11.孤独に舞い戻る恐怖
【前回のあらすじ】
単身赴任の解消後、夫との会話が久しぶりに成立したことを感じる琴乃。
一方で、愛しているのはムーちゃんだけだとの思いも強くする。
だが、その気持ちを素直に受け止められない「ボク」を目の当たりにして、どうして私のことをわかってくれないのかと悩む琴乃。
琴乃に対してどんなに怒りに震えながら眠ったとしても、翌朝になれば彼女を求めている。いつもどおり、彼女がおはようとメッセージを送ってくれることを願っている。そして、その期待通り、彼女は早朝からメッセージをくれる。
「おはよう、ムーちゃん」
午前5時。いつもよりずっと早い時間だ。
この時間であることが、すでに彼女の意思を明確に示している。それをボクもちゃんと知っている。だから、ボクは、いつも通りの一日をスタートさせればいいだけなのだ。すぐさまおはようと返信し、昨日の事など言わなかったこと、聞かなかったこと、なかったことにすれば、きっとボクたちはその日一日を穏やかに過ごすことができるはず。
だが…… 愚かなボクにはそれができない。わだかまりが解けない。
(近い将来、彼女はボクとの関係のむなしさに気づく。そしてきっと離れていく…… )
そんなことを思っている。
(いまさら何をしても手遅れだ…… )
などど勝手に諦めている。だから、
(穏やかに別れる準備をした方がいい。彼女への依存を少しずつでも減らそう。ここに越してきた日に覚悟したとおり、ボクは一生涯の孤独に耐える準備をもう一度始めればいいだけだ。彼女と出会う前の自分に戻れば済む話じゃないか…… )
そんな情けないことをずっと思い続けている。
「おはよう、琴乃」
やっとそれだけ返信する。だが、それ以上続かない。
琴乃も、何と語りかければいいのか困っているのだろう。次のメッセージが来ない。しばらくして、ようやく続きが届く。
「…… 私とは話したくない?」
(琴乃…… 今はボクの気持ちを推し量ったらダメだ。ボクを無視していつもの琴乃でいてくれ)
ボクは先ほどまでの覚悟と裏腹な期待を相手に願う。いくらボクが不安になっても、琴乃はいつまでも追いかけてくれるはず、そう思いたい、そうであって欲しい。そのくせメッセージにはまるで素っ気ないことを書き込んでしまう。
「別に話してもいいけど、なんでそんなこと聞くの?」
ボクはもうダメだ……
素直になれない自分に気づく。考えてみれば、素直になれないボクをいつでも心穏やかにしてくれたのは、琴乃の何一つ疑わない態度だった。いつも真正面からボクに向き合い、素直に心に感じたままを伝え、言葉の限りを尽くしてボクを愛していると言ってくれる琴乃に、ボクは常に救われていた気がする。
そこまで気づいているのなら、ボクはこれまでのことを詫び、もう一度穏やかな世界に戻ればいいだけなのに、その簡単なことができない。何かがボクを押しとどめる。
「ムーちゃんに寂しい思いをさせるのは間違いないと思うから」
この文字の中に、ボクは彼女の心境の変化を見て取ってしまう。大量の文字だけのやり取りを重ねた結果、ボクには彼女の心の微妙な変化を、その時々に選ばれる文字で汲み取れるようになっている。これまでの彼女であれば、こういう言い方はしない。
(よかった、ムーちゃんがすぐに返事してくれて!)
いつもならこんなメッセージになるはずだ。いちいちボクに寂しい思いをさせるなんてことを書いてくるはずがない。ボクは一度たりとも寂しいなどと言ったことなどないのだから。
見過ごそうと思えば見過ごせる文字でも、その裏側にある真意が表面上の文字とは全然別の異なる意図に思える時、ボクはどうしてもそれを見なかったことにできない。
彼女はボクに対して罪悪感を感じ始めているように思えた。つまり、彼女がボクに対して申し訳ないと思う何らかの事態が進行しているのだろう。そうなるとボクはもう強がるしかなかった。
「いいの? 家の人が戻ってきてるんだろ?
朝の準備とかあるだろうから、ボクのことは気にしなくていいよ」
強がりだ!
(まだ大丈夫、ムーちゃんと話していたい…… )
そうメッセージが届くことを祈った。だが、
「ごめんね。できるだけ時間見つけるからね」
ボクは無力感に襲われる。今日一日、きっと何ひとつ手につかず、台無しの休日になることだろう。そんなはっきりした予感がする。そう思ってしまう自分にうんざりする。その虚しさと絶望感、そして自分自身と琴乃に対する苛立ちを、ボクは自分の胸の奥底に仕舞い込めず余計なひとことを書き送る。
「いいんだよ、もうボクのことは気にしないで」
逆だ…… 全く逆だ。
(ボクのことを、ボクのことだけを考えてくれないか、ボクだけを愛していると言ってくれ、ボク以外の誰も愛せない、抱き合えないと言ってくれ、ウソでもいいからそう言ってくれ…… )
「ありがとう。じゃあ、あとで」
そして彼女の気配がボクの前から消え失せる。
(何なんだ! )
(これまでの時間は何だったんだ! 彼女の言葉は何だったんだ!)
そういう恨みつらみだけが残る。自分のあいまいな態度と彼女を決して受け入れてこなかった時間のことなどまるで忘れて、ボクは自分が置かれた新たな状況の中で、もはや人を愛する人間としての姿、愛を語るにふさわしい人としての姿を見失いつつあった。受け入れられていないと思う気持ちがボクを荒ませる。何を過ごしてもつまらなく、意味がなく、価値のない一日になることに、重く塞がれた気分になる。
(なぜ彼女を受け入れておかなかった…… )
いまさら、振り返っても意味がないことばかり後悔し始める。
彼女の存在を前提にしない休日をどう過ごせばいいのか途方に暮れる。ここに越してきた時のことなど、ボクはもうすっかり忘れていた。誰からも拘束されないひとりの時間をこれからは死ぬまで満喫するのだと思った解放感などどこにもなかった。耐えられない孤独、何を見ても何を聴いても何を味わっても、誰とも共有できない恐怖、孤独の淵の恐怖を覗いて愕然とする。目の前の世界からすべてのものが意味を失い、色を失うことをはっきりと意識した。
(ボクには何もない…)
彼女からのメッセージは昼過ぎに一度だけあって、その後は夜遅くなるまでなかった。これまでなら午前中に一度、お昼過ぎに一度、そして四時過ぎから、こっちが心配になるほどメッセージが続いたのに比べると、圧倒的に少ないやり取りだった。
それは仕方のないことだった。昼過ぎのメッセージが届くまでにボクはもう待ちくたびれてしまい、落ち着いてやり取りができないならもう無理しなくていいからと書き送ってしまっているのだから。
だけど、きっとこれまでの彼女なら、その言葉を押し返して数々のメッセージを届けてくれただろう。そうならない、それをしないのは、彼女の中に何らかの変化があって、それがもう無理をさせないのだろう。相手を思う気持ちがあったとしても、追いかけるエネルギーには限りがある。それを知りながら、これまでずっと彼女に追いかけさせたボクに全ての責任があるのだ。彼女は悪くない。
そう思う反面で彼女が憎らしい。ボクを選ばない彼女が恨めしい。ボクだけを愛しているといった彼女の言葉がボクを苦しめる。結局、ボクのことなど愛したことはなかったんじゃないか、そう思うと虚しさで胸が張り裂けそうになる。空虚さ、やり場のない怒り、これを収める方法があるだろうか? 彼女によってもたらされた空虚さを彼女以外の何かが埋めることなどできるのだろうか……
ボクは終わりのない問いに陥りかけた。
「ムーちゃん…… こんばんは…… お待たせしました」
深夜になって、ようやく丁寧なあいさつのメッセージが届く。それまでの空虚さを一瞬でも忘れさせてくれる彼女からのメッセージは、ボクにとって、もはや止めようにも止められない麻薬と同じだった。
読んでくださってありがとうございました。
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ご意見ご感想お聞かせいただくと嬉しいです。
次回は夫との関係も元に戻せず、ムーちゃんとの関係も前に進められない琴乃の悩みを描きます。
引き続きお読みいただけると幸せです。よろしくお願いします。




