仲間
あの後、春馬の家を出て私はバイト先に来ていた。
そこはマンションの一室で、私の雇い主の家でもある。
ここでの仕事は楽だ。
ずっとパソコンと向き合ってるだけでいい。
雇い主である高文さんも「人間」が苦手だ。
いや、嫌いと言ったほうがいいかもしれない。
よって、私にとって彼は「仲間」のような認識を持っている。
そうでなければ、長時間同じ空間で仕事はできない。
確かに彼は私の苦手な「人間」だけど、彼は私のパーソナルエリアを侵略することはないと分かっているので安心できるのだ。
もしかしたら、彼となら全うな人間関係を築けるのでは・・・と思ってしまうぐらいには、信用もしている。
それでもまだ、一定の距離がないと近くにはいられないので、近い未来ではないことは確かだ。
「坂下さん、休憩しよ」
高文さんがコーヒカップを片手に持って立ち上がった。
その世界では有名なプログラマーらしい彼は、極度のヘビースモーカーなのですぐに休憩を取りたがる。
「私はまだ、大丈夫です」
先ほどの休憩で入れた紅茶がカップに残ってるのを確認してから、私は答えた。
「目、赤いよ。寝不足?だから休憩しよ」
高文さんが首を傾け尋ねてくるが、生粋のインドアの割にワイルド系な容姿に似合わない仕草が彼には多い気がする。
「まだ赤いですか?」
「うん」
「高文さんも、目赤いです」
「嘘」
「昨日、ゲームしてたでしょ」
「ぎくり」
「自分で効果音言わないでください」
「気づいたら朝だった」
「せっかくモテるんですから、たまにはデートでもすればいいのでは?」
現に彼はかっこいいのだ。
生身の男の色気というか、例えるなら黒豹に近いかもしれない。
しなやかで、力強い、大人の男の人だ。
「君の人形くんには敵わないけどね」
「彼は、規格外ですから。高文さんは『人間』が嫌いだけど、『女』は嫌いじゃないのでしょう?」
「めんどくさくなければね」
「最低ですね」
「君といる方が楽だ」
「それは、同感です」
「人間の欲は、一番の狂気で凶器だからね。君ほど無欲な人間は見たことないよ」
「そうでしょうか」
「?」
「本当に、私は無欲でしょうか」
「・・・」
「私は春馬に身勝手な欲を求め続けました」
高文さんがじっと私を見てるのがわかる。
「それはもう、そろそろ潮時なのかもしれません」
「人形くんは納得するかな?」
「彼にとって私は駒です。私がいなくなって不便さを感じても、新しい駒はいくらでも手に入りますよ。春馬ならね」
「君は?」
「私は、この辺りで見限りたいんです。「人間」を」
「新しい人形はいらない?」
「こんな関係は間違ってる。そう分かってるのに修正もできなかった私にはもう、無理ですよ」
「仲間の僕まで見限らないだろう?」
「そうですね。高文さんとの関係は私が目指したものとは違うけれど、これが妥協点なんでしょうね」
「ひどい言われようだね」
「私が関わる唯一の『人間』が高文さんでよかったと思ってます」
「嫁に来る?」
高文さんがおどけて言った。
私は溜息をついた。
「雄に生まれたからにはその役割を全うしてください。私では相手になれません」
「子孫繁栄か、そんな価値が人間にあるかなぁ」
「生きとし生けるものの本能です」
「伊織さん、まだ君は若い」
「・・・6歳のあの日から11年、人が絶望するには十分な年月ですよ」
「今度、一緒に食事をしよう」
「無理です」
「その次は、手を繋いでみよう」
「無理です」
「その次は指を絡めてみよう」
「無理です」
「その次は、頬にキスして、額にキスして、唇にキスして、それで伊織さんが拒絶して吐いても側にるよ」
「・・・」
「絶望するのは、『人間』を愛したいからだろう?それを試さないで逃げるなんてもったいないよ」
高文さんは静かに穏やかな目で私を見つめて言った。
確かに、私には未練たらしい願いがある。
それは叶うはずもないと諦めの境地に立って尚、手を伸ばしてしまいそうになる願いがある。
それは、言うなれば「欲」だ。
「人間」を苦手とする私も、また人間であるという事実だ。
「明日、春馬に言います」
そう言うと、高文さんは優しく微笑んだ。
「僕のポジションは、言うなれば彼氏と別れろと言い募る浮気相手というところかな」
「馬鹿ですね。その状況になるに必要なものは私と春馬の間に生まれていません」
そう、恋情も何も二人で共有できそうな感情は芽生えなかった。
あるとすれば、私の盲目的な狂信めいた何かだ。
ある意味脅迫的な意識で、彼の側にいなければいけないと思い込んでいたにすぎない。
「周りのフラストレーションもそろそろ臨界点のようですし、春馬の側を離れます」
今日、春馬の家でシテいた女の子の去り際の憎悪の目を思い出し、溜息が出た。
だから苦手なのだ、「人間」は。
身勝手で一方的な感情と欲を相手にぶつけてくるのだから。
ふと思い当たる。
私も春馬に対してそうであることを。
棚上げとは正にこのことだろうと、自分自身に呆れ返った。
「さて、じゃあ休憩しよう。僕の肺が煙欲しさに悲鳴を上げてる」
伸びをしながら高文さんが言った。
その手にはすでにいつも吸う銘柄のタバコの箱が握られている。
「高文さん、私と食事をしたいというなら、まず禁煙からですよ」
まだまだ、春馬以外の人とまともに食事ができるなんて思えないけれど、私はからかい半分にそう告げる。
高文さんは、きょとんとした顔をし、すぐに口端を上げてにやりと笑い、こう言った。
「それは、人生最大の選択になりそうだ」