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第二話 拾われた命

 鈍い光が、遠くの廃墟で瞬いた。

 紫がかった白い閃光。

 雷のようでいて、雷とはどこか違う、短く鋭い光の筋。

「……いま、見たか?」

 背中のリュックを揺らしながら、若い男が立ち止まる。

 ミラは彼の隣で足を止め、崩れたビル群の向こうをじっと見つめた。

「見た。……でも、音がしなかった」

 雷なら、遅れて腹の底に響くはずの音が来ない。

 空も曇っていない。ただ、あの崩落ビルの地下あたりが、一瞬だけ光った。

「戻ろうぜ、ミラ。あっち側は“深層”だ。俺たちの担当じゃない」

 前を歩いていた中年男が振り返る。顔には深い皺、腰には古びたナイフ。

 彼の視線は、あからさまに怯えていた。

「……ヴォイドの、適応体かもしれねぇ。

 ああいう光を見たあとで戻ってきた奴なんて聞いたことがない」

 誰かが唾を飲み込む音がした。

 彼らはみな、武器を持っている。だが、そのどれもが“生き延びるための最低限”であり、戦うためのものではない。

 ミラは黙ったまま、もう一度遠くを見た。

 風が吹き、粉塵が舞う。

 崩れたビルの影は、さっきと何も変わらないように見える。

 ――でも。

 胸の奥で、小さな違和感がうずいた。

 あの光のあとに、一瞬だけ。

 何かが、途切れたような感覚。

 心臓の鼓動が、ひとつ飛んだような。

 息が詰まるような。

 嫌な感覚。でも、それは恐怖だけではなかった。

「ミラ?」

 名を呼ばれ、ミラは仲間たちを振り返る。

「……ごめん。ちょっと、見てくる」

「はぁ!? おい、正気かよ!」

 若い男が目を剥いた。

 中年男も顔を歪め、大きく首を振る。

「駄目だ。あっちは危険区域だって決まってる。

 物資目当てで浅層を漁るのとわけが違う。

 さっきの光は、絶対に“あれ”の類だ。近づくべきじゃねぇ」

「だとしても――」

 自分でも知らないうちに、言葉が口からこぼれていた。

 ミラはそこで一度口を閉じ、息を吸い、ゆっくり吐いた。

「……だとしても、誰かがまだ生きてるかもしれない」

「は?」

「雷みたいな光だった。

 ヴォイドがそんなものを出したって話は聞いたことない。

 もし、誰かが戦ってて……倒れてるんだとしたら」

 自分で言いながら、喉がひりつく。

 あの日と同じだ、と心のどこかが囁いた。

 遠くから悲鳴が聞こえたのに、怖くて動けなかった日。

 気づいたときには、もう手遅れだった。

「……今度は、見て見ぬふりなんて、できない」

 中年男が舌打ちした。

 だが、その視線はすぐに逸らされた。

「ひとりで行く気か。ミラ、お前は――」

「戦える人間じゃないよ。でも、見つけるくらいはできる」

 ミラは肩のリュックの紐を握り直す。

 そこには古い救急セットと、少量の水、包帯、安物のナイフが一本。

 それだけ。

 心臓が早鐘を打つ。

 怖い。

 足がすくみそうになる。

 それでも、あの光を見たあとで背を向けることのほうが、もっと怖かった。

「三十分。

 三十分だけ様子を見て、何もなかったらすぐ戻る。

 あなたたちは予定通りキャンプに戻って。……いいね?」

 返事を待たずに、ミラは歩き出した。

 背中に、誰かの小さな祈りのような声が届いた気がしたが、振り返らない。

 崩れたビルの影は、近づくほどにその歪さを増していった。

 外壁は落ち、鉄骨が剥き出しになり、小さな山のように瓦礫が積み重なっている。

 かつてそこに何があったのか、今では想像もつかない。

 ミラは息を整え、足場を確かめながら慎重に瓦礫を登った。

 靴底が砕けたコンクリートの欠片を踏みしめる度に、乾いた音が響く。

 ――ここで、光が。

 さっきの閃光の位置を頭の中で再現し、進む方向を決める。

 崩落したフロアの端に、暗い穴が口を開けていた。

 地面にぽっかりと空いた、大きな裂け目。

 ビルの内部から、地下へと続いているらしい。

 ミラの喉が、ごくりと鳴る。

 暗闇の底から、生温い空気が吹き上げてきた。

 錆と、薬品と、焦げた匂いが混じり合った、重い空気。

 ――怖い。

 体の奥が、正直にそう訴えてくる。

 膝が震えそうになる。

 でも、その震えを押さえ込む手段はもう知っていた。

 息を吸う。

 ゆっくり吐く。

 かつて、弟の手を引いて避難通路を全力で走った夜。

 喉が裂けそうになりながら、必死に息を整えたあの感覚を思い出す。

「……大丈夫。行ける」

 誰に聞かせるでもなく呟き、ミラは裂け目に足をかけた。

 崩れかけた階段を、一段ずつ下りていく。

 足元の鉄が軋み、小さな破片が闇へ落ちていく音がする。

 やがて、足が平らな床を捉えた。

 暗闇に目を慣らしながら、ミラはそっとライトを点ける。

 細い光の筋が、瓦礫の散らばる通路を照らした。

 そこには、壊れた機械と、割れたガラスと――。

 床に倒れている、人影があった。

「……っ」

 息が詰まる。

 少女だった。

 黒いロングコートを羽織り、その下から白い肌がのぞく。

 長い黒髪が床に広がり、顔は少し横を向いている。

 意識はない。

 傷だらけだ。

 腕は損傷が酷い、肌には打撲と擦過傷がいくつも浮かんでいる。

 そして、そのすぐ傍らには――。

 紫色の皮膚をした四足の“何か”が倒れていた。

 ミラの背筋に、冷たいものが走る。

 ヴォイドだ。

 見たことのない系統だが、その異様な体表、骨の突起、刃のような尾。

 幼い頃から何度も絵で見せられ、説明されてきた“それ”の特徴が、そこには揃っていた。

 けれど、そのヴォイドは動かない。

 胸がわずかに上下している。

 生きている。

 ただ、意識を失っているだけ。

 ――どういう、こと。

 ミラは少女とヴォイドの距離を測る。

 倒れ方。周囲の瓦礫の散らばり方。

 焦げたような痕跡。

 ふわり、と、髪が静電気で持ち上がる。

 空気が、微かにぴりついていた。

 今も、ここに“何か”の残り香が漂っている。

「……あなたが、やったの?」

 自分に問いかけるように呟き、少女の顔を覗き込む。

 年齢は、ミラよりずっと若い。

 二十歳にも届かないだろう。

 表情は穏やかで、眠っているようにも見えた。

 唇の端から、乾きかけた血がにじんでいる。

 ミラは喉の奥で息を呑み、震える手を伸ばした。

 首筋に触れる。

 脈があった。

「……よかった」

 膝から力が抜けそうになる。

 けれど、ここで座り込むわけにはいかなかった。

 ヴォイドがいつ目を覚ますか、分からない。

 そのとき、自分ひとりで対処できるはずがない。

「ごめんね、ちょっと乱暴にするかもしれないけど」

 ミラは少女の体をそっと抱き起こした。

 想像していたよりも軽い。

 折れそうなほど薄い肩。

 痛みで目を覚まさないか心配しながら、腕を回し、背中を支える。

 立ち上がるとき、右腕に重みが乗り、ミラは小さく息をのんだ。

 それでも離さない。

 背後のヴォイドに視線を送る。

 まだ、動かない。

 ライトを口にくわえ、足元を照らしながら、来た道を戻る。

 一段、一段、階段を上るたびに、膝が笑いそうになる。

 息が上がる。

 心臓がうるさい。

 それでも、少女の体を支える腕だけは決して緩めなかった。

 キャンプへ戻ると、仮設の柵の内側がざわついた。

「ミラ!? お前それ――」

 門番をしていた男が目を剥く。

「人間よ。女の子」

 ミラは短くそう告げ、そのまま医療用に使っているテントへ向かった。

 薄い布で仕切られた簡易ベッドの上に、少女を寝かせる。

 右腕は腫れ上がっていた。

 打撲、擦り傷。呼吸は浅く、早い。

 ミラは震える手で救急セットを開いた。

 消毒液。包帯。止血バンド。

 持っているものは少ないが、何もしないよりはいい。

 布越しに聞こえる足音が増えていく。

 仲間たちが集まってきているのだろう。

「ミラ、本気か。そいつ、本当に人間なのか?」

「見た目だけはな。中身はどうだか」

「ヴォイドの変異体って線は?」

 好き勝手な声が飛び交う。

「黙って」

 ミラは手を止めずに、一言だけ強く言った。

 テントの中の空気が、一瞬だけ固くなる。

「脈がある。体温も人間と同じ。

 傷も、骨折もある。……痛そうでしょ」

 誰も、すぐには反論しなかった。

「それに――」

 そっと、少女の顔を覗き込む。

 睫毛が長い。

 呼吸に合わせて、かすかにその影が揺れる。

 怖がっている顔ではない。

 苦しそうでもあるけれど、それ以上に、どこか無防備だ。

「こんな顔で、あんなものにはなれない」

 ミラの言葉に、外から誰かが小さくため息をついた。

「……分かったよ。

 とりあえずは“保護扱い”だ。

 本部に連絡するかどうかは――様子を見てからだな」

 責任者の男の声だった。

 ミラは短く頷き、少女の額に冷えた布を乗せる。

 右腕を固定し、目立つ傷口には簡易的な包帯を巻いた。

 その最中、少女の指が、かすかに動いた。

 ミラは思わず身を乗り出す。

「……聞こえる?」

 返事はない。

 だが、少女のまぶたが、わずかに揺れた。

 細い水色の瞳が、うっすらと開く。

 焦点の定まらない視線が、天井をさまよい、

 やがてミラの顔のあたりで止まった。

 ミラはできるだけ柔らかい表情を作る。

「大丈夫。ここは安全よ」

 少女の唇が、かすかに動いた。

 音は出ない。

 声帯が震えるだけで、言葉にはならない。

 それでも、何かを伝えようとしているのが分かった。

 ミラはそっと、自分の手を少女の手のそばに置く。

 指先が、触れた。

 少女は驚いたように、しかしすぐに力を抜いた。

 その瞳に、感情と呼べるほどのものはまだ薄い。

 けれど、まったくの無ではなかった。

 ――ああ、この子は。

「……もう一人じゃないから」

 その言葉が届いたかどうかは分からない。

 だが少女は、ほんのわずかに瞬きをし、

 まぶたを閉じた。

 今度は、穏やかな眠りのように見えた。

 テントの外では、誰かが小声で言い争っている。

 本部に連絡すべきだ、いやまだ早い――そんな言葉が断片的に届いた。

 ミラはそれらを聞き流し、ただ静かに少女を見つめる。

 守れなかった背中が、記憶の底でうずいた。

 あのとき掴めなかった手の感触が、いま指先に重なる。

「……今度は、間に合ったから」

 自分に言い聞かせるように呟き、ミラはもう一度布を絞った。

 少女の額にそっと触れる。

 その体温は、確かに“生きている人間”のものだった。


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