8.思い通りにならない人
【前回のあらすじ】
夫に大事にされていると語る琴乃に動揺する「ボク」
琴乃が語るその言葉と「ボク」だけを愛しているという言葉の矛盾に耐えきれず別れを口にしてしまうが、琴乃は置き去りにされた気持ちを抑えられない。
また仕事を休んでしまった。もう何回目だろう。
あの人は私のことをわかっていない。私がどれだけ命を縮めてこの愛を守ってきたか。
あの人が現実世界の私をどうイメージしているのかわからないけど、私は必死であの人を追いかけ続けた。そのことに嘘はないし後悔もしていない。
だけど、身体は悲鳴をあげてる。落ち着く日がない。最初から切ない気持ちが続いていたけど、そのうち、彼が発する言葉に悲しい気持ち、追い詰められた気持ち、逃げ場のない気持ち、そういう感情までもが加わって、それでもなお私はあの人を追いかけて、傷ついて、もう何をどう考えていいかわからない状態がずっと続いている。
そんな私の異変に母が気が付いたようで、あの日突然マンションにやってきた。
「あなた…… どうしちゃったの……」
玄関先で私の顔を見るなり、母は言葉を失った。食事も喉を通らない、熟睡もできない、もう立っているのがやっとの私が、母にどう映ったか、考えるまでもない。
「お母さん、私、ひとりになりたいの……」
幼い頃より、母は決して私の味方でいてくれたかどうかわからない。厳格な父親の陰で、父の意見に同意する母しか知らない。私が頑張れば認めてくれる父、私が一生懸命になれば認めてくれる父、一生懸命じゃなくても、結果が出れば認めてくれる父、私には常に父親が重荷だった。愛されているのはわかるけれど、それは何かの条件付きだったような気がする。自由奔放に振舞ったことなどあるだろうか……
私はいつも自分を律し、明日の自分が今日の自分より一歩でも前に進んでいなければ落ち着かない気持ちになるのは父の無言の視線のせいだったかもしれない。そして、母は父の代わりにいつも私を見張っている存在、そんな気がしていた。
だけど、今はそんな母親でも、その前で思い切り泣き出したかった。泣いて、思うに任せないすべてのことを吐き出してしまいたかった。
「もう嫌なの、あの人といるのが……
ダメなの、愛せないの、優しくされるのが嫌なの……」
「あなた…… 自分が何を言い出しているか、わかって言ってるの?」
「お母さんこそ私の何がわかってるの? 何がダメなの?
私にとって何がダメなの? 教えて、お母さん」
「冷静になりなさい。あなた…… とても見られた顔していないのよ。
圭さんに何の不満があるか知らないけど、夫婦で不満を言い出して何かいいことでもあると思うの?」
「もう嫌なの…… 彼には申し訳ないけど、ひとりにして欲しいの。もう愛せないの」
「愛せないって、あなた…… 人に言えないようなことしてるわけじゃないでしょうね」
母の言葉に怒気が含まれた。私の恋は精神世界の中でのことと思っていたけど、母からすれば不倫と同じなのだろうか、ふとそんなことを思うと涙が止まった。誤解されるわけにはいかないと思った。
「とても好きな人がいます。でも会ったこともありません。一度も会ったこともないし、その人はこれからもきっと会ってくれないと思います。だけどきっと私はその人のことだけがずっと好きなままだと思います。お母さんにわかってもらえるとは思いません。でも、その人のことばかり考えてるし、愛されるならその人に愛されたいんです」
母に話しながら、私の置かれている状況が正しく伝わるとは思えなくなっていた。娘は何を言い出したのだろう? 気でも狂ったのだろうか? 幻を愛している? これが正常な娘の発言なのだろうか?
きっと母は混乱するに違いない。
「圭さんに知られているわけじゃないんでしょ?」
「知らないと思う」
「だったらそれでいいじゃないの。会えない人なんでしょ? 会えない人を好きだからって、わざわざ圭さんに言う必要もないでしょ。好きでいればいいじゃない。その人が誰か知らないけど、その人が会わないって言ってるんでしょ? それでもあなたは好きなんでしょ? それであなたの気が済むなら、好きでいればいいわよ」
「好きでたまらないから、圭さんのことなんか忘れてるわ。それでもいいと言うの?」
「圭さんは知らないんでしょ? 少なくとも、あなたには知らないというふうに見えるんでしょ?」
「お母さん…… お母さんがそんなふうに言うとは思わなかった。きっと叱られると思った」
「なぜ叱るの? あなたは別に何もしていないわ」
「あの人に会いに行こうとしたことはあるわ」
「行けたの? 会えたの?」
「途中で新幹線を降りた……」
「それはね、そうできない理由があるからよ。あなたの中に、その人を信じていないところがある」
「信じてるわ。誰よりも私を愛してるって言ったわ。今でもきっとそう」
「でも、何も始まらない。あなたが思っていても、あなたの思う通りにはならない人なんでしょ?」
「そんなことはない!」
母の意見など聞きたくもなかった。私はスマホだけ持って外に駆け出した。ムーちゃんからは別れを切り出されたばかり、会社は休んだ、母が突然やってきた、明日には家の人も帰ってくる……
私は何をすればいいの? ムーちゃん…… ムーちゃん……
私を受け止めて…… 見放さないで……
私は彼に電話した。出てくれなくてもいいと思って電話した。
「…… もしもし」
「…… ムーちゃん」
「ごめんよ、琴乃。ボクはバカだから、何度も同じことを言って琴乃を悲しませる……」
「ありがとう…… ムーちゃん、電話に出てくれて……」
「絶対に出ようと決めてたから。ちょっとあとでいい? お昼にメッセージする」
「会社休んだから、いつでもいい。ずっと待ってる」
「そっか…… やっぱり愛してる。ボクには琴乃が必要だ」
あの人の声を聞くだけで一瞬だけでも落ち着く。彼に傷つけられて彼に癒される。その矛盾に気づかないわけではなかったけど、今はまだ彼が必要だと思った。
部屋に戻ると母が私の部屋を掃除していた。
自分でするからと言ってもやめようとしない。
「お母さん、もういいから。やめて!」
「…………」
母が目に涙をいっぱい溜めているのを見て、私は親不孝の自分を恨んだ。何も罪のない、まったく無関係の母親を悲しませている自分はどれだけ周囲を悲しませているのだろうか……
この時、ようやくそのことに少し気づいた。
読んでくださってありがとうございました。
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次回は別離の危機を逃れたのも束の間。琴乃の夫の単身赴任が解消されると知り、ふたたび動揺するボクを描きます。
引き続きお読みいただけると幸せです。よろしくお願いします。