26.私の気持ち
【前回のあらすじ】
琴乃が帰省時に感じた家族への思いを聞き、将来に希望が持てなくなったボクは、これまでふたりで大切に積み上げてきた言葉の数々をすべて消去してしまう。こころが離れようとしている琴乃に対し、いつまでも拘泥している自分が哀れに思えたのだった。
そこへ偶然後輩がやってくる。今はOBPに赴任中という彼とビールを飲みながら気を紛らわせようとするボクだが、後輩との話題は嫌でも琴乃のことを思い起こさせる。
どうやってマンションまで戻ったのか憶えていない。部屋の鍵をどう開けたのか、自分で開けたのか、呼び鈴を押して開けてもらったのかも憶えていない。家の人に何か声をかけられたかどうかも憶えていない。部屋に閉じこもり、ベッドに横になるとそのまま眠ってしまっていた。
(疲れた…… )
彼のことを考える前に、疲れ切っている自分のことを考えた。
(このままだと、きっと私は死んでしまう…… )
GW中、家族の温かさに見守られている実感を得て、これからはすべての人に感謝と愛を込めて丁寧に接していこうと思っていた昨日のことが、嘘のように虚しく感じられた。ムーちゃんとのことはGW前となんら変わらない、そう思った。
ムーちゃんのことで居ても立っても居られないほど動揺する自分がいる反面で、ムーちゃん次第でこの恋は終わるんだなと思う自分もいる。終わったほうがいいんだとちょっとでも思うと、ダメ、彼のことが好き、大切、そういう声もしてくる。
(何度目?……)
彼には本当に何度も別れを切り出された。その度に、今振り返ると自分の愚かさ、惨めさを見せつけられるようで嫌になるけど、私は必死に追い縋ってきた。こんなにも誰かを愛し、そして拘るなんて初めてだった。私の中の何がそうさせるのかわからないけど彼を追いかけている。
(でも…… 疲れた)
ムーちゃんのことは今でも大好き。大切にしたい一番の人。でも…… 疲れた。
彼がドライブに保存した思い出の数々をあんなにも簡単に捨ててしまったことを思い出すと、彼のことを許せないというよりやるせなさで一杯になる。何がそこまでさせてしまうのだろう…… 私の理解を超えている。
あれだけお互いに大切にしようといっていた思い出の数々、彼が私にくれた言葉の数々、私が贈った言葉の数々が、もうそこにないということは、私たちももう一緒にいられない気もしてくる。そう考えるのが辛くて悲しい。
(別れるの? 私たちは本当に別れるの?)
(昨日、あんなに仲良く愛し合えたのに、なぜ今日いきなりなの?)
私にはどうしても、何度落ち着いて原因を探ろうとしても、その理由がわからない。私がムーちゃんを大切にしたいという気持ちには何の変化もないのに、彼は信用しない。
「夕食どうする?」
ドアの外から家の人が聞いてくる。すっかり頭の中から消えていたけど、私はあの人とここでこれから毎日顔を突き合わせて暮らすんだった…… これまでの休日とは違うんだった。
鏡の中の自分を見た。ひどい顔をしている。家の人はどう思うだろう。
「ごめんなさい。今はまだいらな…… 」
返事を遮るように、部屋のドアがやや乱暴に開いた。
「理子…… 何か食べないと体に悪いから。
僕と一緒が嫌なら、僕は出かけてきてもいいから、食事だけはちゃんとしなきゃダメだ」
「…… わかったから、少しそっとしておいて。今、食べられないだけ。あとでちゃんと食べるから。
ごめんなさい」
彼はドアの内側に入ってくることはなかった。
彼は優しい。いつも優しい。大切にしなきゃいけないと思ってる。だけど、ムーちゃんに辛く突き放された今、頭の中はムーちゃんで一杯。今夜の電話で仲直りができればいいのに、その不安で頭がいっぱい。お願いだから何も言わないで…… そんなどうしようもない気持ち。
ムーちゃんが言ってた。
「琴乃の気持ちもわかんないけど、家の人の気持ちがボクにはさっぱりわからない。琴乃の変化に気づかないほど鈍感な奴なの? それって、琴乃のことを愛していない、関心もない、そういうことじゃないの?」
その言葉を聞いても、それはきっと違うと思ってた。この人はそういう人じゃない。ムーちゃんとは違う。激しく人を愛する人じゃない。いや、愛しているなんて言葉を聞いたこともない。でも、いつでも私を見守ってくれているという印象、そっと大切にされているという印象は前から変わらない。
私がこの人を拒否した日以降も変わらない。愛情がないのかもしれない、でも、私に関心がないとは思えない。
(私はこの人を裏切ってるの?…… )
なぜこんなことができるのだろう?
(私は普通の妻じゃないの? 悪い妻なの?)
ムーちゃんのことを考えていたはずなのに、今度はまた家の人のことを考えている。
単身赴任が終わると聞いた時から、この人のことを考える時間が増えた。GW中は家族のことを考えた。義父母に対して申し訳ないと思う気持ちは強かったけど、この人のいつもと変わらぬ様子は、この人自身への後ろめたさを感じさせなかった。大事にしたいのはムーちゃんと、私を思ってくれる家族、その次にこの人という感じだった。
だけど、この人に突き放された感じは一度もしたことがない。
それに、この人と出会った時、この人の笑顔には救われた。確かに救われた。そして私から告白したんだった。あなたのことを好きになったみたいですって。
あなたはびっくりしてた。あの日のことを思い出した。
だけど、私は今、ムーちゃんのことで頭がいっぱいなの。ムーちゃんのことだけ考えさせて……
ドンッ……
玄関の重いドアが閉まる音がした。家の人が出て行ったのだろう。
私は急に不安になった。あの人がここを急に出ていくってことはないでしょうね……
私だけがここに残されるってことはないでしょうね……
これからも変わらず、あの人は空気のような存在で私の傍にいる人なんでしょ?
私はムーちゃんに見捨てられたらひとりでは生きていけない。
あの人が傍にいる今までの生活があれば、なんとかなる。
ひとりにしないで。私をひとりにしないで。
誰か、私を受け止めて……
ムーちゃんからの連絡はまだない。21時を過ぎたというのに、あんな別れ方をしたというのに、夜、必ず連絡するからと言ってくれたのに。
だけど…… 私からは連絡ができない。スマホを眺めることはできても、もう追いかけることができない。
(なぜなの? ムーちゃん…… なぜ、こんな気持ちにさせるの?)
私は待つしかない。ムーちゃんを待つしかない。
ムーちゃんが優しく受け入れてくれるのを待つしかない。
しばらくすると、家の人が外出先から戻ってきた。
ホッとした…… だけど、おかえりと言えなかった。
(ムーちゃん……
ムーちゃん次第なのよ。私を救うのも、追いやるのも…… )
それから1時間ほどして、メッセージが届いた。
「琴乃…… 琴乃の気持ちを聞かせて欲しい」
(…… ムーちゃん、私の気持ちじゃない。
ムーちゃんの気持ちが聞きたい)
読んでくださってありがとうございました。
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次回は酔ったまま暴走を始めるボクの気持ちを描きます。
引き続きお読みいただけると幸せです。よろしくお願いします。




