饅頭
若者は焦っていた。昼過ぎには着いている予定だったのだが、日が傾いても一向に目的地が見えてこない。数歩進むごとに手に持った地図と目の前の景色を見比べ、「こっちか。いや、あっちか」とぶつぶつ呟いている。
主が行ったり来たりする度、その馬も右へ左へ引っ張られていた。振り回されることに苛立ったのか、首をぐいと背け、ブルブルと鼻を鳴らした。若者がはっと振り返る。
「悪いな、ソク。お前も疲れたろう」
愛馬、ソクの首を撫でて落ち着かせながら西の空を仰ぐと、木々の隙間から橙色の光が目に飛び込んできた。このままでは夜になってしまう。夜にこのような深い森にいたのでは、獣に襲われるやもしれない。若者ひとりであれば難なく撃退できるであろうが、馬を庇わねばならぬことを考えると体力を多少消耗するだろう。食料には余裕があったが、飲み水がほとんどないことも気がかりだった。日が沈まぬうちに川にはたどり着こうと、若者の足は速まった。
ふと、視界の端に動くものが映った。さっと顔を向ける。人だ。籠を背負った少女が百歩ほど離れたところを歩いていた。若者には気づいていないようだった。村の民だろうか。もしそうなら案内を頼めるかもしれない。
少女は木々の根本で度々立ち止まり、しゃがんで何かを摘んでは籠に放り込んでいる。大股で進む若者との距離は間もなく縮まった。
背丈からして、六歳くらいだろうか。帝都の少女たちと違って前髪がなく、やわらかな黒髪は耳の下でふたつに括られていた。露わになった額に彫られた朱色の入れ墨が浅黒い肌によく馴染んでいる。首からは文様の掘られた石が下げられている。まさに、若者が目指す村の伝統装束だった。
あと数歩近づいたら話しかけようと意気込んだ時、少女は木の根に足を取られ、つんのめった。若者は咄嗟に走り寄り、少女の片腕を掴んでひょいと引っ張り上げるようにして支えた。
「大丈夫か?」
顔を覗き込むと、少女がカクカクと首を縦に振ったので、若者は彼女の腕から手を離し、転んだ拍子に籠から飛び出した茸や木の実を拾い集めて手渡してやった。
若者は身分を名乗ると、村への道知っているか尋ねた。少しのあいだ視線を彷徨わせていた少女だったが、やがて小さく頷いた。
一行は夕日を背に歩き始めた。
沈黙。木の葉や木の枝を踏む音だけが響く。何か話すべきかと悩んだ若者が少女に目をやると、彼女がソクをちらちら見やっていることに気が付いた。
「こいつが気になるか」
尋ねると、少女は頭をゆらゆらと動かした。肯定とも否定とも取れない動かし方だ。
「馬を見るのが初めてなのか」
若者は少し考えてからまた口を開いた。少女は首を傾げて若者を見上げ、「これが、馬、ですか」と一語ずつぽつぽつと発すると、今度はソクを見上げた。そして、はあ…と感嘆を漏らした。
若者は少女と愛馬を交互に見やってから、「乗ってみるか?」と言ってみた。少女は目をぱちくりさせて再び若者を見上げた。その目には戸惑いと期待の色が浮かんでいる。若者が「乗るか?」と長身を少し屈めてもう一度聞くと、少女はゆっくりと首を縦に振った。若者は少女の籠を預かると、彼女を軽々と持ち上げて鞍に乗せた。少女は小さく歓声をあげた。それまで強張っていた顔には笑顔が浮かんでいる。若者の表情も少し緩んだ。
前方に向き直ると、一跨ぎで渡れる程の小川が流れていた。少女はソクの背中の上から川下を指さして「あっち」と言った。地図にあった川は山脈を切り裂くように大きく描かれている。てっきり太い川だと思っていた若者は描き手の画力に呆れながら、「おお、そうか」と平常心を装った声を出し、ソクの向きを変えさせた。
間もなく木々の隙間から畑が見え始め、村に到着した。村人たちは突然の客人に驚き、作業の手を休めてひそひそとささやき合いながら遠巻きに一行を見やっている。
村の端にそびえる一本杉。そのふもとにこの村を取りまとめるビリ家が住む「お屋敷」があると少女は言った。そのビリ家の跡取りこそ、若者が訪ねる者である。
一本杉に隠れるようにしてひっそりと建つお屋敷は他の民家よりは少しばかり大きいものの、若者の家にある納屋よりも小さな平屋の建物だった。
お屋敷に続く小道に差し掛かると、若者は馬を止め、少女を降ろしてやった。籠を受け取るが早いかその場を後にしようとする少女を引き留めて、若者は馬に背負わせていた風呂敷包みのひとつから木箱を引っ張り出した。「心ばかりであるが…」と若者は木箱を開け、黒い紙に包まれた丸いものをひとつ、少女に差し出した。
「都で人気の饅頭だ」
包み紙を若者が開くと、こんがり焼けた茶色い饅頭が顔を出した。甘い香りに誘われ、少女はおずおずと手を伸ばした。少女がひとつだけ受け取ろうとしたので、若者は「ひと箱持って行くがよい」と言って、饅頭を戻して箱を突き出した。少女が遠慮がちに箱を受け取ると、若者は頬を少し動かした。本人は笑顔を作ったつもりなのであるが、端から見れば目を多少細めただけだったので、饅頭を受け取ってはいけなかったのかと少女を不安にさせた。
「世話になった。礼を言う」
では、と会釈をすると、若者は踵を返し、すたすたと門への小道を進んでいった。
若者の腰の高さくらいの木製の門は腐りかけていて、半開きだった。門を抜け、戸口に立つと、若者はひとつ深呼吸をしてから戸を叩いた。返事はない。人が出てくる気配もない。もう一度叩いた。やはり人は出て来なかった。
留守なのかもしれないと思い、村人に尋ねてみようと小道へ取って返そうとした時、村の入口の方からこちらへ一直線に飛んでくる者があった。その者は、徐々に高度と速度を落とし、門の外側にふわりと着地した。
「ひっさしぶりだなあ!元気か!」
息を弾ませながら背中をばしばし叩いてくる旧友の手を、若者はやんわりいなす。彼女は馬にも挨拶をして頬ずりすると、若者を振返った。
「いやあ、お前、今日には着くって手紙で言ってたくせに夕方になっても来ねえからさ。迷ってんのかと思って、探しに行こうとしたんだよ。そしたら村の奴らが外から人が来たって騒いでたもんだから急いで引き返したんだ。おかげで汗かいちまったぜ!」
声高にまくしたてながら彼女が頭を振ると、汗のしずくが飛び散った。用意した地図がわかりにくかったことを説明しようと若者が口を開きかけたと同時に、友人は「あ!」と叫んで若者を見上げた。
「焦げ饅頭、買ってきてくれたよな?」
間髪入れずに「もちろん」と答えてしまってから、忘れたと言ったら彼女はどんな反応をしただろうか、と若者はふと思った。友人が大袈裟に肩を落とす姿を想像しながら、若者は先ほど少女にあげた饅頭の入った風呂敷を指さす。木箱はあと十箱はあった。
「山ほどあるから好きなだけ食え」
それを聞いた友人は翡翠色の瞳をぱあっと輝かせ、「茶、入れてくる!」と言ってお屋敷の扉を勢いよく開けると、どたどたと入っていった。
「変わっていないな、そなた」
炎のごとく揺れる真っ赤な癖毛がお屋敷の奥に消えていくのを見つめる若者の表情は、誰の目にも微笑みと映るものであった。




