7.辻褄の合わない現実
【前回のあらすじ】
初めて電話でお互いの声を確認しあうふたり。
それまでに交わした何万文字など意味がなかったようにお互いを身近に感じ、さらに愛し合うようになる。
彼女の声を聞いてからというもの、琴乃はボクにとって、もはやネット社会の住人ではなくなった。ボクが思い描いていたように、彼女はもともとボクの恋人で、たまたま今は離れているけれど、いつかは当たり前のように寄り添う存在になると思えるようになっていた。
だが、週末は必ずやってくる。そして、以前は月に一二度だった彼女の家人が、なぜか毎週のように自宅に戻ってくるようになった。それでも、彼女は買い物だとか、美容室だとか言い訳を作っては外出していたようで、その行き帰りに電話してくることが当たり前になった。休日は平日と違って、深夜遅くまで電話することはできなかったが、メッセージの頻度は以前の休日よりももっとずっと増えたような気がした。
ボクは彼女の気持ちを確かめたくなった。これだけボクとの時間を優先するなら、彼女はきっと家人との同居にそろそろ耐えがたいものを感じているに違いないと思ったからだ。
「ねえ、家の人とどんな会話するの?」
「あまり話はしないよ」
「だってご飯一緒に食べたりするんでしょ?」
「うん…… 静かに食べてる」
「だけど、すぐに自分の部屋に閉じこもったりすれば、何か言われたりしない?」
「疲れたって言うとそっとしててくれる。昔からそうだから」
「へえ~、変なの… ボクなら許さないけどね。
愛のない夫婦なの?」
「…… どうだろう。大事にされていると思う」
ボクは耳を疑った。彼女には自分が夫から大事にされている自覚があるという。ボクは心のどこかで彼女の結婚生活はすでに破綻していて、そこに愛はなく、惰性か世間体か、そういう煩わしいしがらみが残っているだけと思い込んでいた。その不自然さ不自由さに耐えきれぬ彼女がボクを求めているのなら、全て辻褄が合うと勝手に決め込んでいたから、愛がないわけではないと言わんばかりの彼女の返事を、ボクは辻褄の合う話として聞くことができなかった。
ボクは努めて平静を装ったが、もう会話を続ける力がわかなかった。
「今週末も帰ってくるんでしょ?」
「うん」
「最近多いね、帰ってくる頻度が」
「そうだね。…… ごめんね」
「ごめんといわれても…… 疲れたな、もう寝ようか」
また会話を打ち切ろうとしている。ボクは、彼女への猜疑心と嫉妬心に心が乱れそうになると、必ず電話やメッセージを打ち切ろうとした。それはボクが出せるギリギリのサインで、もうこれ以上話を続けると、どうしようもない自分を曝け出しそうになる、だからやめようという意味だった。嫌な自分ではいたくなかった。
ところが、彼女は必ず引き留めた。
「どうして? まだ眠くないのに……」
「でも何を話したらいいの?」
「なんでもいいよ、ムーちゃんが好きなことでいいの」
「好きなこと? ………エッチなこととか? ハハハ」
「うん、ムーちゃんが話たければそれでいいよ」
彼女は本当にそう思っているのだろう。彼女の言葉に嘘などなかった。一度もない。彼女は常にボクが優先で、ボクがしたい話を聞きたがった。ボクは、彼女を魅了する話などしている自覚がなかったから、そのこともかえって彼女への猜疑心を膨らませた。何か後ろめたいことがあるから、ボクの好きなようにさせるんじゃないかと思ってしまうのだ。
本当は休日には他の夫婦と同じような日常があって、それを彼女も大切にしているのではないか。ボクとの関係は、ひとり寝が寂しい平日の、ベッドサイドストーリーの意味しかないんじゃないか。そんなふうに思ってしまうのだ。
「琴乃とエッチがしたい……」
「うん…… いいよ」
試してるだけだ。ボクは琴乃がどの程度ボクを好きでいるか、その返事の仕方で試しているだけだ。
「…… 冗談だよ」
「冗談なの?……」
「冗談じゃなきゃ困るでしょ?」
「困らないよ……
ムーちゃん、私は会いに行くって前にも言ったよ。
その気持ちに変わりはないよ」
「琴乃、それはボクと手をつないで歩くって頃の話でしょ? 今は違うと思うよ」
「違わない!」
「ボクは抱くよ。なんの躊躇もせずに抱くよ。
今の生活を捨てて、ボクと一緒になるつもりはある?」
「…………」
今の生活を捨てる…… ボクはそこに力を込めた。ボクはさらに試したのだ。彼女を追い詰めたのだ。彼女の愛しているという言葉が何を意味しているかを試した。ボクと同じ意味なのか、それとも、言葉は空虚なままなのか、出会った最初の頃と何ら変わりなく、現実性を伴わない、覚悟のないままなのか、彼女を試した。
そしてその賭けに負けた。
「ほらね。琴乃は捨てられないよ。何一つ捨てられない……
ボクを愛しているってどういうことなの? ボクの何がそんなに好きなの? ボクが語りかける愛の言葉が心地よかっただけじゃないの? 琴乃の気持ちが湧きたつような言葉をずっと話しかけるボクが平日の間だけ必要なんじゃないの? 本当は土日にボクは邪魔なんじゃないの? いいんだよ、本当のことを言ってくれても。もうボクは気付いてるんだから。琴乃はボクと別れる準備をしてるんでしょ。本当は」
「死ねない……」
「誰も死んでくれなんて言ってないよ」
「だって、ムーちゃんと一緒になった後の世界が何一つ私には見えないよ。
ムーちゃんは私をずっと愛してくれる? 何度も何度も会いたいっていってるのに、それでも会ってくれない人が、本当にずっと愛してくれるの?
ムーちゃんは私を放り出す。そして私は長い時間ひとりぼっちになる。
生きていけない。ひとりぼっちでは生きていけない」
ボクは彼女の正直な言葉に半ば驚き、半ばホッとした。彼女はわかっているのだ。ボクが彼女を本当の意味では抱きとめていないこと、愛していると何万回口にしたところで、その愛の形は空虚で、現実世界に根付いたものではないことを。結局、現実世界に根付かないこの恋は、空虚さの中にいずれ消えていく運命だということを。
「別れようか……」
そう呟いていた。数か月間、彼女とのメッセージのやり取りに圧倒的な時間を費やした。書き綴った文字数はきっと何十万字に及ぶだろう。しかし、それらだけでは埋められない現実がある。愛の形、結実がどのようなものであるかは知らないが、最後の最後に求め続けられない関係など、成り立つわけがない。
「…… いつもいつもそう」
彼女は泣いていた。泣きながら恨めし気にそういった。
「いつもいつも、ムーちゃんは私の気持ちを置き去りにする。
私が考えていないことまで先回りして…
ムーちゃんが言った言葉の意味を考えている間に勝手に結論を出してしまう。
勝手よ。ムーちゃんは勝手よ。私の気持ちをどうして信じられないの? 私はムーちゃんが大事で、ムーちゃんのことしか好きじゃないって何度も言ってるのに、その言葉をどうして受け入れてくれないの? どうして?……」
最後の方は泣きじゃくって聞こえない。でも、ボクには言葉がない。もう彼女を引き留める言葉がない。
読んでくださってありがとうございました。
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次回は突然マンションに現れた母の言葉と姿に現実に気づき始める琴乃を描きます。
引き続きお読みいただけると幸せです。よろしくお願いします。




