80話「迷宮回廊の入り口で」
落ちる。
目の前に、本来なら床にするべきな壁面をみながら俺は落ちる。
もうちょっと。
もうちょっと近ければ、手なり足なり届いたのに。
ところが落ちる瞬間に力んじゃったせいで、俺と壁面の間には実に残念な距離感が生まれてた。
実際の数字にしたらたった数十センチ。
ほんとに目と鼻の先なのに、それが今は絶望的に遠い。
「ちょ。マジで今の無し! もう一回やらせて!」
だってこんなのあんまりだろ。
たしか落ちたら存在がヤバイんじゃなかった?
こんな凡ミスで人生終了とか我ながらがっかり過ぎ!
でも大丈夫。
俺は最後まで諦めない。
ちょっとでも壁に近づくために平泳ぎとかしちゃう。
意味?
意味はあるって。
どこかの大泥棒はこれでけっこう助かってる。
だから俺にもきっと出来る!
「うおおおお。これ全然進まなーい!」
なんでだ。
これで飛べるのはベッドの上限定とか?
死因『転落死』なんて、某有名大泥棒三世どころかヒアウィーゴーな赤い配管工の得意技だよ?
っていうかごめん、誰か助けて。
ヘルプ! ヘルプ!
「掴みにくいから暴れないで、じっとして」
ほとんど耳元で、俺の心の叫びに応える声がした。
ジュリエッタだ。
落ちながらもがいてる俺を、壁を床にして走って追いかけて来てくれたらしい。
走るって言っても、一歩一歩のスライドがかなり大きい。
言ってみれば連続ステップみたいな独特の走法だ。
小さい体には似合わないけど、あっさり俺に追いついてるあたりすさまじく早い。
敵としては厄介極まりないんだけど、今だけはそれが頼もしい。
「引っ張るから、受け身、とって?」
「え?」
ぼそりと言った次の瞬間、ジュリエッタは俺の手を掴んだ。
そして両足で踏ん張って急ブレーキ。
結果、俺の体は掴まれた腕を支点に弧を描く。
まるで振り子型の絶叫マシン、いや、拷問マシンだ。
いきなり体を振り回されて平衡感覚を狂わされた俺に、受け身なんて取る余裕も無い。
気づいた時にはすでにジュリエッタにとっての床に叩きつけられてた。
「ぐ、げげげげげ――」
途端に俺を襲う衝撃と痛み。
しかもただ叩きつけられただけじゃなくて、空中を落ちてた時の慣性力の残りで床を転げる羽目になる。
分かってる。
ジュリエッタは俺を助けてくれたんだ。
そのこと自体は敵対関係を無視して素直にありがとうだ。
投げ技みたいに強引だったのも緊急事態だったから仕方ない。
でも知ってる?
硬い地面を転がるのって思ってる以上に痛いんだぞ?
「な、なんで……、手、離したし……?」
柔道ならこういう時、手を離さずに衝撃を和らげるだろ。
出来ればそういう残心的な配慮もしてくれるとうれしかった。
「……。掴んだままだと、肩が抜けるかと思ったから」
あ、そうなの?
一応気を使ってくれたんだ。
ありがたいような無くないような……。
いや、危ないところを引き戻してもらったのは事実だな。
「悪い。助かった」
「いい。あなたに死なれるとブラックアイズが悲しむからやっただけ」
それは別にいいけどね。
でもそのおかげで助けられたならブラックアイズもたまには役に立つ。
「修司。大丈夫なの?」
俺が体を起こしてると、白夜を先頭にみんなが走って来た。
どうやら俺以外にあんなヘマをするようなやつはいなかったらしい。
「ああ。なんとか」
「ならいいけど、今度からは気をつけなさいよ?」
あれでも一応、気を付けてたんだけどな。
って言うか、俺の服に付いた汚れを白夜が掃ってくれるけど乱暴で痛い。
ビンタじゃないんだから、あんまり強く叩かなくてもいいだろ。
俺の体の反対側で、優しく撫でたりふーふーしたりしてるうららを見習ってくれないものか。
「ばっかだなー、修司は。ああいう時こそマイオーシスを使うチャンスじゃないか。なんで無反応に痛い思いしちゃってるのさ?」
2人に介抱(?)されてると、愛理がまるで他人事みたいに言ってきた。
って言うかお前はなに頭の後ろで手を組んで傍観してんのさ?
その痛い思いをしたやつを労わるどころかダメ出しとか、お前はどこまで傲慢ちんちくりんだよ。
「あのな、あんなのとっさに反応出来るわけないだろ。まさか放り投げられるなんて思ってなかったんだからな」
「そんなの実戦でも同じでしょ。相手の攻撃が予想外で避けられなかった時用の機能なんだから、反射的に使えないと意味ないよ。今の修司はレトリックの使い手としてはダメダメだね」
簡単に言ってくれるよ、まったく。
そんな簡単に使いこなせるなら苦労はしないっての。
愛理はレトリックを作る苦労は知ってても、使う方の苦労はいまいち分かってない。
オーケー。
こいつには俺の苦労を少し教えてやらないとダメだな。
「隙あり! ホァタァ!」
「ひゃうんッ!?」
我ながら電光石火の一撃。
頭の後ろで手を組んだ愛理の無防備な脇腹に、世紀末拳法的な指突きを食らわせてやった。
元々、隙を突くまでもない相手だ。
まるで反応出来ずに笑いの秘孔を突かれた愛理は猫がびっくりしたみたいに飛び上がってんの。
「バカ! エッチ! ヘンタイ! 女の子の敏感なところにいきなり触るなんて信じらんない!」
「ぼさっとしてる方が悪いんだよ。実戦じゃ敵の攻撃には反射的に対応出来ないといけないんだぜ?」
なんて皮肉を返してやる俺は、今、最高に輝いているはずなんだぜ?
「むっかー。自分が言われたことの仕返しにこんなことするなんて、修司ってほんと子供なんだから!」
見た目はお前が一番子供っぽいけどな。
そんな禁句を飲み込みつつ、俺はあえて邪悪な笑みで答えてやる。
これで愛理もレトリックの使い手の苦労が少しは分かったか?
いや、俺にはちっともそうは思えない。
きっとこの先も好き勝手に色々言ってくるだろ。
それが分かっちゃうあたり、俺と愛理の付き合いも腐れ縁になりかかってるのかも。
「楽しそうなところ悪いけれど、そろそろ先に進もうか。この迷宮回廊を踏破するのは骨が折れるし、運命はすでに動き出しているよ」
俺たちのやり取りを見かねたのか、横からブラックアイズが催促してきた。
その表情はいつも通りほほ笑んでるけど、どこかシリアスな成分が混ざってるようにも感じる。
俺たちを迷宮回廊の奥に連れて行こうとしてるみたいだけど、そこにいったいなにがあるんだか。
罠の可能性も考慮しつつ、結局ブラックアイズの後に続くしかない俺たちだった。