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29.終章

それぞれが目の前の現実に耐えられなくなり、全てのアカウント、ブログ記事を削除し、退会処理まで行ってしまうと、お互いの気配はすっかり消え失せた。ふたりにはなにひとつ相手へ辿り着ける方法が残っていないことを思い知らされる。

残るのは、これまでの記憶しかない。

 眠っていた。いや、知らぬ間に気を失っていた。


 琴乃に激しい言葉を投げつけた気がするが、何も憶えていない……



(いや、別れたんだ。そうだ…… 琴乃がボクの目の前から気配を消したんだった)



 まだ酔っていた。アルコールに浸かったままの状態で朦朧としている。


 いつもの習慣でスマホを手に取る。


(マジか…… 夢じゃないんだ)


 ハングアウトの会話が全て消え失せていた。



 どことなく部屋の景色がいつもと違う…… 気づくとベッドに逆さまに寝ている。


 断片的な記憶が徐々に蘇る…… 



(そうだ、琴乃はボクと出会う前の自分を取り戻したいと言っていた…… いくら言い訳をしたところで、それはボクへの気持ちが失せた、そういうことだろ?)



(だから、確か…… 途中からボクの話なんか聞いてなかったはず)


(ブログ…… 消えてる、あいつ、消してる!)


 現実を目の当たりにして、ボクはようやく起き上がる。


(まさか…… アカウントも…… オフのままだ…… )


(ダメだ…… 消えてる。あいつ…… アカウントも削除したのか?)


(…… そうだ、ボクもブログを消したかも


 やっぱり…… 終わってる…… 全部終わってる…… )




 ふたたびベッドに仰向けになると、ひとりでに乾いた笑いがこみ上げる。


(アハハ…… ホントに終わるんだ、そういうことなんだ、アハハ、マジか)


 涙が一筋流れた。それは可笑しくて流れた涙だと思うことにしよう……




 だが、真実は覆い隠せない。喪失感はあまりに大きかった。


(なぜだ…… 琴乃…… ボクだけを愛してくれるんじゃなかったのか、ボク以外の誰にも抱かれないんじゃなかったのか…… )



 急速に胸が塞がってくるのがわかる。息苦しいほど胸が詰まる。身に着けているものを思い切り引き裂いて楽になりたい、そう思うほどに苦しい。

 何も手につかない。何をしていいかわからない。振り上げたこぶしを、ベッドに叩きつける。そうでもしなければ、身の処し方がわからない。


 この瞬間から、半年間当たり前だった時間のすべてが二度と手に入らない。具体的な喪失に、はっきり気づく。何をどうやっても取り返せないと知り、わっと叫びだしたくなる。目の前の景色がどうでもいいものに見える。


 もとより大切なものなど、この部屋にはない。ボクにとって意味のあったものは、スマホとタブレットとPCだけだったが、琴乃がいなくなれば、それすら必要ない。


(何をしたんだ、ボクは琴乃に何をしたんだ?)


 怒りが込み上げる。酔ってしでかした不始末を腹の底から憎む。このバカが! バカが! そうやって頭をこぶしでぶん殴ったところで、片時も心が静まりを見せない。


 振り返ろうとしてみるが、断片的に不都合な真実を思い出して、その重みに耐えかねるのか、思考が途中で止まってしまう。


(何があったか考えろ! 考えろ! 琴乃につながる何かを考えろ! )


 考える。琴乃との接点を考える。


 部屋をうろつく。窓の外を見る。いるはずのない琴乃の気配を探そうとしている。いるはずがない。そんな無駄な動きをする自分にふたたび強い怒りが襲う。この先のことに考えが及ぶと、絶望ですべてが塞がれる。


(なぜだ…… 琴乃…… なぜ何も残さないんだ…… )


 思い出せない、自分の言ったことがそこまで琴乃を痛めつけていたのか、琴乃がどんな反応をしたのか、それを思い出せない……


 ボクは果てのない後悔の中にいた。
















 家の人に抱きしめられても、何の感情も湧かない。ムーちゃんは、私が現実世界に戻ると思っているだろうけど、私の身体はもう誰も受け入れない。


 家の人の声は耳に届かない…… 何か言い訳しなきゃと思いながらも無言で部屋に閉じこもる。後ろ手で鍵を掛けてしまった。


 必死になって、彼のサインを探そうと考えている自分がいる。ムーちゃんと交わした言葉の数々はすべて消え去った。あとは私の記憶の中に残る、彼との微かな接点を探すしかない。私は必死になってそれを探している。


(こんなことなら我慢すればよかった…… )


 そんなふうにも思う。でも、彼が最後に投げかけた言葉は、とても見ていられなかった。私の存在など必要がなかったといわんばかりの言葉しか残っていなかった。二度と観ることはない、あの時はそう思った。


(だけど…… ムーちゃん…… どうしてなの……)


 涙が流れている。PCに向かって涙を流している。PCから目が離せない。ひょっとして、ムーちゃんから何かの連絡があるかもしれない、そんな絶対にありえないことに望みを託している。彼と交わした言葉の中に、未来につながることがないか、それを考え続けている。




(そうだ! 彼から伊丹空港と斑鳩の写真をアップして欲しいと頼まれていたんだった! )




 細い糸がつながった気がした…… 


(でも、それをどこにアップすればいいの? )


 次の瞬間、絶望している。


(ダメだわ…… どこに上げればいいかわからない…… )


 涙が溢れだす。せっかく辿り着いた赤い糸の先が目の前で途切れている残酷な光景を思い浮かべる。


(ムーちゃんに辿り着く方法がないよ…… どうして何の手がかりも残してくれなかったの…… )




 私たちはどこかで慢心していたのかもしれない。絶対に終わらない、いや、終わらせない、そう思ってきた。危機的な状況になることなど真剣に想像していなかった。自分たちの関係の危うさ、もしひとつでも歯車が狂ってしまえば、修復する術のない危うい関係だということを忘れていた。


(私が冷静であれば良かった。追い縋れば良かった)


 そうも思った。


(でも…… やっぱり無理。ムーちゃんに必要とされていないのに…… )



「終わるべくして終わる」


 彼はそんなふうに言っていた。でも、それならもっと前に私のことなど放っておいて欲しかった。


(なぜなの? なぜ、ここまで好きにさせて私を放り出すの? ) 


 恨めしい涙が流れてきた。


(ムーちゃん…… 結局、あなたにとって私はなんだったの? )



 家の人が呼んでる気がする。でも、今は応えたくない。お願いだから、ムーちゃんのことだけ考えさせて。ちゃんとお別れするから。もう、ムーちゃんには必要とされていないと思うから、私の戻ってくる場所はここしかないと思から、だから…… もう少しだけ、ムーちゃんの気配を追わせて欲しい。それでダメなら、ちゃんとした奥さんに戻るから…… もう少しだけ…… もう少しだけ……













<< あれから…… ひと月近くが経った >>





 現実世界が回り続けるというのはある意味では救いだ。現実世界は淡々と、何の刺激もない方がいいのかもしれない。できるだけ淡々と、できるだけ意味がなく、できるだけ多くの事柄が次々に目の前にやってきて、そして意味なく通り過ぎればいい。


 ボクは仕事に没頭した。ひとつひとつのマス目を埋めるがごとく、できるだけ丁寧に、時間をかけ、一字一句を確かめて、脇目も降らず一心に仕事をした。刻々と時間が過ぎ去り、あらかじめ決められた段取り通り物事が進むよう、細心の注意を払い、そのことだけに没頭しようとした。


(何も考えない。目の前のことをそのまま受け入れるだけだ)


 毎晩、部屋の隅々まで掃除した。タイルの目地の汚れが完全に取れるまで、手を休めることなくブラシで磨き続けた。グラスは綺麗に洗い、乾いたタオルで曇りがなくなるまで拭き取った。


(これがボクの日常だ。もともとこういう生活だった…… もとのリズムを刻むのだ)


 ブログもやめた。いや、ネット世界そのものから遠ざかった。離れてみると、別になくてもかまわないことに気づく。


(誰からも邪魔されない、淡々とした時間を過ごすのだ。好きなことだけに没頭しよう)


(……オペラ、そうオペラだ)



 死ぬまでにありとあらゆるオペラを理解する、そんなことを決めていた。妻と別れてひとり暮らしを始めたとき、これから先の有り余るひとりの時間をどうやって過ごそうか…… 何か一生分の時間を要するもの。その時ふとオペラだと閃いた。別に他の何でもよかったのだが。

 

 どんなことでもいい。無駄なことでいい。とにかく長々と続くひとりの時間に心を落ち着けることができるものであればいい。彼女と出会う前のあの頃も自分を持て余していたことを思い出す。


(あほらしい…… 何も変わってない)


 寂しい笑いが口の端を歪める。


 ふと琴乃のことを思い出す…… 悔しいけど、琴乃のことが頭から完全には離れない。


(諦めろ…… いい加減…… )


 余計な寄り道だったと思い込もうとした。だからもう一度、元に戻すのだ。こうありたいと思った姿の自分に戻るのだ。そう考えようとした。


(そうだ…… 戻るだけだ…… ボクは何も失ってなどいない…… )


 ボクは琴乃と知り合う前と後で何ら変化のない現実世界に救いを求めようとしたのだ。



















 同じ頃、琴乃も現実世界の中にいた……





 御堂筋線はいつも通り。8時前の通勤時間帯だと、そんなに混雑はしない。乗っている時間も20分弱。通勤が辛いなんてことはない。


 駅から歩いて10分弱の距離にあるオフィスビルに入る。社員6名の小さな会社。独立するという先輩に誘われた。夫のいる前の会社の仕事を請け負っている。システムエンジニアの端くれって仕事は本当に性に合っている。単調だけど、辛抱強く目配りすればちゃんと結果が出る仕事をコツコツ積み上げる。何も考えないで没頭できるし、達成感もある。この仕事で良かった。



 17時に仕事が終われば、駅前でその日の食材を買って帰る。お肉に偏りがちな主人の身体が少しだけ心配。それに新幹線通勤となった主人の帰りは毎日23時近く。大丈夫かしら。


 それまでの時間は、以前と同じように、部屋の隅々まで綺麗に手を入れる。玄関先に靴が脱ぎ捨てられているなんてまっぴら。あるべきものをあるべきところにきちんと揃える、そういう生活が好き。


 主人を待っている間は自分のために時間を費やす。英語の教材を開き、エッセイを書き、単調だけど昨日より今日、今日より明日、そう思える日常にようやく戻れた。


 主人との関係は、少しは修復できたのかもしれない。私が変われば関係は変わる。あの日のあと、突然そう思った。私次第なのだと。目の前の人を大事にする。彼が望むことを先回りして考え、できることは何でもする。難しく考えなければいい。あの人にはできたこと、主人に対してできないわけがない。




 ムーちゃん…… その人の名前を思い浮かべることも、考えることもほとんどなくなった。辛かったけど、どうしても繋がらないのなら諦めるしかない。私はちゃんと心に蓋をしたわ。


 あの頃、私は何に夢中になっていたんだろう? 

 そう言えば、彼は繰り返し繰り返してこう訊いてきた……



「琴乃はボクの何が好きなの?」



 琴乃…… ムーちゃん、私は理子だよ。古いブログに上げたバースデーケーキの写真で本名に気づいたって言ってたよね。だから…… もう理子でいいよね。


 彼がそう質問した気持ちが、今は少しだけわかる。でも、答えはあの時と同じではっきりしたことなどわからない。好きで好きでたまらなかった。ひょっとすると、今でもそうかもしれない。

 未来に向けて何の約束できなかったけど、でも、本当に好きだった。ただそれだけ……




(約束? ……)


 ふと、ある日の会話を思い出した。あれはひとりでライブビューイングを観に行ったあとの電話だったかしら…… 彼とオペラに行く約束をした。



(確か、予約開始が6月の終わり? もうすぐ?)

 

(でも…… ムーちゃんは忘れてるよね、あんな約束。だって、ちゃんと交わした約束じゃないもの)


 



…………


「どうだった? ガラガラでしょ? 梅田とはいえ、せいぜい20人くらい?」


「そんなに少くないよ! 大阪をバカにしたな!」


「いやいや、ボクがさいたま新都心で観たときは3人くらいしかいなかったから、アハハハハ」


「フフフ…… それより全然多いよ! でもいつか、本物のオペラ観たいな、ムーちゃんと一緒に」


「うん。いつかね。一緒に行こうか、新国立劇場。

 あそこはね、ボクはオペラを観るというより、あの空間が好きだから通ってる気がするけどね」


「へぇ~、お気に入りなんだ」


「うん、なぜか落ち着く。音が悪いとか舞台が見えないとか、イマイチ評判良くないけど、ボクは好き。劇場の匂いも好き」


「へぇ~」


「ホールに入るとね、以前は正面に必ず大きなフラワーアレンジメントがあったんだ。そこを左に折れて数段上がると右手にクロークがある。そこに手荷物を預け、後方の階段を上りつめると広い踊り場になっていて、そこをまた左に折れると正面にホワイエが見えてくる。そこの柱の配置とかが好き。

 まぁ、ボクはいつも4階だから、ホワイエはちらっと見るだけで、すぐに左手の階段を上るんだけどね」


「なんだかグルグル回るんだね。でも行ってみたいな~、ムーちゃんと…… 」


「じゃあさ、そこで初めて会うということにする? 席を取っておくから、琴乃は空いた席を見つけてこういうんだ。ここ空いてますか? って。ええ、と言えば、それがボクだよ」


「ロマンチックな演出ね!」


「いいだろ…… あっ、ダメだ!」


「えっ? なんで」


「チケットがないとホワイエの手前でシャットアウトだ。中には入れないよ、アハハハハ」


「じゃあ待っててよ、その入り口で!」


「だって、それじゃロマンチックじゃないだろ?」


「いいの! ロマンチックじゃなくて!」


「じゃあ…… 何か方法を考えよう」


「本当よ、約束だからね」


「うん、そうだな…… 来シーズンの予約は…… 6月の終わりからだね」


「間に合うね! なんだか楽しみ~。ライブビューイングも良かったけど、本物が見たい!」


「スペインで観たんだろ? な~んも憶えてないらしいけど」


「アハハハ、そうだった。あの時は誰もちゃんと教えてくれなかったから」


「オペラはね、ある意味様式美だから、事前にできるだけ多くのことを知ってないと楽しめないよ」


「うん、椿姫ならかなり勉強したから絶対楽しめると思う」


「そうだね、CDもDVDもライブビューイングも観てるからね。椿姫だね。運のいいことに、来シーズンは椿姫があるよ。あっ、でもこの時期だとフラワーアレンジメントはないかも」


「えーっ、お花も見てみたいな」


「劇場デビューだからな…… できるだけ馴染んだ演目がいいと思うけど」


「…… そうなの? じゃあ…… ムーちゃんのお勧めにする」




 …………




 ボクはあの時の会話を思い出していた。そうだった。そんな約束をした。琴乃は、ボクの隣に座って、そっと手を握る、お互い、顔を見合わせることもなく、そっと手を握りあってオペラを観るんだと言っていた。


 ボクにはその頃の無邪気でメルヘンチックな琴乃がまぶしかった。心の底で、そんな叶わぬ出来事を夢見ることのできる琴乃が羨ましかった。


 でも、ボクはその日が来る前に琴乃の手を放した。無理やり放した。もう、琴乃がこの約束を心待ちにしていることもないだろう。


 それでも、6月の後半になると予約開始日を一応は確かめたくなる。


(先行予約は7/2からか…… )






(あの頃、こんなことも話したんだった…… )


 勝手に過去の記憶が蘇る。


……………


「初めてだから一番いい席にしてね!」


「贅沢だなぁ。4階の端っこで十分なんだけどな…… じゃあ最初だけだよ、2階の最前列。ボクはそこが一番だと思う」


「絶対だよ! 何着て行こうかな…… みんなおしゃれしてくるんでしょ?」


「1階席はそうかもね。でも、プルミエじゃなきゃ、4階はジーンズの人もいるよ。それでいいんだよ、別に」


「なに着ようかな……」


「あのね…… ボクが普通のジャケットだということを忘れないでね。おかしいでしょ? 片方がラフな格好なのに、もうひとりがキメキメなんて」


「だけど、わざわざ東京まで行くのに?」


「ちゃんと日帰りで帰れる時間にしとこうね。プルミエを外して、土日の昼間だな」


「…… 日帰りにしてくれて…… ありがとう…… 」



…………








 自分で自分を笑った。来るはずのない人のための席を予約した…… 


 2階6扉Ⅼ1列1×番、そしてその右隣














<< その数か月後 >>



 気が付いたら新幹線に乗っていた。思い出してしまった。ムーちゃんとの約束を……


 ムーちゃんがいなければ、それで本当におしまい。でも、万一…… その時はその時考えよう。



 それなりに落ち着いた数ヶ月を過ごした。主人のこともきちんと大切にしていると思う。でも、全てのことに決着がついていない気がする。



 東京駅まで来てしまった。新宿だと今は品川で降りるのかしら?





 新宿で…… ? 京王新線に乗り換える…… ?





 ひとつめの初台で降りて……





 劇場のホームページで何度も確認した。本当なら、ムーちゃんとはどこで待ち合わせをしたんだろう?


 改札を出て右手に折れる。すぐ左…… その先のエスカレータで地上に上る…… ?





 ここ…… 新国立劇場……




 

 石造りに落ち着いたエントランスの木目がアクセントになっていて、重厚感もあるけど温かい……


 愛する人、最愛の人が愛する場所…… ここなのね、ムーちゃん……


 やっと辿り着いた…… 


 


 胸が高鳴る…… 


 帰ろうか…… いや……

 

 迷わなくてもいいんだわ…… 決着をつける、そう決めたから。




 

 人々が三々五々劇場に入っていく。ムーちゃんが言ってた通り、そんなに着飾った人ばかりでもない。



 エントランスに入る。正面に…… 大きなフラワーアレンジメントが……


 残念ね…… ムーちゃんが言っていた、最初に目を奪われる綺麗で華やかなお花はないけど……


 



 左手に折れて…… さらに階段を上がって……





 ドキドキする…… 足元しか見られない……



 さらに左手に折れると、ホワイエが……














 モスグリーンのスマホを持った人…… Flow toneの音……


 その先は…… 涙が溢れてもうなにも見えない。





 ムーちゃん…… 最愛の人…… 

最終話までお付き合いいただき、心より御礼申し上げます。


◇◆◇◆

物語はフィクションです。

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