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9.悪い予感

【前回のあらすじ】


突然、「ボク」から一方的な別れを切り出された琴乃は激しく動揺する。

そこに偶然現れた母。その母から「ボク」との関係の実相を見抜かれた琴乃はさらに動揺する。


居ても立っても居られない彼女は「ボク」に思い余って電話する。

そこには、別れを口にしたことを深く後悔していた「ボク」がいた。

 半日だけだったが、彼女の存在がなければ、ボクは精神的に破綻しかねないんだということに気づかされた。そして、こんなボクを、未だに追いかけてくれる彼女の存在が、特別なものに思われてくるのだった。過去の誰よりも彼女はボクを愛してくれている。一度も会ったことはないし、顔すら見たことはないけど、ボクは彼女が人生の最愛の人であると疑いなく思った。


 翌日からの週末は、平然とやり過ごせた。ボクは彼女を疑うことを止めていたし、彼女もいつもと変わらず、可能な限りの時間をボクに割いてくれた。彼女が大好きだという梅田駅界隈の様子を写真に収め、それを次々に見せてくれた。ボクも、あたりを散歩して、彼女に伝えたい風景や光景を次々にアップした。


 音楽を聴くのも、美しい花々を見るのも、彼女に伝えようとするとさらに美しく聴こえるし美しく見える。彼女の存在がなければ見落としていたような些細なことも、彼女と共有できると思うからその美しさに目が留まる。空を覆う雲でさえ、刻々にその姿を変える様が、特別な意味を持つかのように感じたりする。ひとつひとつの存在にそれぞれ意味や価値があり、それらのすべてがボクと彼女と無関係ではなく彩を添えるのだ。


 ボクはなぜ彼女に対して疑念を持ってしまったのか、自分の精神状態を振り返った。何もないところに疑念を抱いていた気がした。考える必要のないことに恐れをなし、相手を疑い、そして別れを口にする、それらはすべて自分の狭量な心がみせる幻影であって、ボクと彼女との実相は、深くて誰にも邪魔されない愛で満たされたものだと確信した。


 これからは彼女をひたすら愛そう。すべてを包み込むように、彼女が望む穏やかな愛の日々を送られるようにしよう、そう誓った。そしてそのことを彼女にも伝えた。


 それからの数週間が一番美しい日々だったと思う。ボクはできるだけ美しい花々を見つけて、それらの写真をクリッピングして彼女に届けた。朝昼夕にはその日の天気と気分に合わせて彼女のために選曲して届けた。


 全てが彼女との時間のためにあり、それ以外を求めることはなくなった。仕事は淡々とすませ、彼女との時間を阻害する要因をすべて排除した。はっきり求めるものが決まった以上、ボクはそれに向けて静かに準備をするだけだった。


 妻から連絡が来ることはない。娘とは週に何回かLineでやり取りをする。小さい時からボクと一緒の時間が長かったからか、娘はボクとの連絡を今でも同じ年頃の子供よりも多くしているように思う。それでも、成長するにつれてその回数は減ってきたが、もし、琴乃の存在がなければ、ボクは彼女からのLineの回数が減ったことを嘆いていたかもしれない。


 万事が上手く回る。いつか必ず神が決めた日がやってくる、ボクはかつて苦し紛れに使ったこのフレーズが、今ではボクの正直な気持ちとして使えることに満足していた。かつて、妻と過ごしたこの場所も、今は琴乃との思い出に変わろうとしていた。それほど、ボクはどんな時どんな場所にいても彼女を思い出した。満員電車に揺られている時でも、ボクは彼女のことを思う。帰り道、暗い車窓に自分自身の疲れた顔を見つけても、それまでのように嫌な気持ちにならなかった。自然のままに、全てが神の配剤で落ち着くべきところに落ちつくはず、そういう気分だった。



 そんな時、あまりに意外で想定外の事実を聞かされる。


「家の人の単身赴任が終わることになった……」


 ボクは心臓をギュッと掴まれた気がした。無防備に裸になったところに氷水を浴びせかけられたほどの衝撃があった。


「新幹線通勤が認められて、そうしてもいいことになったらしいの。

 ごめんね……」


 彼女に謝られたところで、ボクに何ができるというのだろう…… せっかく将来を見通し始めたという矢先に、これまでの生活のリズム、彼女と築き上げたボクたちなりの一日がある日突然奪い去られる理不尽さを感じた。


「何か気づかれたとか、そういうことなのかな……?」


 ボクは最悪の状態を想定せざるを得なくなった。それまでの満たされた気持ちが、また大きく揺らぎ始めたのを自覚した。

 あの時、別れていればよかったのかも…… そんなことすら思った。明らかに別れのカウントダウンが始まったような気がした。


「特に気づいた様子はないよ。会社の事情で変わったのかな……」


「定期異動の時期なの?」


「違うと思う」


 何かが動き始めている。不都合な真実が隠されていることに、ボクは目を瞑ることができなくなった。


「今までのような感じじゃいかなくなるね」


「電話で話す時間は少し減るかもしれない…… 

 でも、ずっとムーちゃんのことが好きだから。できるだけの時間を作るからね」


「うん、まあできたらでいいよ…… で、いつから?」


「来週の木曜日には帰ってくるって……」


「早いな…… 今週末も帰ってくるの?」


「うん…… 多分……」


 力が抜けた。彼女ために全てをなげうち、穏やかな時間をつくろうと決めた直後だけに、自分が道化の役回りをさせられている気がして、情けなくなった。


「今日は疲れたから寝るよ」


「うん…… ムーちゃん、私は変わらないからね…… 信じてね」


 彼女は引き留めなかった。いつもならまだ眠くないという時間にも関わらず、彼女はボクを引き留めることなく、このまま眠ってしまうつもりなのだろうか…… 裏切られた気持ちがムクムクと湧き上がる。何か言ってやらないと気が済まない、ボクは胸の中にどす黒い雲が湧き上がるのを抑えられなかった。


「ハハ…… 琴乃の何を信じたらいいんだろうね。言葉?」


「そんなふうに言わないで…… 悲しくなるよ」


「だって、ボクには何もできないよね。単身赴任じゃなくなります、はいそうですか、それでお終いだよね。ボクがダメだと言えば単身赴任じゃなくなるわけでもないよね」


「私だって悲しいのに……」


「悲しい? 本当? これからは寂しい夜もなくなるよ。ボクなんかとつまんないメッセージのやり取りなどしなくても、目の前にいつでも一緒に笑えて抱き合える人がいるんだから」


「寂しいからムーちゃんと付き合ってるわけじゃないって言ってるのに……」


「ボクね、前から腑に落ちなかったんだよ。琴乃が家の人に大事にされている、愛されていると思うということと、ボクを愛している、ボク以外には絶対に抱かれないという言葉が、どうして同じ人の口から出てくるのかが、わからなかったよ。わかんない、わかんない…… もうわかんないよ…… 寝る!」


 ボクは後悔していた。彼女のことを大切にしよう、彼女のためだけに時間を使おうと決めたことを。もはや、ボクは逃げ道を塞いでいた。彼女の存在なくして、一瞬たりとも立っていけない状況に自分をあえて追い込んでしまったことを後悔した。ボクはもう彼女の存在を前提にしなければ生きていけないのだ。それだけ依存してしまった。その覚悟をしてしまった。


 どうしてくれるんだよ、この気持ちを…… 

 そんな情けないことを思う自分が恨めしかった。

読んでくださってありがとうございました。

いかがでしたでしょうか?


ご意見ご感想お聞かせいただくと嬉しいです。


次回は単身赴任の解消を契機に、久しぶりに夫との会話が成立し微妙に変化する琴乃の気持ちを描きます。

引き続きお読みいただけると幸せです。よろしくお願いします。

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