自覚
「なんで・・・・」
春馬は自分の口から出てきた陳腐な言葉にがっかりした。
今日は昼ごはんの準備を伊織に頼んでいたが、食堂で友人と食べる約束をしてしまったのでいらないと4限目が始まる前に伊織の教室に行くと、そこに伊織はいなかった。
使えねぇと思いながら、まあほっとけばいいかと思い直し教室の扉を閉めようとした瞬間、困惑気な女子生徒と目が合った。
話を聞くと、春馬の取り巻きの女子生徒が来て伊織に春馬からの伝言を伝えていたと言うのだ。
もちろん春馬にそんな覚えはない。
伊織が春馬の周りの人間から良く思われていないのは知っている。
むしろそう仕向けたのは春馬自身だった。
伊織が孤独なら孤独なだけ安心できた。
それでも、伊織は危害を加えるにいたらない存在だと周りに認識させるようにも仕向けた。
周りの人間に伊織の中にずっとある「何か」を越えられたくなかった。
だから、そう仕向けたはずだった。
人間の欲深さの底の無さを、春馬は自身の類まれなる容姿が故に幾度と見てきたはずなのに。
自分の欲のためなら何でもする人間を知っていたはずなのに。
春馬からの伝言ではない嘘の伝言の意味を春馬は即座に理解できた。
足は走り出していた。
どこに。
女子生徒は倉庫とだけ聞こえたと言っていた。
校内にどれだけの倉庫があるか。
人気のない倉庫はどこか。
きっと校舎から離れている倉庫が好ましいに決まっている。
衝動で走り出した足が、明確に進む場所を決めさらにスピードを上げて走る。
一番最初に目星をつけた倉庫が見えてきた。
足は速度を落とすことなく倉庫に近づく。
声がした。
女の声。
耳障りだと思った。
伊織の声じゃない。
扉に手が届いた。
力任せに開けようとした瞬間に、扉が開いた。
男が立っていた。
この男が開けた。
息が苦しかった。
酸素を求めて、肩が上下に激しく動いてるのがわかる。
青褪めた女が見えた。
この前伊織の反応を見るためだけに使った女だ。
どうでもいい。
どこだ。
他にもいた男達で見えない。
ましてや倉庫は薄暗い。
視線を下に落とす。
白い腕が見えた。
その腕を辿るとむき出しの肩があった。
うつ伏せで髪は何かで汚れてる。
伊織だ。
「なんで・・・・」
陳腐な疑問だ。
決まってる。
誰が悪いかなんて。
死んだはずの両親に壊れたロボットのように繰り返し助けを求めている。
その様子は、出会ったころよりまだ幼い印象を受けた。
そんな伊織を見ても思ったのは何で呼ぶのが、助けを求めるのが春馬ではないのかという身勝手なことだった。
助けられる存在になりたかった。
伊織にとってそうでありたかった。
どこで、どこから、
間違えたのか。
あんなに傍にいたのに、伊織が持っている「何か」の正体を知らない。
なんで泣いていたのかを知らない。
人間を拒絶し続ける理由も、あんな扱いをする春馬から離れなかった理由も、知らない。
ただ伊織が今、どんな目にあったのかはわかる。
伊織に近づくと、酸い匂いがした。
吐いたんだろう。
髪が汚れてるのはそのせいだ。
ほとんど着てるとは言えない制服は、伊織の骨ばった細い体をさらに強調するかのようだ。
目は開いてるのに、どこも見ていない。
制服の上着を脱いで、そっと伊織にかけて持ち上げようとした。
その手を「着替え、持ってこさせるから待て」と言って、扉が開いたとき立っていた男が春馬の手を止めた。
次に男は、青褪めて今度は泣きじゃくってる女が春馬に縋ろうとしているのを見ると、「ささっと連れて行け」と他の男達に指示を出した。
春馬に助けを呼ぶ耳障りな声が遠ざかっていく。
呼んでほしいのは伊織になのに。
なのに伊織はまだずっと繰り返し両親を呼んでいる。
春馬が目の前にいるのに、春馬を見ない。
そもそも、その前からも、伊織は春馬を見ていただろうか?見ていたことなどあっただろうか?
ふと過ぎった疑問を消すために、目の前の男に意識を向けた。
この男を知っている、春馬とはまた違った理由で有名だ。
「あの女が頼んだのか?」
分かり切っていることだし馬鹿馬鹿しい質問だと思ったが伊織のこの状況を知りたかった。
「そう、けど今更こいつを犯っても意味ないからあの女とそのお友達で代用することにした」
「今更?」
「そう、今更」
男の言葉を頭の中で反芻する。
「あんた、幼馴染なんだろう?」
そうだ、この学校にいる誰よりも伊織の近くにいたのは春馬だ。
けど、
「何も、知らないのか?」
何も知らない。
知ろうとも、してこなかった。
「伊織が人間を病的にまで拒絶してきたのは知ってる」
それだけだ。
その彼女の世界になぜか春馬だけが近づけた。
頼まれた。側にいさせて欲しいと。それだけでいいのだと。
「お前だけは例外だった?」
そうだ。けど違う。
春馬が、なぜあの幼い頃感じたの使命感を忘れるほど伊織に苛立ったのか。
どこから、間違えたのか。
なんでこんなにも歪んでしまったのか。
「伊織は、俺を…」
「君を、坂下さんが人間として見たことなんてないよ」
後ろで、春馬が考えた最悪な予想を軽い口調で告げる声がした。
それはおそらく真実で、春馬が苛立っていた原因で。
春馬が伊織を好きだと自覚させるに足る真実だった。