貴方の心、癒します。
「お隣、いいですか?」
近くで男の声がして、河合雪は持っていた本を閉じて顔をあげた。
雨の日である。いや正しくは、晴れの日だったはずが、今さっき降り出した雨によっての雨の日である。
別に雨は嫌いじゃない。遠く、肉眼では確認できないほど遠くから、一斉に降り出す雫はどこか神秘的でいて、センチメンタルな思いに耽るには最適なのである。
ただ何となく好きな本を開いて、何となく文字を眺めているだけでも、このロマンチックな雰囲気に溶け込むことができる気がするのだ。
「ん〜〜」
雪はガチガチにこった体をほぐしながら、改めて店内を見渡した。
いきなり降ってきた雨をしのぐために入った喫茶店にしては、なかなか雰囲気のある店である。店はアンティークをモチーフとしているようで、白熱電球を用いた明かりは、暖かい光を放っている。
「お隣、いいですか?」
自分の視界の中に姿を見せない人間から声をかけられるのは、なかなか驚きを隠せないものだ。案の定、雪も驚いた。
しかし、雪が驚いたワケは他にもある。
数分前、雪以外の客は全員店を出ていったはずなのだ。人がいないということは当然、店内は静かで、ドアに取り付けられている鈴がなっていないという事ぐらい確認できる。
この男、どこから出てきた...?
謎だ。謎すぎる。考えても分からない「答え」を探すフリをして、雪は思考を停止させる。
若干のリロード時間を経て、雪は改めて男を見た。
いや、ただの男ではない。どこのブランドかは分からないが、どう見てもお高いスーツを着こなし、滲み出る紳士感の持ち主である。いや、紳士である。
一体、なぜ自分の隣になんて座りたがるのだろうか。
雪の頭で「はてな」が飛び回るが、当然答えが出るはずもない。
そんな、真顔で言葉を口にする気配を見せない雪を見て、紳士は慌てたように言った。
「あ、す、すみません。読書中でしたか。この店にお若い方が来ることなんて滅多にないものですから、つい、声をかけてしまいました」
ナンパなんかじゃないですよ。と、恥ずかしそうに頰を掻く姿は、どこか幼い少年のようである。
「あ、いえ。急に雨が降り出したものですから。少し休憩していただけなんですよ。ど、どうぞ」
雪はおずおずと、カウンター席の隣に紳士をまねく。
そのとたん、またしても少年のような笑顔を雪に向け、ありがとうございます。と礼を口にした。
「雨ですね〜」
席についた紳士は独り言のように呟いて、被っていた帽子を手に持った。
「雨の日、女性の方は特に体が冷えたりするみたいですね。僕のオススメは、当店限定のこだわりココアです。まだ何も頼んでいないようなら、どうですか?」
紳士は海外風のメニューを開き、長い指で商品を指し示す。
「あ、はい。そうですね。それにします」
実際、雪はメニューを見て根を上げていたのだ。ズラーっと並んだ無駄に長い名前の商品を注文するには勇気がいるし、何より、それがなんなのかさえ分かっていない状況である。
「味は僕が保証しますよ」
紳士はニッコリと笑うと
「これを一つ。あと、これも」
簡潔でありながら、なんとも優雅に注文を終えた。
「え、えっと。これは頼んでないのですが......」
紳士が追加で注文したのは、なんとも名前の長いクッキーである。結構な値段もするため、それなりの味の保証はされているのだろう。
「あ、これ。ココアにすごく合うんです。お近づきの印に僕からのサービスですよ」
....紳士というのは、気まできくのか。
雪の懐具合まで見透かしたような紳士の態度に感心しつつ、淑女への道を考えていると、ふと、紳士に違和感を持った。
それは紳士がメニューを片付ける際、紳士の帽子でほとんど隠されていた目についてだ。
深いブルーの目である。純粋な日本人は恐らく持っていないであろう目の色。
いや実際は、目に異物を混入させて、元の目の色以外の色に変えることができる便利アイテムはある。しかし、紳士がそんなアイテムを使っているなんて、不自然もいいところだろう。
「父がフランス人なんですよ。もうとっくに他界してるんですけどね。目の色は父親譲りです」
雪の視線に気づいたのか、紳士は恥ずかしそうに説明する。
「つまり、ハーフという事になるのですが、この歳でハーフなんて少し恥ずかしかったりするんですよ」
紳士は少し笑うと、ちょうど紳士が席に座る前に注文していたと考えられるブラックコーヒーが机に届けられた。
「この店は落ち着くとかあったかいと、よく言われたりします」
「あったかい....ですか.....」
「はい。あったかいです」
「あったかい」に少し力を入れて、紳士は届けられたブラックコーヒーをゆっくりと口に含む。
「雨の日は空に雲がかかって、太陽が隠れて、全体的に暗くなるでしょう。そんな中、この店の明かりを見つけるんです。その時、ぽっと、心があったかくなるんですよ」
おとぎ話みたいでしょう。と紳士は笑う。
「雨によって人の心情は変化します。その人がお客さんとしてお店に入ってくると、お店の雰囲気も変化します。そうやって、この店は成り立っているんですよ。さて」
紳士は立ち上がり、帽子を被ると言った。
「空が晴れてきましたね。休憩のお時間も終わりを告げているようです。それではまたのご来店、お待ちしております。お客様」
雪の手元に置いてあるココアカップが空になったのを確認すると、紳士は優雅にお辞儀して、一枚の伝票を手渡した。
おそらくココアの商品名であろう長い名前が表記されていて、その下のおそらくクッキーであろう長い名前には、二本の線で消されているのが確認できる。
薄々、気がついていた事ではあった。
紳士がどうやって、ドアの鈴の音をたてずに外から店の中に入ってきたのか。ということだ。
具体的に方法を述べるとすれば、たった一つしかない。つまり紳士は「最初から店の中にいた」のである。
そう考えると、矛盾が生まれる。確かに紳士が現れる数分前、店の中には雪一人しかいなかったはずなのだ。だとしたら、「最初から店の中にいた」というのはおかしい。
しかし、「お客」としてではなく、「スタッフ」としてだったら。当然、店の中にいるはずである。
つまり紳士は、お客としてではなく、店員として雪に話しかけたのだ。分かってはいたが、改めて考えてみれば当然のことだ。生まれてこのかた、ナンパ経験なんぞなかったのだから。
「ふ〜」
名探偵気取りの自分の推理に満足しつつ、溢れる涙をハンカチで拭きつつ、雪もつられて席を立ち、カウンターの窓の外を見た。
雨雲の間をくぐり抜けた太陽の光が輝いて、その奥に青空が広がっていることが分かる。
雨の雫と同じくらい、神秘的である。
「雨上がりの空って綺麗ですね〜」
雪はココアの代金を紳士に支払い、出口のドアの前に立つ。そして、なかなか開けられないドアを押すのを諦め、紳士の方を向いて言った。
「また来ますね。今度は晴れの日に」
雪の行動にクスクスと紳士は笑うと、ドアを引いて雪に一礼する。
「お待ちしております」
『コスプレもどき喫茶』
〜貴方の心、癒します〜
店長 風間貴紳
『雨の日の喫茶店にて』というテーマをもとに、藤夜アキさんと創作企画に参加させていただきました!
第二弾となりますので、よければ、第一回テーマ創作企画の作品も読んでください!