海の上 彼女は 記憶を 失った
波のぶつかり合う音。心地よい揺れ。
(基本的に船酔いをしたことはなかったな)
彼女は覚醒したての頭でぼんやりと考えた。
そしてその後、ふと気付く。
自分はいつ、船に乗ったのか。
また、過去に船に乗った気はするがいつのことなのか。
そして更に、
自分の名前は何か。自分は何者なのか。
ゆらり。
視界が揺れる。
どこか現実味のない世界。
ぼんやりとした意識の中、彼女は美しい眉をひそめる。
視界の端に自分の長い髪が映る。
まっすぐなそれは違和感の強い漆黒。
なぜ違和感があるのかもわからない。
自身の感覚さえ理解できない。それは恐怖だった。
少女はーーそう、彼女は少女だ。なめらかな肌、指先、まだ無垢な瞳は小さな顔の中で奇異なほど大きい。その瞳が自分を見ている。何故だろうと疑問を持つと、部屋の窓を鏡に自分を見ているのだと気付いた。
鏡ーー
物の記憶はある。現象の記憶も。
それは少女にとって素晴らしい収穫だった。
周囲を見回すと、ここが狭い部屋だということがわかる。簡易ベッドがようやくひとつ収まる程度の広さ。
しかし不思議なことに、荷物が何もない。ただ、ベッドとその上に少女が一人いるだけの部屋。
生活の道具が何も置かれていないため、ここが少女の自室では無いようだ。
少女はそっと立ち上がる。何しろ部屋は揺れており、窓の外は推定通りの海である。寝すぎたのか手や足先に痺れの残る状態でうまく歩ける自信も無い。
しかし一度立ち上がると、思いの外足取りはしっかりしていた。大きな揺れが来ても大して苦労せず踏ん張れた。足腰は丈夫なようだ。
出口までたどり着きドアノブをひねる。
ガチャ。
…ガチャガチャ。
鍵が掛かっていた。
そしてなんと中から開けることができるタイプでは無いようだ。
少女は困惑する。
カバンも生活用品もなく、部屋に鍵。
少女はこの状況が当てはまる事態を知っていた。自分に関する知識は無いが、何故か状況を判断する能力はあった。
これは、
「おっとお嬢ちゃん。目が覚めたんか?残念だがそこで大人しくしてな。って言っても人形には分かんねえか。ほらベッドまで歩け。また飯の時間になったら持ってきてやるよ」
ーーー誘拐か。
ドアノブが動いたことで外にいた男が鍵を開け顔を覗かせる。大きな男だった。粗野な言動にふさわしく、薄汚れたシャツとズボン。潮と汗の匂いが鼻につく。あまり良くない方向の海の男だと分かったのは、それに混ざる血臭。その言動から予想が的中したことを喜ぶべきか嘆くべきか。
少女は即座に判断する。
ーーー喜ぶべきだ、と。
これは好機。
少女は自分でも驚くほどの素早さで男の側に忍び寄り、頭を両手で掴む。
少女の背丈は短く、男の三分のニほどであった為、掴む為には背伸びどころか跳ねた。そしてその反動を生かし男を部屋に引っ張り込む。男は驚くほど油断していた。先ほど言われた人形という言葉に起因するのだろう。
それと同時に自然な流れで腕が男の首を締め、声と意識を奪った。
まだ手足に充分な力は戻っていなかった。しかし最低限度の動きだけで自分より体格も力も上の人間をたやすくあしらえた。
あまりにも高い自身の身体能力に違和感。
先ほど自分の髪を見た時も感じたそれに、訳も分からず不快さを感じる。
しかし今はそれを掘り下げるよりも事態の把握と改善が先である。
部屋の外に誰もいないことを確認すると、少女は失神した男を部屋に残し鍵をかける。脱走の発覚を遅らせるためだ。そっと薄暗い廊下へと足音も立てずに進む。しかし本人はそれに気づいていない。つまり気づかないほど身に馴染んだ習慣というわけだ。
窓の高さから現在位置は船底に近い。目的は脱出だが、海の上で知識もなく出奔したところで遭難するだけだ。
手段はふたつ。
船が着港するまで船内に潜み、入港時に脱走。
もしくは、
ーーー少女はふたつの方法を吟味し、そしてありえない方を選択する。
この船のリーダーを捕らえ船を掌握する。
瞬時に決断した少女は、記憶がない状態であっても彼女らしかったと言える。