兵站官の少女
「兵糧、あと九日分ありません」
私がそう言うと、参謀長は書類から顔も上げずに答えた。
「九日分あるのか」
「ありません、と申し上げました」
ようやく顔が上がる。ヴィンセント・ローデン参謀長。先月着任したばかりの、王都から来た貴族だ。仕立てのいい軍服に、一度も泥のついたことのない長靴。
「どういう意味だ」
「ヴェルド砦の備蓄は、現在十七日分です。次の補給が届くのは二十六日後。差し引いて、九日分足りません」
「二十六日? 砦まで六日だろう」
「往路が六日です」
私は卓の地図を指した。
「輸送隊は王都から出ます。編成に三日。カルンまで九日。カルンで積み替えて、セルヴァ峠を越えてヴェルド砦まで六日。合計十八日。ですが今は十一月です」
「十一月が何だ」
「峠が凍ります」
参謀長は黙った。凍る、という言葉の意味を考えているのが分かった。冬になれば道が滑りやすくなる、くらいのことを考えているのだろう。
違う。
「凍ると車輪が使えません。橇に積み替えます。積み替えには丸一日かかります。橇は車輪より積載量が三割落ちるので、同じ量を運ぶのに輸送隊を増やす必要があります。輸送隊が増えると、馬が増えます。馬が増えると――」
「もういい」
「――飼葉が増えます」
私は続けた。ここが一番大事なところだからだ。
「兵士一人が一日に食べる糧食は、およそ一キロです。馬一頭が一日に食べる飼葉は、十キロです。輸送隊は運ぶ荷のほかに、自分の馬の飼葉を積まなければなりません。距離が延びれば延びるほど、運べる荷のうち飼葉の割合が増えていきます」
「だから?」
「セルヴァ峠を越える輸送は、積荷の四割が飼葉です。前線に届くのは六割だけです」
参謀長は私を見た。何か汚いものを見るような顔だった。
「君は、我が軍が兵より馬を優先していると言いたいのか」
違う。全然違う。
でも私は、この人にどう説明すればいいのか分からなかった。
私の名前はネル・オルセン。十七歳。北部方面軍・第七兵站課、課長代理。
課長代理と言っても、課員は私ひとりだ。前任の課長は三年前に病気で辞めて、そのまま補充されなかった。
私の仕事は、数を数えることだ。
兵の数。日数。距離。馬。塩。薪。包帯。靴。靴は重要だ。北部の兵は年に二足の靴を消耗する。靴が破れた兵は行軍できない。行軍できない兵は、その場で食べるだけの存在になる。
朝、私は帳簿を開く。
昨日届いた報告を書き写す。第三輸送隊、カルン着。荷の二割に濡れ。原因は幌の破損。幌は次の便で送る。破れたのは三度目なので、この隊の幌はすべて交換する。
第五輸送隊、遅延二日。理由は記載なし。私は別の頁を繰る。第五輸送隊の隊長の名前。その隊長が先月申請した休暇の記録。妻が臨月だと書いてある。
私は帳簿の余白に書く。「第五輸送隊、往路のみ。復路は第六に統合」。
数字だけでは、輸送は動かない。
セルヴァ峠が凍る日は、暦では決まらない。私は毎年十一月になると、峠の中腹にある水たまりを見に行く。あそこが夜のうちに張って、昼に溶けなくなった日。その翌日が切替日だ。
去年は十一月十四日。一昨年は十一月十一日。
書物には書いていない。前任の課長が教えてくれた。前任の課長は、その前の課長から教わったと言っていた。
帳簿の一番後ろに、私はそれを書き足している。誰かに引き継ぐときのために。
十一月の三日目、私は解任された。
「第七兵站課を廃止する」
参謀長は、廃止という言葉をとても軽く言った。
「業務は補給局に統合する。君の後任は置かない」
「理由をお伺いしても」
「第七課の予算は年間で四千二百グラーンだ。それだけの金をかけて、君は何をしている?」
「補給の計画を」
「計画は誰でも立てられる」
参謀長は書類を卓に滑らせた。監査報告書だった。
「君の課の業務は、荷の数を数え、輸送の順番を決めることだ。違うか」
「……概ね、そうです」
「それは書記官の仕事だ。年間四千二百グラーンもかける必要はない」
反論の言葉は、いくつも頭の中にあった。
峠の切替日のこと。飼葉の逆算のこと。前線が今日食べているものは、十八日前に私が決めた結果だということ。今日の判断を誤れば、その結果が出るのは十八日後で、そのときにはもう取り返しがつかないということ。
でも私は、この一ヶ月、それを三度説明していた。三度とも、参謀長は途中で「もういい」と言った。
だから私は、こう言った。
「引き継ぎの資料を作成します。七日ほどいただければ」
「不要だ」
参謀長は書類を戻した。
「誰にでもできる仕事だと言っている。引き継ぐほどのものがあるのか」
私は立ったまま、しばらく彼を見ていた。
それから頭を下げた。
「承知しました」
その日の夕方、私は執務室を片付けた。
私物はほとんどなかった。ペンと、寒い日に膝にかける毛布と、三年前に前任の課長がくれた計算尺。
帳簿は置いていった。
当然だ。あれは軍の財産で、私のものではない。十七冊。三年分の、すべての数字と、余白のすべての書き込み。
棚にきちんと並べて、背を揃えた。
扉を閉めるとき、私は少しだけ迷った。
峠の切替日のことを、書き置きしておくべきだろうか。
でも、帳簿の一番後ろに書いてある。読めば分かる。
読めば。
私は扉を閉めた。
十一月四日――第一日
北部方面軍司令部において、特筆すべき事象なし。
第七兵站課執務室は施錠された。鍵は補給局が受領した。
補給局長は当日、王都への出張中であった。
十一月五日――第二日
定期輸送隊、王都を発たず。
出発命令が発出されなかったためである。当該命令は従来、第七兵站課が起案し、参謀長が決裁していた。第七課廃止後、起案者は定められていなかった。
補給局はこの日、当該業務が自局に移管されたことを認識していない。
十一月六日――第三日
出発命令、発出。
積荷内訳の指定なし。「満載」とのみ記された。
輸送隊は糧食を優先して積載した。合理的な判断である。塩、薪、幌、靴は後回しとされた。
飼葉は積載量の二割とされた。前月までの実績値が参照されたためである。前月は十月であり、峠は凍結していなかった。
十一月七日――第四日
セルヴァ峠、凍結。
前日夜、峠中腹の水たまりが結氷。この年の切替日は十一月七日であった。
輸送隊はカルンにて車輪のまま待機を命じられた。橇への積み替えを行うべきか、判断する者がいなかったためである。
カルンの倉庫番は、過去三年のいずれの年も、切替日の前日までに第七兵站課から指示書を受け取っていた。
本年は届かなかった。
倉庫番は司令部へ照会を発した。回答は六日後に届く。
十一月八日――第五日
ヴェルド砦、補給状況の報告を上申。
「備蓄は十二日分。問題なし」
この数字は正確であった。
当該備蓄は、十一月三日以前に第七兵站課が手配したものである。
十一月九日――第六日
カルン待機中の輸送隊、飼葉が尽きる。
輸送隊は往路分の飼葉しか積んでいなかった。待機は想定されていない。
馬百四十頭。カルンの備蓄飼葉は、常備分で三日分。
現地調達が試みられたが、十一月の北部に売る草はない。
十一月十日――第七日
ヴェルド砦、備蓄十日分。
この日、前線第三中隊において、夕食の配給が一日分に満たなかった。
塩が尽きたためである。
塩の産地はグレン塩坑のみであり、発注から到着まで二十四日を要する。次の発注は十一月一日に行われる予定であった。
起案者は、第七兵站課であった。
ロイ・カーニンガムが司令部に着いたのは、十一月十四日の朝だった。
北部方面軍第一騎士団長。「白狼」と呼ばれる男。三十四歳で、この十年、負けたことがない。
彼は泥だらけのまま参謀本部に入り、卓に地図を叩きつけた。
「塩がない」
参謀長が立ち上がった。
「カーニンガム団長、報告は――」
「兵が塩を舐めずに七日戦っている。手足が攣って剣が持てん。ヴェルドの第三中隊は、昨日から一日一食だ」
「補給局に確認させます」
「確認はした」
ロイは参謀長を見た。
「補給局は、輸送隊がカルンで六日止まっている理由を知らなかった。カルンの倉庫番は、峠の切替指示を待っていた。誰も出していない」
「……切替指示?」
ロイは黙った。
それから、ゆっくりと言った。
「あなたは、峠が凍ると荷の積み方が変わることを、知らないのか」
参謀長は答えなかった。
執務室の鍵は、探すのに半日かかった。
第七兵站課。扉を開けると、埃も立たない小さな部屋だった。卓がひとつ。椅子がひとつ。棚に、帳簿が十七冊。
背が、きれいに揃っていた。
ロイは一番新しい一冊を取った。
開いた。
数字が並んでいた。びっしりと、余白がないほど。それが三年分。
そして、数字の間に、数字でないものが書き込まれていた。
「第五輸送隊、往路のみ。復路は第六に統合。理由:隊長家族の事情」
「第十二中隊、靴の消耗が他中隊の一.四倍。理由未特定。要調査」
「カルン倉庫、東棟の屋根に雨漏り。塩は西棟に移した」
ロイは頁を繰った。
繰り続けた。
彼が知らなかったすべてのことが、そこに書いてあった。彼が去年の冬に前線で食べたパン。あのパンがどこから来て、どの峠を越えて、誰の判断で彼の手元に届いたのか。
一番後ろの頁に、別の書き方のものがあった。
丁寧な、少し子どもっぽい字だった。
『峠の切替日について
暦では決まりません。
十一月に入ったら、セルヴァ峠の中腹、三つ目の曲がり角の左手にある水たまりを見に行ってください。
夜のうちに張って、昼になっても溶けなくなった日。その翌日が切替日です。
一昨年:十一月十一日
去年:十一月十四日
今年:( )
前任の課長から教わりました。書物にはありません。
どうか、次の人に伝えてください。』
ロイは、その頁をしばらく見ていた。
それから、扉のところに立っている参謀長を振り返った。
「これを書いたのは、誰だ」
参謀長は口を開いた。
開いたまま、何も言わなかった。
「名前は」
「……」
「参謀長。この帳簿を三年書いていた人間の名前を聞いている」
参謀長の唇が動いた。
「……第七兵站課の、課長代理です」
「名前だ」
沈黙があった。
とても長い沈黙だった。
「――覚えて、おりません」
ロイは帳簿を閉じた。
窓の外では、その日も雪が降っていなかった。峠が凍ってから、七日が過ぎていた。
国境の宿場町で、私は荷馬車の列を眺めていた。
商隊が立ち往生している。積荷を全部下ろして、また積み直している。三度目だ。見ていれば理由は分かる。重いものを上に積んでいる。坂で荷崩れするから、そのたびに積み直す羽目になっている。
余計なことだと思ったけれど、私はもう軍人ではない。
「上下を逆にすると、積み直さずに済みます」
商隊の親方が振り返った。日に焼けた、大きな男だった。
「なんだって?」
「重いものを下に、軽いものを上に。それから、坂に入る前に後ろの二台だけ荷を減らしてください。この坂は上りの後半で傾斜が変わります。後ろの車が押し出されます」
親方は私をじろじろ見た。十七歳の、痩せた娘を。
「あんた、それをどこで覚えた」
「数えていました。三年ほど」
「何を」
私は少し考えた。
何を数えていたんだろう。
荷の数。馬の数。日数。距離。塩。薪。靴。
そして、たぶん、それを運ぶ人たちのことも。
「――いろいろです」
親方は笑った。それから手を差し出した。
「名前は?」
私は、その手を見た。
名前を訊かれたのは、ずいぶん久しぶりだった。
「ネル・オルセンです」




