第三話 静かな灯りの下で
――暗闇が、ゆっくりと薄れていく。
意識が浮上する感覚は、水の底から引き上げられるような鈍い重さを伴っていた。まぶたの裏に、淡い橙色の光が差し込んでいる。焚き火ではない。炎の揺れがない。人工的な灯り――そう理解する。
目を開くと、木材と布で構成された天井が見えた。粗末だが崩れていない。風の音が壁を震わせ、外からかすかな生活音が重なる。複数の“人”がいる。声の調子、足音の規則性で判断できる。
私は布の上に横たわっていた。柔らかくはないが、地面よりは温かい。右腕を動かそうとした瞬間、鈍い痛みが走る。まだ力は入らない。しかし、前回受けた衝撃を考えれば――痛みがこの程度であること自体が異常だ。
筋繊維が再構築されている感覚がある。修復は進んでいる。
――回復速度が早すぎる。
自覚はあるが、理由は説明できない。
耳が微かな物音を拾った。誰かが近づいてくる。
扉が開く音。木がきしむ。
女性の声が落ちてきた。
「……起きてる?」
私は反射的に上体を起こそうとしたが、右腕がうまく支えにならず身体が傾く。
「あっ、無理しないで!」
女はすぐに駆け寄り、私の肩を支えた。距離が近い。体温が伝わる。私は一歩後ろへ退きそうになったが、逃げ場はなく、表情だけが硬直する。
「大丈夫、大丈夫。私はミラ。あなたをここに運んだ人。敵じゃないから」
“敵ではない”という言葉は理解できた。
だが、返す言葉が出てこない。声帯は震えるのに、発声へのつながりが曖昧だ。
「……ぁ……」
音にならない息。それでもミラは微笑んだ。
「喋らなくても平気。今は休んでいいから」
ミラは私の顔を覗き込むようにして、怪我の様子を確かめる。近距離の視線。黒いタンクトップに褐色の肌。しなやかな腕の筋肉が、力仕事をしてきたことを示していた。
私の視線に気づいたのか、ミラは優しく言った。
「ここは“グレインの集落”。二十人ちょっとしかいない、小さなところだけどね。あなたは……廃施設で倒れてたの。すごく危険だった」
倒れていた――その言葉から、私は断片的な記憶を繋ぎ始める。
ガラスの筒。液体。紫色の獣。雷光。
ミラが私の右腕をそっと持ち上げる。
「ひどい打撲と捻挫。でも……信じられないくらい治りが早いの。サラが驚いてた」
サラ。誰かの名前だ。
続けて、扉の向こうから足音が近づく。
「ミラ、起きてたの?」
落ち着いた声。背の低い女性が入ってきた。栗色の髪を束ね、白い布の羽織りをしている。彼女は私を見ると、わずかに目を細めた。
「意識ははっきりしてるみたいね。私はサラ。この集落の医療担当」
サラは淡々と私の腕に触れ、指で腫れの範囲を確認する。
「……やっぱりおかしいわね。回復が速すぎる。普通の人間なら、動かせる段階じゃない」
ミラが小さく言い返す。
「でも、それは……いいことなんじゃ?」
「判断がつかない。良いか悪いかより、まず事実を把握する必要があるわ」
サラが表情を変えた瞬間、私の身体がわずかに反応した。医療行為への警戒だ。自動的に筋肉が緊張する。
「大丈夫。痛いことはしないから」
その声は冷静なのに、どこか柔らかい。私は緊張を少しだけ解いた。
そこで、集落全体の空気を変えるような“重い足音”が近づいてきた。
ミラもサラも、すぐに表情を切り替える。
「ジェイド……」
扉が開く。
灰混じりの黒髪。厚い軍用ジャケット。深い皺を刻んだ鋭い眼。
集落のリーダー――ジェイド・ローレンス。
彼は室内を一瞥し、すぐに私に視線を向ける。圧が強い。距離は取っているのに、拒否できないような存在感がある。
「目が覚めたようだな」
私は反射的に身体を固くする。
ジェイドはその反応を観察してから、落ち着いた声で言った。
「俺はジェイド。この集落の責任者だ。まず確認したい。お前の名前は?」
名前。
思い浮かぶ文字列。あの金属プレートに刻まれていた掠れた名。
「……ア……ヤメ」
初めての明瞭な声。喉が痛むが、言葉は発せられた。
ミラが驚き、サラは小さく頷き、ジェイドは表情を変えない。
「姓は?」
「……わから……ない」
嘘ではない。
本当は知っているが、それを“言葉として出す準備”が整っていない。
ジェイドは私の目をじっと見た後、短く告げる。
「しばらくはここで保護する。ただし、監視はつける。理解できるか?」
私は数秒考え、首を小さく縦に振った。
監視――危険と判断された。しかし排除ではない。
合理的だ、と理解できた。
その瞬間、外から子供の泣き声が聞こえた。
「……ひと……?」
私は声に出してしまった。
ミラが柔らかく笑う。
「そう。ここには人がいる。あなたは今、安全な場所にいるの」
“安全”。
その概念を、私はまだ完全には理解していない。
だが、ミラの表情と声を見て――一つの推論を立てた。
――この場所は、外より危険が少ない。
それだけでも十分だった。
「休め。まだ動くな」
ジェイドの声が響くと、ミラが毛布を整え、サラが灯りの調整をする。
部屋が暗くなり、私は再び体を横たえた。
右腕の痛みは、さっきよりも軽い。
修復が進んでいる。
外では風の音と、誰かが薪を割る音がする。
私の知らない生活の音。
世界は広い。
私はその一部に、今、いる。
目が重くなっていく。
意識が沈む直前、遠くで何かが鳴いた。
長く、くぐもった、低い音。
――聞いたことのある“生物”の声。
ヴォイド。
すぐに周囲の人の声がかき消し、その音は遠ざかっていった。
私はその“境界線”をぼんやりと感じながら、静かな眠りへ落ちていった。




