5.高層マンションの一室
【前回のあらすじ】
故郷で過ごす琴乃。主人公のムーちゃんとの出会い、なぜ惹かれていったかを思い出している。
ひょっとして騙されている? 彼に惹かれる私は変?
そう思いながらも思いは募るばかり。
とうとう、彼の元へ向かおうと新幹線に乗る琴乃だが、行き先を知らない。
なぜ、会おうとしないの?
琴乃の思いはどんどん膨らんでしまう。
また夢を見ている。多分、ここは彼女の住むマンションの一室だ。入ったことはないが知っている。部屋の中で、ボクはダイニングテーブルに座って、リビングをぼんやり眺めている。
レモン色のカーテンの前に、白いファブリック調のソファーが置いてある。ソファー右手には背の高い観葉植物があり、淡い色調の部屋のアクセントになっている。
そのソファーにひとりの女性が、こちらに背を向けて横たわっている。ショートヘアに白いTシャツ姿。そして…
(琴乃……)
ボクは息を呑んでその姿を眺めている。
…………
いつの頃からか、ボクたちは、互いに今見ている景色を知りたがるようになった。文字ばかりのブログ記事に飽きるようなものだ。
「これ、今朝の朝焼け。キレイでしょ」
カーテンを開けると珍しく東の空が赤く染まっていた。ボクはそれを琴乃に見せたいと思った。
「へぇ〜〜、こんなふうに太陽が登るんだ」
彼女は見たまま素直にコメントしてくる。
「琴乃が見てる朝の景色も知りたいな」
同じ空の下……
陳腐だけど思ったまま素直に口にしてみる。
「うん。いいよ。だって写真は趣味だもん」
「そっか(笑) もっと早く気づけばよかった」
「じゃあ、毎朝アップするね」
そして彼女は翌日一枚の写真をHangoutで送ってきた。
そこには遥か遠くの山並み、画面右手には高層ビル街、そこにやや低空を飛ぶ航空機まで写り込んでいる。
「琴乃、これはまずいなあ〜。マンションの位置なんて、すぐに特定されちゃうよ(笑)」
「うん、でも、どうしたらいい?
ムーちゃんに私が見てる景色を教えたい」
その言葉がどれほどボクの心を満たしたことか。
「じゃあね、ドライブに共有フォルダ作ろう。
そうすれば、写真も音楽ファイルも共有できる。時には長いラブレターも書いて残そう。ボクたちだけが共有できればそれでいいよね」
「ワァーいいね、それ。溜まっていくねきっと」
それからというもの、ボクは目にする些細な景色、道端の小さな花々さえもスマホで撮影してはフォルダにアップした。彼女は時々ファイルを整理してくれて、いつ、どちらが撮影したのか、それらが交互に並ぶよう、ファイル名までもうまく付け換えて、ボクたちの一体感を演出してくれた。
「琴乃のマンションの位置なんて、これでほぼ確定済みだよ(笑)」
「ムーちゃんの写真はそういうランドマークがなさ過ぎだよ。あえてそうしてるの?」
「琴乃が無防備過ぎるだけだよ」
「えーっ、だって知って欲しいから……」
彼女はボクにすべてを任せている感じだった。
だが、それは逆にボクを追い込み責め立てる感じにもなった。
(私はすべてを見せた。あなたは?)
そう問われている気がしてしまうのだ。
ボクの煮え切らない態度は、彼女ではなくボク自身から責められる。
(なぜ、オマエは逃げるのか?)
妻との約束、娘が成人するまでは絶対に離婚しないという約束は、そもそもなんの為の、誰のための約束なのだろう。娘のため、というならキチンと娘に事情を説明し、理解させる方法だってあった。
ボクはその約束をいいことに、どこかでまだ妻とやり直そうとしているのではないのか? 家族の元に戻ろうとしているのではないか。
もしそうなら、ボクが琴乃に語りかけた言葉は、すべて嘘になるんじゃないのか……
琴乃が無防備に、そして際限ない愛の言葉を送ってくるたびに、ボクは自分の曖昧な態度に嫌悪する。神の名を持ち出してまで、現実世界では彼女を受け入れる覚悟がないと仄めかす自分に嫌悪する。
ボクは彼女に一体何を求めていたのだろうか。そんなことを考え始めてしまう。
ボクはブログに掲載された彼女の端正な文章そのものが好きだった。さらに、文章から溢れる彼女らしさが、ボクと同じ感覚、似た者同士の感情を呼び起こした。彼女への親近感はそこからスタートしている。だから、彼女がブログの世界からいなくなることは避けて欲しかった。何でも話せる仲間を失う気がして寂しかったから。彼女にはいつまでもボクに彼女が描く世界を見せ続けて欲しいと願ったのだ。
果たしてそれは恋と呼べるものだったのだろうか?
例えば、小説家の描く世界に没頭し、その世界を愛することが時として作家自身に向かうことはあるだろう。だが、小説の世界と現実の世界は厳然と隔絶していて、普通の感覚ならそのふたつが混然一体となることはない。頭の中でふたつの世界を初めから区別して理解するからだ。
ところが、ボクが彼女に出会ったブログの世界は、現実世界との隔絶の壁が低すぎた。手に触って直に感じることはできないが、双方向の言葉を通して実在をほぼ再現できた。そしてその相手も、小説家のように別世界の遠い存在ではなく、思ったり感じたりしていることがほぼリアルタイムに確認しあえる、もっと身近な存在だった。
だから、彼女は遠距離恋愛している相手程度の認識になってしまうのだ。見知らぬ世界の、本来なら触れ合うことのない存在ではなく、今たまたま触れ合っていないだけで、いつでも触れ合える存在に錯覚してしまうのだ。
愛とはなんだろう。
愛は実在性を確認できる相手にだけ成立するものなのだろうか? ボクは彼女を現実世界では一度も確認していないのだから、もし愛が実在を前提としているなら、彼女とのことを愛の名のもとに語ることはできないことになる。その意味の上では彼女は存在していないことになる。
だがそんなことがあるのか? 彼女が存在していないなんてことがあるはずがない。
では、彼女は実在しているのか?
確かに、目で追えばスマホの中でメッセージを書き込んでくる相手は空虚なものではない。むしろ、会話よりもより深いメッセージを文字に込めて伝えようとしているくらいだ。その相手とのやりとりが実在性のないものなんて言えるはずがない。
いやそれ以上に、ボクは彼女の選んだ文字の並びだけでなく、反応の早い遅い、書き出しのニュアンス、感嘆詞や絵文字などの使い方、それら目にする情報をひとつも見逃すことがないように注意を払い、彼女の心の在り処を掴もうとしている。
だから、ボクは正しく彼女を愛しているのだ。誰に聞かれても、空虚な幻影を愛しているわけではないと言い切れる。彼女は愛することのできる対象なのだ。誰が何と言おうと、彼女はボクの恋人なのだ、はっきりそう思う。
そう思う反面、彼女はボクには都合のいい女性、ひとり暮らしの寂しさを紛らわせる、現実世界に介在してこない、都合のいい女性でもある気がしていた。もし万一彼女の存在が不要になれば、黙って無視すればそれだけで存在がなかったことにできる、そういう都合のよさがあるのだ。
ボクは本当に彼女を愛しているのだろうか。これは愛なんだろうか、そう言い切るにふさわしいのだろうか……
逆に、ボクは彼女にとって、同じ意味で誰かの身代わり、都合のいい軽い存在でしかないんじゃないだろうか? そういう気持ちも湧きおこる。自分がそうだから、相手もそうかもしれないと思い始める。すると、いつか彼女がボクの元から去って、もともとあるべき場所、もともと愛すべき人の元に戻るのではないかという不安が嵩じる。
いつの日かボクの元から去るに違いない彼女と、彼女が毎日のように送ってくる愛しているという言葉、このふたつの矛盾がどんどん大きくなる。
だが、結局、ボクは現実世界に踏み出す用意がない。彼女を生身の存在として受け入れる用意がない。今のままが一番いいんだという気持ちがあって、この関係性ができるだけ長く続くことを願っている。それが逆に彼女を苦しめ、この関係を早くも終焉に向かわせているなど、その時はまだ気づいていない。
ボクだって愛している。琴乃のことを誰よりも……
ボクは延々と続く矛盾の中にいる。
………
目が醒めた。ボクは部屋の中に今もひとりきりでいる。彼女が送ってくれる高層階からの景色とは程遠い、くすんだ空さえまともに見えないような安アパートの現実が目に飛び込む。
こんな所へ彼女を連れてくるなんて、想像する方が無理だ……
ボクは苛立ちと諦めの気持ちを抑えきれず、また寝返りを打った。
読んでくださってありがとうございました。
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次回はふたりが初めてお互いの声を確認しあう場面を描きます。
引き続きお読みいただけると幸せです。よろしくお願いします。