紗那と雪野紗那
バイトの後、まっすぐに家に帰る。家に着くころにはもう夜中の2時を回っていた。紗那の家はバイトの場所からは程遠くない距離にある大きなお屋敷。
・・・奥様方の噂では、この日本内で10番以内には入るくらいの大きさらしい。
玄関まで遠い門をくぐり、洋風のお屋敷の玄関を目指す。夜中のため、電気は一個も付いておらず静まり返っている。父さんが自慢だと言っているレンガの壁もほとんど見えない。
「今、お帰りですか?」
庭の薔薇庭園の影から強いが静かな声が聞こえてくる。紗那は立ち止り、声の方向を見ず星の見えない空を見上げた。
「何かしら?美玖」
静かに現れたのはメイドの姿をした女性。肩で切りそろえられた黒髪は闇に溶け込んでいる。冷たい瞳を細めながら小さくため息をついた。
「紗那様。私は何も見ていません。ですから、旦那様と奥様に見つかる前にお早く自室にお戻りください」
紗那は返事の代わりに微笑み、小走りで玄関へと向かって行く。美玖は彼女の友人として、その背中を見守った。
朝になると、美玖が紗那の自室へ朝食と紅茶を持って入ってきた。その頃にはもう、紗那は着替えと登校の準備は完了していた。シミ一つない白いテーブルクロスが敷いてあるテーブルの上に音も立てずに静かに並べてゆく。全てを、まるでどこかの高級料理店の様な綺麗な並びで並べ終わった後に、窓で空とにらめっこしている彼女に告げる。
「紗那様。お食事の準備ができました」
「・・・わかった。ありがとう」
彼女が振り返ると、美玖が小さくため息をついた。その様子を見て紗那は怒るのではなく逆に笑った。その笑顔は美玖にしか見せたことのないものだ。
「本で読んだわ。ため息を一つするたびに幸せが一つ逃げて行くそうよ」
美玖は黙ったまま椅子を引き、紗那が座った後はテーブルの横で静かに立っていた。紗那はスクランブルエッグをスプーンですくい、パンの上にのせて食べながら彼女に負けないような静かな声で訊く。
「美玖、友人として聞くわ。お父様に昨日のことを申し上げたのかしら?」
美玖はくすくすと笑って答える。
「ワタシはこれでも友人思いなんだよ。知ってた?」
つまり言っていないということだ。「そう」とだけ冷たく答えて、食事を口に運ぶ。内心、ほっとしている。お父様にバイトなどしているとバレた日には・・・想像もしたくない。お母様には・・・心配をかけたくないから言いたくないだけだけど・・・
「安心してるでしょ?」
美玖がそんな事を聞いてくるものだから、無言で食べ続ける。美玖が自分の考えをこれ以上読まないように、細心の注意を払う。しかし、そんな考えも美玖に見透かされている。彼女は笑っていたが、すぐに悲しそうな表情に変化した。
「・・・あのバーに行ってるのね?」
紗那の動きが止まる。そして、窓の外を見つめて美玖のほうへ顔を向けないであの無感情の声で返答してきた。
「だから何?」
「もう・・・忘れようよ・・・それで紗那は」
バンッと紗那が壊れてしまう勢いで両手でテーブルを叩いた。そして、悲哀を含んだ瞳で美玖を睨みつけて、悲痛の叫びの様な声で叫んだ。
「貴女には関係ないでしょうッッ!!!」
先ほどまでの和やかな会話の終焉の鐘のような、美しい純白のカップが割れる音が部屋に響く。そして、緋色の絨毯を色濃く染めた。その染められたところにはまだ温かかった名残がわかる。
「ごめん・・・」
静かに謝る美玖。紗那は静かに立ち上がり、革のスクールカバンを掴み部屋の入口へ向かいドアノブに手をかけた。ドアを開くと同時に、震えていて、優しくて、悲しい声で紗那が告げた。
「ありがとう・・・ごめん・・・私は、紗那だから」
それだけ言って、部屋を後にする。そして彼女は、雪野紗那となる。