【短編】赤い毒花が咲く密室〜探偵は呪いの嘘を解剖する〜
石造りの修道院の一室に、むせ返るような甘い香りが充満していた。
分厚い樫の木の扉は内側から固く閂が下ろされ、窓一つない完全な密室。普段は冷やりとした静寂に包まれているはずの見習いシスターの自室は、いまや異常な熱気と鉄錆の匂いに満たされている。
「おお、神よ……。心優しき迷える子羊に、なぜこのような惨たらしい運命を……」
血溜まりの凄惨な現場で、一人の初老の男が悲痛な声で祈りを捧げていた。
豪奢な法衣に身を包んだ、この修道院の長である高位治癒魔術師・モルグ司祭だ。
彼の視線の先、冷たい石の床の中央で、シスター・アイリスは事切れていた。
彼女の純白の修道服は、内側から溢れ出した「赤」によって無惨に引き裂かれている。アイリスの口から、鼻から、耳から、そして薄い皮膚を内側から突き破って、無数の真紅の毒花が咲き乱れていた。
まるで彼女の肉体そのものを苗床にして、狂った春が訪れたかのようだった。
「モルグ司祭様、お下がりください。これは……神聖な修道院に対する悪霊の呪いです」
現場を封鎖した王都騎士団の小隊長が、吐き気を堪えるように口元を覆う。
「呪いなどではありません。これは自業自得の『天罰』ですわ」
冷ややかな声で言い放ったのは、アイリスの教育係であった厳格な先輩、シスター・マーサだ。
「アイリスは最近、夜な夜な修道院を抜け出しておりました。純潔の誓いを破り、男と密会を重ねていたのです。……そのようなふしだらな娘が、神の怒りに触れて内側から腐り果てたのだとしても、何の不思議がありましょうか」
「マーサ、やめなさい。死者を鞭打つような真似はいけない」
モルグ司祭が窘めるように首を振る。
「……魔女だ。あの女は、魔女だったんだ」
部屋の隅で、土に汚れた作業着を着た庭師の青年・ザックが、アイリスの遺体を血走った目で見つめながらブツブツと呟いていた。
「俺には見向きもしないくせに、夜中に男とコソコソと……。あんな呪われた花が咲くなんて、最初から人間の皮を被った化け物だったに違いない……!」
密室の中で咲き誇る、おぞましい死体。
そして、被害者の「道外れな噂」を口にする容疑者たち。
騎士団長が「遺体を浄化のため焼却しよう」と指示を出しかけた、その時だった。
「ほう。……自らの無能さを、悪霊やら天罰やらのオカルトに責任転嫁するとは、神に仕える方々はお気楽でいい」
唐突に背後から響いた冷たく静かな声に、部屋にいた全員が弾かれたように振り返る。
いつの間にか、開け放たれた扉の敷居を跨ぎ、一人の青年が立っていた。
喪服のように黒い外套を羽織り、銀の装飾が施された黒いステッキに体重を預けている。透けるほど青白い肌と、病的なまでに細い肢体。どこか退廃的な空気を纏うその男の、漆黒の双眸だけが、獲物を値踏みする猛禽のように鋭い光を放っていた。
「き、貴様、どこから入った! ここはモルグ司祭様の管轄である修道院だぞ!」
「裏口の錠前が壊れていたものでね。それより、馬鹿げた妄想はよしていただきたい。これは明確な『殺人』だ」
シャルル・キョース。
帝都の裏路地でひっそりと古物商を営む男であり――特権階級の腐敗した臓腑を暴き出す、狂気の探偵である。
「殺人だと? 馬鹿な」小隊長が反論する。
「どれほど高位の魔術師であれ、人間の微弱な『生体魔力』に弾かれるため、他者の体内に直接魔法を発生させることは不可能だ! もし魔法で彼女を殺したのなら、必ず外側から撃ち抜かれた外傷が残るはず。完全に体内から花が生えている以上、これは物理的な殺人ではない!」
「ええ、魔法で『直接咲かせた』のでなければね」
シャルルは騎士の剣幕を無視し、カツカツと石畳を叩きながら死体へと近づいた。
そして懐から薄い銀のメスを取り出すと、躊躇いもなくアイリスの衣服の隙間――花が密集して突き出ている腹部を切り裂いた。
「ヒッ……! 何という冒涜を!」
モルグ司祭が悲鳴を上げる中、シャルルは顔色一つ変えずに血肉の中を探り、一本の太い『根』をピンセットで引きずり出した。
「見なさい。花の根は、彼女の胃袋の底に張られている。魔法で作られた幻影の植物ではない。物理的に『種』を胃袋へ落とし込んだのですよ」
「ば、馬鹿な。種を飲んだだけで、一晩でここまで成長して人間を食い破るはずがないだろう!」
「ええ、通常ならばね。だから犯人は、密室の外から細工をした」
シャルルはゆっくりと立ち上がり、ステッキで密室の天井付近の石壁を指し示した。
「部屋に入った時から妙だとは思いませんでしたか? この部屋のひどい湿気と熱気に。壁を見てごらんなさい。唯一の換気口の周辺の石壁だけが、微小な結露を起こし、うっすらとカビが発生している。……犯人は昨晩、彼女が眠りについた後、部屋の外から換気口を通して『熱魔法』と『水魔法』の蒸気を送り込み続けたのです。密室の温度と湿度を、熱帯雨林のように急上昇させるためにね」
シャルルの静かな推論が、部屋の空気を冷たく凍らせていく。
「魔法を人体に直接作用させられないなら、部屋の環境そのものを『巨大な培養炉』に変えればいい。そうすれば、あとは種が勝手に異常発芽し、彼女の血肉を養分にして花を咲かせてくれる。……極めて理知的で、醜悪な殺人だ」
「な、なんて恐ろしい……」モルグ司祭が青ざめた顔で十字を切る。
「しかし探偵殿。誰がそのようなことを? 彼女を妬んでいた者か、それとも……」
「ええ、犯人を絞り込むのは非常に簡単です。三つの条件を満たす人物を探せばいい」
シャルルはステッキを片手に、三本の指を立てた。
「一つ。この死体に咲いている花は、南方原産の希少な魔植物。主に『赤斑病の特効薬』として使われるものです。その種を、怪しまれずに帝都で入手・所持できた人物」
その言葉に、庭師のザックがビクッと肩を震わせた。
「二つ。昨晩の夕食後、その種を『薬』などに偽装し、アイリスに直接飲ませる機会があった人物」
「わ、私ではありませんわよ! 確かに昨晩の食事は私が運びましたが、私は彼女の薬に触れる権限などありません!」
シスター・マーサが金切り声を上げる。
「そして三つ。これが最も重要です」
シャルルは漆黒の瞳を細め、小隊長を見据えた。
「小隊長殿。この部屋の『換気口』は、建物の外のどこに繋がっていますか?」
「は? ええと……修道院の構造図によれば、あの換気口は防犯のため外壁には面しておらず、修道院の中心にある『特別中庭』にのみ通じています」
「その中庭には、夜間、誰でも入れるのですか?」
「いえ、夜間は厳重に施錠されます。立ち入りを許されているのは……」
小隊長はそこまで言って、ハッと息を呑んだ。
シャルルは三日月型の冷酷な笑みを浮かべ、部屋にいる全員を見回す。
「凶器となる希少な医療用の種。それを彼女に『処方』できた立場。そして、夜間施錠された中庭から、長時間にわたって高度な環境操作魔法を換気口に流し込み続けることができた人物」
シャルルの静かな声が、密室に響き渡った。
「彼女が夜な夜な修道院を抜け出していたのは、男と密会するためなどではなく。この修道院で秘密裏に行われている、禁忌の人体実験の証拠を掴むためだっだとしたら?」
シャルルはステッキの先を、ゆっくりと一人の男に向ける。
「さて、この完璧な密室殺人を完成させた哀れな殺人鬼の正体。……あなたですね、モルグ司祭」
静寂。
水を打ったような静けさの中、モルグ司祭が肩を震わせた。
「……ふ、ふふふ。ははははははッ!」
それまでの悲痛な顔をかなぐり捨て、モルグ司祭は腹を抱えて笑い出した。
「素晴らしい想像力だ、三流探偵! まるで安劇場の芝居でも見ているようだったぞ。だが、証拠はどこにある? 私が種を飲ませたという証拠があるのか? 昨晩、私が中庭に入ったという証拠は? 全ては貴様の妄想と推論に過ぎないではないか!」
モルグは両手を広げ、傲慢な顔で騎士たちを見回した。
「小隊長! このような妄言を吐く不審者をいつまで立ち入らせておくのだ! 私は国王陛下より直々に任命された高位治癒魔術師であり、この修道院の長だぞ。平民の戯言で、この私を疑うと申すか!」
「は、はいっ! おい、貴様! 司祭様へのそれ以上の不敬は許さん、直ちに出て行け!」
チャキッ、と無機質な音が響き、騎士たちが一斉に剣を抜いてシャルルを取り囲む。
絶対的な権力と身分差。どれほど完璧な論理を組み立てようとも、この異世界において、平民の推理など特権階級の声一つで容易に握りつぶされてしまうのだ。
庭師のザックもシスター・マーサも、モルグの恐ろしい権幕に怯え、すっかり目を逸らして震えている。
シャルルは四方から冷たい刃を向けられながらも、表情一つ変えなかった。ただ、酷く冷めた漆黒の目で、勝ち誇るモルグの顔を見つめていた。
「……なるほど。論理を権力で圧殺する。それが、この国の『法』の限界というわけですか」
「そうだ。平民の探偵風情が、聖職者である私を裁けるなどと自惚れるな。さっさと失せろ! さもなくば異端の罪で捕らえ、火あぶりにしてくれる!」
シャルルは静かに嘆息し、恭しく一礼した。
「ええ、退散いたしましょう。私の負けです、司祭殿」
背を向け、カツカツとステッキを鳴らして扉へ向かうシャルル。
だが、敷居を跨ぐ直前。彼は肩越しに振り返り、血まみれのアイリスの遺体を見つめて嗤った。
「人間の法では、あなたを裁けないようだ。……ならば今夜は、火の元と『死者の怨み』に十分お気をつけて」
「負け犬の遠吠えを……! 行け、二度と面を見せるな!」
モルグの怒声と騎士たちの嘲笑を背に受けながら、シャルルは修道院の暗がりへと消えていった。
完全犯罪は守り抜かれた。探偵は権力の前に無惨に敗北し、逃げ去ったのだ。
モルグ司祭は安堵の息を吐き、誰にも見えない角度で、自らの完全勝利を確信した歪な笑みを浮かべるのだった。
◇◇◇
その夜。修道院の最上階にあるモルグ司祭の私室で、重厚なマホガニーの扉が閉ざされた。
ガチャン、ガチャン、ガチャン。
モルグは自らの手で三つの分厚い鍵を掛け、さらに扉に微弱な結界魔法を施した。
部屋の中には誰もいない。窓も閉ざされている。正真正銘、この世で最も安全な「完全密室」だ。
モルグは安堵の息を吐き、豪華なペルシャ絨毯を踏みしめて部屋の奥へ向かう。
昼間、あの生意気な探偵が組み立てた推理は、恐ろしいほどに完璧だった。あの小娘――アイリスの胃袋に種を仕込み、中庭から換気口越しに環境操作魔法を流し込んだという事実を、見事に言い当ててみせた。
だが、それがどうしたというのか。
この世界において、論理など権力の前では紙屑も同然だ。証拠がないと突っぱね、騎士団を動かせば、平民の探偵など容易く追い出せる。
アイリスが密かに書き留めていた人体実験の告発文も、すでに暖炉の灰となっている。自分は安全だ。完璧な勝者なのだ。
「『人間の法では裁けない』だと? 当たり前だ。私は神の代理人たる高位魔術師だぞ。……『死者の怨みに気をつけろ』などと、負け犬の遠吠えにもほどがあるわ」
モルグは暖炉の火にあたりながら鼻で笑い、極上の赤ワインが注がれたグラスを傾けようとした。
ピチャリ。
ふいに、背後で嫌な音がした。水気を帯びた何かが、床に落ちる音。
モルグはグラスを止め、振り返る。音は、部屋の隅にある巨大な木製の衣装棚の影から聞こえた。
先ほどまで、間違いなく誰もいなかったはずの空間。
「……誰だ? 誰かそこにいるのか?」
影の中から、ズルリと何かが這い出してきた。
暖炉の炎に照らされて浮かび上がったのは、純白の修道服。
――いや、かつて純白だった布切れを纏う、血まみれの少女の姿だった。
「司祭、様……」
鈴を転がすような、しかしひどく掠れた声。
モルグは悲鳴を上げ、手からワイングラスを取り落とした。
「ヒッ……!? な、なんだお前は! 」
あり得ない。鍵は全て掛かっている。結界も破られていない。
目の前に立つ少女の口からは、真紅の毒花がダラリと垂れ下がっている。両目があったはずの眼窩からも、耳の穴からも、引き裂かれた腹部からも、おびただしい数の花が咲き乱れ、ポタポタと黒ずんだ血を絨毯に滴らせていた。
「お薬の時間のあと……お部屋の換気口から、熱い風と、湿った空気が入ってきて……。司祭様が、お部屋をジャングルみたいに温めたから……」
「く、来るな! 幻覚だ、こんなものは幻覚だッ!!」
生気のない足取りで距離を詰めてくるアイリスに、モルグは後ずさる。
幽霊が、なぜ自分の使った物理的なトリックを事細かに語るのか。自分しか知らないはずの、完璧な殺害工程を。
「私のお腹のなかに、お花の種を飲ませたからでしょう……?」
「黙れッ!! 浄化の炎よ、この邪悪を灰燼に帰せ!!」
極限のパニックに陥った司祭は、恐怖のままに右手を突き出し、聖職者に与えられた最高位の攻撃魔法――白く輝く業火の渦を、少女の顔面に向かって至近距離から放った。
轟音と共に、少女の華奢な肉体が白炎に包まれる。
モルグ司祭はへたり込み、荒い息を吐きながら醜く哄笑した。
「は、ははははッ! 見たか! 悪霊だろうが何だろうが、私の魔力の前に灰すら残ら――」
その哄笑は、炎の中から響いた「異音」に掻き消された。
グチャリ、ボキボキボキッ。
肉が沸騰し、爆ぜ、骨格が異常な速度で組み替わっていく音。
業火の勢いが、内側から膨張する「何か」の途方もない質量によって押し返されていく。
「な、なんだ……!?」
炎を引き裂いてぬるりと姿を現したのは、もはや少女の面影など微塵もない、完全なる『化け物』だった。
身長は三メートル近く。極限まで膨れ上がった漆黒の筋肉の鎧に、無数の鋭い茨が血管のように這い回っている。顔には目も鼻もなく、ただ耳まで裂けた巨大な顎だけが、蒸気を吐き出しながら嗤うように歪んでいた。
「ひっ……化物ォォッ!!」
発狂した司祭が、手当たり次第に魔法の炎を放つ。
しかし、怪物は避けることすらしない。直撃した魔法は分厚い肉の鎧に弾かれ、傷口は一瞬にして蠢く茨によって縫い合わされていく。
怪物は無言のまま、丸太のような太さの腕を無造作に振り下ろした。
「ギャアアアアアッ!?」
鈍い破砕音。司祭の両腕が、まるで枯れ枝のようにひしゃげ、あり得ない方向へ折れ曲がった。
さらに怪物の巨大な足が、逃げようと這いずる司祭の右脚を無慈悲に踏み砕く。
一切の慈悲も、感情もない、ただ純粋で圧倒的な暴力。特権階級の誇りも魔法も、圧倒的な質量による蹂躙の前では無力だった。
手も足も潰され、完全に戦闘不能となった司祭は、血溜まりの中で涙と鼻水を流して痙攣することしかできなかった。
虫の息となった司祭を見下ろすと、怪物はピタリと動きを止めた。
そして――ドロリと、怪物の肉体が溶け落ちた。
巨大な筋肉も、鋼鉄の茨も、まるで不要になった汚いボロ布のように崩れ落ちていく。
あとに残されたのは、喪服のような黒い外套を羽織り、銀の装飾が施されたステッキをつく、透けるほど青白い肌の青年だった。
「――熱いな。火の元には気をつけろと、昼間に忠告してあげたのに」
シャルル・キョース。
先ほどまでの狂暴な怪物と同一人物とは到底思えない、病的なまでに細く、静謐な佇まい。
その顔を見て、司祭は痛みを忘れて呆然と目を見開いた。
「き、貴様……昼間の探偵……。ば、馬鹿な、鍵は完璧に掛かっていた! 結界も張った! いつ、どこから入った!」
「入ったのではありませんよ。……ずっと『いた』のです」
シャルルは冷酷な三日月型の笑みを浮かべ、動けなくなった司祭の顎をステッキの先で跳ね上げた。
「昼間、あなた達が遺体を片付けている間に、顔のない清掃員に化けてこの部屋に潜り込みました。そして自身の骨を全て外し、肉体を絨毯のように薄く引き伸ばして……あの衣装棚と壁の『数センチの隙間』に同化し、あなたが一人きりになるのを半日ずっと待っていたのですよ」
魔法によってあらゆる肉体を模写し、自在に作り変える異能『千面相』。
その異常な執念と猟奇的な潜伏方法を聞かされ、モルグはヒッと引きつった悲鳴を上げた。自分は、この狂ったバケモノと同じ部屋で、何も知らずに勝利の美酒に酔っていたのだ。
「昼間、私は宣言したはずですよ。『人間の法ではあなたを裁けない』とね。だから、人間の法ではない力で、あなたの薄汚いトリックを解剖しに来てあげたのです」
シャルルは懐から小瓶を取り出すと、絶望で声も出せない司祭の口を無理やりこじ開けた。
そして、中に入っていた黒い「種」を、司祭の喉の奥へと直接流し込む。
「や、やめ……ごふッ、お助け……」
「安心したまえ。今度は私が、君の部屋を完璧な温室にしてあげよう。明日の朝、君の胃袋からどんな美しい花が咲くのか……とても楽しみだ」
無慈悲な宣告と共に、シャルルが部屋の換気口へ向けて、奪い取った司祭の杖で熱魔法を起動させる。
むせ返るような熱気と湿度が、瞬く間に豪華な私室を満たし始めた。
扉は内側から固く閂が下ろされている。完璧な密室の中で、司祭の絶望に満ちた悲鳴だけが、朝まで誰に届くこともなく響き続けた。
――翌日。王都の騎士団がモルグ司祭の私室で発見したのは、全身の穴から醜い黒百合を咲かせ、恐怖に顔を歪ませて死んでいる、聖職者の無惨な死体であった。
部屋は内側から鍵が閉まったまま。完全な密室での、あり得ない惨死。
「司祭様が……ば、馬鹿な! 一体誰がこんな……ッ!」
扉を打ち破った騎士の小隊長が、吐き気を堪えながら絶叫する。
修道院は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。
騎士たちが慌ただしく出入りし、現場検証のための治癒魔術師や教会の関係者が、青ざめた顔で次々と私室へとなだれ込んでいく。
その混乱を極める廊下の片隅を、一人の見習い修道僧が、モップを掛けながら静かに歩いていた。
深くフードを被った、何の変哲もない、小柄でひどく猫背の修道僧。誰も彼の顔を知らない。だが、誰も気にも留めない。特権階級の者たちにとって、下働きの顔など道端の石ころと同じなのだから。
修道僧は、怒号と悲鳴が飛び交うモルグ司祭の私室を一瞥し――フードの奥で、冷酷な三日月型の笑みを浮かべた。
(……人間の法では裁けない完全犯罪も、案外脆いものですね。)
モルグ司祭が死に絶えた後、シャルルは再び肉体を引き伸ばして衣装棚の隙間に潜伏し、朝を待ったのだ。そして扉が破られ、人々が部屋になだれ込んできた一瞬の隙を突き、極限まで気配を殺した「見習い修道僧」に姿を変えて、群衆の中に紛れ込んだのである。
魔法絶対の異世界において、密室など彼にとってはいつでも破れるただの箱に過ぎない。
シャルル・キョースは、誰にも気付かれることなく、狂気の探偵としての仕事を終え、静かに朝の光の中へと消えていった。




