シャンプー中に目を開けたら…
シャンプー中に目を開けたら幽霊さんがお邪魔してくる話です。お邪魔は失礼か。あと、後頭部洗うのって難しいですよね。
浴室に湯気が満ちる。
シャワーの音に包まれながら、俺はシャンプーを泡立てていた。いつもなら目をしっかり閉じたまま洗うのに、その夜はなぜか――ふと目を開けてしまった。
そこで、俺は見てしまったのだ。
曇りガラスの内側、湯気に紛れるようにして「女の幽霊」が立っていた。
長い髪に白いワンピース。無表情に、ただこちらを見ている。
「うわっ……!」
思わずのけぞる俺。心臓が跳ねる。
ところが幽霊は、ふっと小さく笑って言った。
「そんなに怖がらなくていいよ。泡、目に入りそうだったから」
――え?
冷たい指先が俺の額からこめかみに触れる。するりと泡を拭うように撫でていく。
幽霊の手は氷みたいに冷たいのに、不思議と嫌じゃなかった。
「わたしね、妹の髪をよく洗ってあげてたの。小さな子でね、目を開けて泣きながらシャンプーしてたから」
幽霊は、まるで昔話をするみたいに微笑む。
それからだ。
彼女は俺の風呂時間にたびたび現れるようになった。
「ちゃんと泡を流さないと、かゆくなるよ」
「リンスは毛先からなじませるの。こう、優しく」
「髪って心に近いから、手入れしてると気持ちも落ち着くんだよ」
幽霊に髪を洗われるという奇妙すぎる日常。
最初は恐怖でしかなかったのに、気づけば俺はその時間を楽しみに待つようになっていた。
彼女はよく笑った。
でも、自分のことはほとんど話さない。
ただ「妹がね」「昔はね」と、断片だけが語られる。
ある夜、俺は思い切って訊いた。
「……どうして、俺のところに出るんだ?」
幽霊は湯気の向こうでしばらく黙っていた。
そして、ぽつりとつぶやいた。
「妹にしてあげたことを……もう一度、誰かにしたかったの」
それ以上は言わなかった。
◇
日々が過ぎ、俺の髪は彼女に言われた通りツヤツヤになった。
学校で友達に「お前、なんか雰囲気変わったな」と言われることも増えた。
不思議と気持ちまで明るくなっていた。
そしてある夜。
「ねえ」
浴室に現れた彼女が、静かに言った。
「あなたの髪、もう大丈夫。……もう、私がいなくても平気だね」
「え?」
思わず振り返ると、彼女はにっこり笑っていた。
「ありがとう。あなたと過ごせて、わたし、ずっと忘れられなかった“あの時間”を取り戻せた」
その声は、湯気に溶けるように薄れていった。
気づけば浴室には、俺一人だけ。
シャワーの音だけが響いていた。
◇
それから彼女は現れなくなった。
でも俺は今も、シャンプーをするときに一瞬だけ目を開ける。
――もしかしたら、あの優しい指先がまた髪を撫でてくれるんじゃないか。
そんな期待を、ほんの少しだけ抱きながら。
ありがとうございました!