!高学年のカップルよ!」
「何か口論してるっぽいねえ」
「『ちょっと!何やってんのよ!』『何だとこのじゃじゃ馬あ!』みたいな感じかしら」
「妻よ、ワードセンスが昭和だぞ」
夫の言葉に妻が赤くなる。
「…もしかして二人ともロッカーの中に居たんじゃ」
「え?あの狭いロッカーの中に二人で…オウフ!ノーズブラッド!」
鼻血を吹き出す夫。
「あなた!」
妻が急いでティッシュを持ってくる。
「おお、スマン。ふう…ふう…スマン」
賢者モードで体制を整える夫。
「多分、ロッカーの中で動いて、倒れたんじゃないかしら?」
「妻よ、ナイス考察だ」
夫のお馴染みのサムズアップ。
ツイッターやフェイスブックだったら6回くらい「いいね!」を押している勢いだ。
「何か下見て驚いてるわね」
妻は安定の無視。
夫はあまり気にしないことにした。
「ふむ、下にはバラバラになった人体模型が居るからねえ」
学校では口論している様子に気付いたのか、廊下に小さい男の子が出てくる。
「おお、教室からちびっ子が出てきたねえ」
「無事合流できたわね」
「それで、あのはぐれた女の子は今どこだい?」
「ええっと…?」
夫は学校内を探すも、どこにも見つからない。
「居ないねえ」
「あ、あなた!あれ!」
「お、居たのかい?」
「砂場の方!」
「砂場?砂場って?」
「人面犬よ人面犬!」
校庭の隅にある砂場を指さす妻。
「いやいや、そいつはもう良いって、妻よ」
双眼鏡を下ろして妻の方を向く夫。
「いや…その側に、あの子が居るのよ」
「何?」
夫は再び双眼鏡を構えなおして、砂場の方を見る。
人面犬に向かって、お手を受けるような仕草をしている女の子が居た。
ちなみに人面犬のほうは、微動だにしていない。
「…校舎から出ているじゃないか」
「ドアも開いてるわね」
校舎の扉は、無造作に開け放たれている。
「3人組のあの子たちは何してるんだい?」
「ええっと…そのまま3階に居るわね。恐らく探索を続けるんでしょう。降りる気配は無いわ」
「まあ、今開いてるの知らないからねえ」
妻は校庭に双眼鏡の視線を戻した。
「あ、またボールが転がっているわ!」
どこから出てきたのか、校庭の真ん中にボールが出現した。
「…女の子も気付いたな。追いかけるか…?あ、追いかけ始めた」
「アレはバスケットボールかしら…?いや違う!アレはまさか…」
「え?ま、まさか…な、生首が」
「水球よ!」
「なんだ水球か」
夫はとりあえず一息ついた。
「あなた今、グロイこと言わなかった?」
「い、言ってないぞ妻よ!ここ、この目を見てくれ!」
完全に目をつぶる夫。
「絶対『生首が』って言ったわよね?」
顔文字の『><』と同じ表情のまま、夫が言い訳する。
「えっとアレだ。な、ナマク・ビガー伯爵のことを言ったんだよ」
「誰よその人?」
「アレだ。何か色仕掛けするとパンツくれる敵だ」
「それ多分ビネガーよ。伯爵どころか扱い的には三下よ」
「これはマズイ。黙ってごまかそう、黙ってごまかそう!ええい、黙ってごまかすぞ私はぁぁあ!」
「うるさいわあなた。矛盾がハンパないわよ」
「ふう…で、アレはなんなんだい?」
校舎へ吸い込まれる水球。
それを追いかけて入る女の子。
閉まる扉。
「ホントになんなんだい?あのシステム」
再び、微かに聞こえる子供たちの絶叫。
「あなた、また悲鳴!」
「おっ、キタね!今度は何だい?」
「3階のあそこよ!」
妻は3階の左端辺りを指さす。
「おお、図書室かな?本がすごい勢いで出てくるねえ」
端の図書室らしき場所から発生している大量の本。
廊下をどんどん侵食していく。
「徐々に本が増えるスピードが上がってるねえ」
最初は本の様子を伺いながら後ずさりで逃げている子供たちも、廊下の半分近くを侵食した辺りで背を向けて走り出した。
「今度は3人とも固まって逃げているわ…恐らく右端の階段で上か下に行くわね」
「なら2階を見ておいてくれ妻よ、私は4階を見る」
「わかったわ」
それぞれ右端を注視する二人。
先に見つけたのは夫だった。
「こっちに来たぞ妻よ…ええ!?まだ追いかけてくるのかい?」
「3階は完全に本で埋まっちゃったわね…」
「急に窓を押さえる霊がたくさん出てきたねえ」
「あんな勢いで本が出てきたら普通、窓なんか割れちゃうわ。彼らも頑張っているのね」
「子供たちは、4階の廊下を走っているねえ。そのまま屋上に上がった方が良かったんじゃないかい?」
「それは結果論よあなた。あの状況だと、本が上の階まで追ってくるとは思わないわ」
「なるほど、確かにそうだねえ」
夫が子供たちの逃げる先に双眼鏡を向ける。
「ん?端っこに人が居るような…?」
「あらホント…」
子供たちは何を思ったのか、3人とも急に立ち止まった。
「あ、あの人の側で子供たちの動きが急に止まったわ!」
「何やってるんだ、本が来るぞ!…ん?本も止まったぞ?」
「止まったわね…」
本は4階の4分の1ほどを残して止まった。
謎の人物と子供たちはその先に居たので無事だ。
「あの人っぽいの、多分何か言ったんだと思うんだが…どう思う?妻よ?」
「『廊下を走るな!』って感じじゃないかしら?教師の霊か何かなんじゃない?」
「妻よ、ナイス考察だ。本も止まったのは、恐らく霊的に上位の存在だから…って理由じゃないか?」
子供たちと言葉を何か交わしている様子だ。
少しだけの時間のあと教師らしき幽霊は、すうっと消えた。
「あ、あの人消えたわ」
「うんうん、旧校舎に潜む規則に厳しい教師の幽霊だったんだねえ」
再び動き出す3人。
「あの子たちは4階の探索を始めたわ!」
「ふむ、2階の理科実験室、3階の図書室とくると4階も何かあるのかねえ」
子供たちは本の山をしばらくにらみつけた後、階段に消えた。
「…と思ったら、そのまま屋上に上がるみたいね。本で廊下がほとんど埋まっちゃってるから探索出来ないみたい」
「う~ん、こうやってフラグ立てちゃうと何も起きないんだねえ」
夫がどこか残念そうな声を出す。
「屋上に出たわ!ラスボスとご対面よ!」
「セーブはしたのかねえ?」
妻が無視して子供たちの様子を伝える。
「3人とも怯えてるわね」
「無理もないねえ。学校そのものよりも大きいからねえ」
3人の中で、高学年の男の子が前に出た。
「あ!子供たちの中の一人が進み出たわ!」
男の子は何かを訴えかけているような仕草だ。
耳をすませば、声が聞こえる気がした。
「叫んでるっぽいねえ。『お前なんか怖くない!』的なことでも言ってるんだろうかねえ?」
しばらくその仕草を続けた後、ポケットから何かを出した。
そして…・
「あ、あの子!何か投げたわ!あの大きい幽霊に向かって!」
夫は双眼鏡をいったん外し、屋上から落ちるまでのボールの軌跡を目で追いかけた。
「白くて…ボールみたいな物だねえ。大きさとしては野球ボールくらいに見えるねえ」
「野球ボールなんじゃない?」
妻の答えに夫は納得したような顔を見せた。
「なるほど。忘れかけていたけど校舎の中には今、ボールが大量にあるんだったねえ」
「さっきのボール、狙いは合ってたけど相手の体を通り抜けて下に落ちたわね」
「幽霊だからねえ。物理攻撃なんか効かないみたいだねえ」
「あ…何か下の人に当たってたっぽいわよ」
妻がボールが落ちた辺りを指さす。
「え?下に人なんて居たのかい?まさか生首がおおっと何も言ってない」
夫が大げさに口元をおさえる。
「わざとらしいわ、あなた」
妻が半目で夫をにらむ。
「いやあ、もう一回くらいぶっこんだほうが良いかと思ったんだ、妻よ」
「なんでそんなに生首好きなの?」
「もうこの際だから言うけど、最近ツ〇ツムにはまっててねえ」
「いや、その理屈はおかしいわ。あなた」
「そうかい?ボールみたいな丸っこい物を見ると、つい想像してしまうんだが…っと、話がそれたねえ」
夫が「ふう…」と息を吐く。
「ともかく、何に当たったんだい?妻よ。もしかして、はぐれた小さな女の子かい?」
「いえ、あそこ」
妻の指さす辺りを見る。
しかし、何も見つけられない。
「どこだい?」
「良く見て」
妻からそう言われ、夫は目を凝らす。
そうすると、うっすらと何かが見えてくる気がした。
「んん?もしかしてあの薄いのかい?」
「そう」
「…窓の幽霊の一人じゃないか。頭を押さているねえ。こっちは物理攻撃効くのかい」
物凄い痛がりようだ。
幽霊が頭を抑えて転げまわっている。
きっと硬球だったのだろう。
「窓を抑えてるだけあって、実体化してるのかしら?」
「転げまわってる幽霊って珍しいから撮っとくかねえ」
「それは良い考えね、あなた」
夫がスマホに手を伸ばそうとした時、ふと気づいた。
「…んん?妻よ、何か周りが明るくなって来てないかい?」
オレンジのぎらつく太陽が眩しい。
妻がそれに気付いて叫ぶ。
「あなた!屋上!」
「何!?…何もないじゃないか!」
夫が屋上を見上げ、叫ぶ。
屋上の上空に居た巨大な幽霊が、居ない。
「私たちが下に気をとられている間に、ストーリーが進んでしまったようね」
「ぐぬぬ…またもや良いシーンを見逃してしまった」
ぐぬる夫。
「高学年の女の子が何か小さなものを掲げてるわね…」
「きっとキーアイテムだねえ。あれがあの幽霊の落とし物とか、封じ込める媒体とかそんな感じだろう」
「終了、って感じね。屋上から降りるみたいよ」
妻が小さく息を吐いた。
「今、はぐれた女の子はどこに居るんだい?」
「ええっと…あ、あそこね」
「私も見つけたぞ、妻よ…何やっているんだい?あの子は」
小さな女の子は、砂場で人面犬と向かい合ってうつぶせに寝そべっている。
「人面犬に伏せを教えているんじゃない?」
「何か見たことあるぞアレ」
「土下寝じゃない?」
「土下寝か。というか、心霊現象が解決する前から校庭に居るじゃないか。あの子は終始フリーダムだねえ」
旧校舎のドアが開いた。
「皆が出てきたわ!」
3人は直ぐに少女を見つけた。
「あれ、本は?…おお、ご都合主義で、3~4階をほとんど埋め尽くしてたのが消えてるねえ。
そして当初の目的である少女も見つけ出せた。全員無事だしハッピーエンドじゃないか。良いねえ」
「あら?あなた…」
妻がまた、何かに気付く。
「どうしたんだい?妻よ」
「アレ、人面犬じゃないわ」
少女と一緒に居た人面犬を、高学年の少女が抱きかかえている。
「何?…おお、普通の犬だねえ」
夫が犬の顔をチェックする。普通の秋田犬のようだ。
「アレも怪奇現象が解決したから元の姿に…って感じかしら?」
「うんうん、全て丸く収まって良い感じだねえ」
夫が微笑む。
「あなた!アレ!」
「今度は何だい?…うお!?」
「小さい男の子も…消えてるわ」
「どういうことだってばよ?」
「あなた、驚きのあまり口調が変わっているわ」
「おおスマンスマン、ヒッヒッフー」
「それラマーズ法よ」
「そうかい?まあこれはこれで、落ち着いたみたいだから良いんだ、妻よ」
「そう…じゃあ私の考えを言って良い?」
妻が右手を揚げる。
「どうぞ、妻よ」
指をつまむ夫。
「…」
「…」
静まり返る空気。
夫の顔が赤くなる。
「こいよ静電気!」
「静電気って、有っても無くても怒られる定めなのね…」
「ヒッヒッフーヒッヒッフーふう…ふう…よし落ち着いた」
「呼吸法、大分アレンジしたわね」
「とりあえず話をしてくれ、妻よ」
「ええ、あの小さい男の子は幽霊で、屋上の大きい幽霊に困っていたのよ」
「おお、なるほど」
「で、あの屋上の幽霊を処理するのに何らかのキーアイテムが必要で、幽霊の男の子には見つけられないか使えないの。
だから、ボールを引き寄せて人間を呼び寄せて手伝ってもらった…ていう筋書きよ!」
「妻よ、マーベラスな考察だ!」
妻のざっくりとした説明に、賞賛を送る夫。
「もっと褒めても良いのよ」
「アッハハハ」
「ウッフフフ」
二人の特徴的な笑い声がハモる。
「じゃあ、私たちも消えるか」
「ええ、私たちも幽霊だもんね…」
「アッハハハ」
「ウッフフフ」
再び、二人の笑い声が響く。
夫のほうはひとしきり笑うと、懐からボールのような物を取り出し足元に叩きつけた。
辺り一帯に煙がたちこめる…
「何やってるのあなた!」
ゲホゲホと咳き込む妻。
「演出だよ妻よ!こう、幽霊だから煙のように消える的な…」
「けむり玉なんか用意しなくとも良いのよ!私たちはただの心霊好きの夫婦なんだし!」
「一年に一回のイベントなんだから良いだろう!」
「近所から火事だと思われるじゃない!」
「わかったよ妻よ!とりあえず煙逃がすから!」
そばにあった着る毛布をバサバサやる夫。
「もう!あなただけで処理してよね、それ!」
「うおおおお!!」
煙の処理を任された夫。
全力で煙を逃がす。
夫は近所迷惑もかえりみずに叫んだ。
「来年も見るぞおおお!!」
「そうね…」
部屋の中から、近所への煙の言い訳を考える妻の小さい返事が響いた。
4月4日、4時44分。
毎年起こる小学校の旧校舎の怪談。
恒例行事の心霊現象である。
「でも何で毎年この日のこの時間に心霊現象が起こるんだい?」
「お盆みたいな感じなんじゃないの?幽霊にとっては、この日に霊力が一番強くなるとか?」
「そんなもんなのかねえ…」
「とりあえず近所にはバル〇ンでも焚いてたって言おうかしら…」




