第二十五話 虚無
ミラはアクセルを踏み込み、車を限界まで走らせていた。
舗装の荒れた道をタイヤが噛み、車体が小刻みに揺れる。それでも速度を落とす気にはなれなかった。
ハンドルを握る指先が白くなるほど力が入る。
(みんな……どうか、無事でいて)
胸の奥で、何度も同じ願いを繰り返す。
祈りに似たその感情は、しかし祈り切れないほど切迫していた。
助手席のアヤメは、ミラとは対照的に静かだった。
身体は前傾し、視線は常に車窓の外――森と道の境界を追っている。
物音ひとつ。
揺れる草。
木々の影。
すべてが敵に見える状況で、アヤメの意識は研ぎ澄まされていた。
やがて、拠点が近いことを示す分かれ道が見えてくる。
――見慣れた景色が、戻ってくる。
はずだった。
「……そ、んな……」
ミラの口から、かすれた声が零れ落ちた。
そこにあったのは、いつもの拠点ではなかった。
地面には無数の爪痕と抉れた跡。
建物の外壁には衝撃で砕けた痕が残り、焦げ跡が点在している。
だが、破壊され尽くしてはいない。
――戦った。
それも、相当激しく。
人の姿は、どこにもなかった。
ミラは急ブレーキをかけ、車を止めると同時にドアを開けた。
地面に飛び降り、拠点へ向かって走り出す。
「みんな! みんな!! どこ!?」
叫び声が、虚しく森に吸い込まれていく。
「ミラ!!」
アヤメが後を追い、ミラの腕を掴んだ。
「落ち着いて。これだけ戦った後なら、まだ敵が残ってる可能性もある」
強く、しかし静かな声だった。
ミラは息を荒げながら、アヤメを見る。
その視線に、ようやく理性が戻り始める。
アヤメは周囲を一瞥し、冷静に状況を整理していた。
(戦闘の痕跡……でも、拠点そのものは壊されていない。
――戦った場所は、ここじゃない)
視線が、訓練所の方向へ向く。
「ミラ。こっち」
迷いのない声で言い、アヤメはミラの手を引いた。
「アヤメ? どこに行くの?」
その問いに答えず、アヤメは進み続ける。
ミラはその背中を見て、自然と足を運ばせた。
訓練所に近づいた瞬間、鼻を突く匂いが変わる。
鉄と土が混じった、嫌な匂い。
そして――血の匂い。
地面に、はっきりとした血痕があった。
それは拠点の外、森との境へと続いている。
二人は顔を見合わせ、小さく頷き合った。
奥へ進むにつれ、匂いは濃くなる。
焦げた匂い。
血の匂い。
空気そのものが、戦いを記憶しているようだった。
そして――。
「……ガレン!!」
ミラの叫びが弾けた。
倒れていたのは、ガレンだった。
身体中に傷を負い、地面に横たわっている。
二人は駆け寄った。
「……まだ、息がある!」
ミラが震える声で言う。
「意識がない。ミラ、応急キットを取りに行こう!」
二人は拠点へ引き返し、急いで自分たちの家から応急キットを抱えて戻る。
ミラは膝をつき、手際よく応急処置を始めた。
その間、アヤメは周囲を警戒する。
ふと、視界の端に不自然な盛り上がりが映った。
「あれは……」
アヤメが近づき、土を払う。
「……ルカ!!」
そこにいたのは、ルカだった。
爪で切り裂かれた傷跡が身体を走り、血が滲んでいる。
アヤメは迷わず抱き上げ、ミラの元へ戻る。
「ミラ!!」
「……ルカ……! アヤメ、こっちに!」
ミラは続けて応急処置を施す。
「みんな……こんなになるまで……」
ミラの目に、涙が浮かんだ。
アヤメは歯を食いしばり、周囲を見渡す。
血は、あちこちに飛び散っている。
その中で、ひときわ量の多い痕が、森の奥へと続いていた。
嫌な予感が、胸を締め付ける。
血痕を辿った先。
木に、何かが突き刺さっている。
「……エマ!!」
アヤメは駆け寄った。
エマは、太い枝に串刺しにされた状態で横たわっていた。
それでも、微かに胸が上下している。
「……まだ息はある。でも……」
枝を抜けば、血が一気に溢れ出る。
「ミラ! エマがいた! でも枝が刺さってて、動かせない!」
「わかった! 今行く!」
ミラは走ってきた。
「これは……エマ、しっかり! がんばるのよ!」
自分に言い聞かせるように、ミラは声をかける。
「ミラ。私が枝を切り落とす。そうすれば、一時的に動かせる」
「……お願い、アヤメ」
アヤメは夜天紫蘭を抜き、静かに振り下ろした。
――シャン。
枝は、音もなく切断される。
ミラはエマを抱え、ガレンたちの元へ戻る。
応急処置を施しながら、ふと顔を上げた。
「……ジェイドは?」
その名を口にした瞬間、空気が張り詰める。
「ジェイドは……どこ?」
アヤメも周囲を見渡す。
木陰の奥。
不自然な影。
アヤメは、そこへ走った。
「……ジェイド……」
腹部には大量の血痕。
地面に染み込んだ跡が、すべてを物語っていた。
(……息がない)
胸に耳を当てる。
(……鼓動が、聞こえない)
「……ミラ」
「アヤメ? どうしたの?」
「……ジェイドがいた」
「……よかった。具合はどう?」
ミラは、まだ希望を捨てていない。
「……ジェイドが、死んでる」
「……え?」
「……今、なんて?」
「……ジェイドの心臓が、動いてないの」
アヤメは事実として、それを理解した。
だが、胸の奥に生まれた感情の正体は、まだ掴めなかった。
ミラが駆け寄る。
「ジェイド!! しっかりして!!」
必死に心臓マッサージを行う。
「……はぁ、はぁ……ジェイド! 帰ってきて!!」
アヤメは、それが無駄だと分かっていた。
けれど、止めることはしなかった。
「……ミラ。サラたちを探そう。
たぶん、みんなシェルターにいる」
ミラは涙を拭い、立ち上がる。
「……そうね。行きましょう」
二人はシェルターへ向かった。
扉を開けると、そこには住人たちと――サラがいた。
「ミラ!! アヤメ!!」
ミラはサラを抱きしめる。
「……サラ……よかった……」
生きている。
その事実だけが、今は救いだった。
アヤメが口を開く。
「ミラ、状況を共有しよう。
ガレンたちも、早く治療しないと危ない」
「……えぇ」
ミラは覚悟を決め、皆に状況を伝えた。
戦闘の痕跡。
負傷者。
そして――ジェイドの死。
重い沈黙が落ちる。
「……まだ、救える命がある!」
サラが声を上げた。
「行きましょう!」
その眼差しは、強かった。
「……えぇ、行きましょう」
「私とアヤメとサラ、男性陣も一緒に来てほしい」
ミラの言葉に、皆が頷く。
彼らは再び、血の匂いが残る場所へと向かった。
失われたものは、戻らない。
だが、守れるものは、まだ残っている。
――それが、この日、彼女たちが掴んだ唯一の答えだった。
失われたものの大きさに、心が空洞になる。
それでも、立ち止まることは許されなかった。




