一-1
「お疲れ様です。お先に失礼します」
繋はオフィスに向かって挨拶した。こちらを見て会釈する者や聞こえていないかのように黙々とキーボードを叩き続ける者、様々な反応を見せる繋の同僚たちは皆一様に疲れた顔をしている。
この会社に新卒で入社してから二年、仕事には慣れてきたが自分よりに残業している先輩たちを残して帰る時の申し訳なさには、未だに慣れない。
同僚たちは優しい人ばかりだし、職場全体の雰囲気も比較的和やかなので先に帰ったとしても嫌味を言われるわけではないけれど、それが分かっていても申し訳なさというのは勝手に感じてしまうものだ。
職場を後にし、駅へと向かう。繋の住んでいるアパートは職場から電車と徒歩で三十分ほどの場所にある。職場近くは家賃が高く社会人一年目の自分にとっては手の届かない物件ばかりだったため少し離れたところに住むことにした。
しかし、今になってもう少しいいところに住めばよかったと後悔している。
繋の住んでいるアパートは学生が住むような安いアパートだ。壁が薄く木造で音も響く。繋は、そこまでお金を使うタイプではないので社会人二年目に入り段々と貯金が貯まってきた。
社会人になりたての頃は一体自分はどれくらいお金を貰えてそこから税金等々がどれくらい引かれて生活費はどれくらいかかるのか、具体的なイメージを持てていなかったので怖気づいて安いアパートを借りてしまった。
来年までにはもう少しいいところへ引っ越そう。
最近の通勤時間にはそのことばかりを考えている。
二十分程電車に揺られ、自宅の最寄り駅へと降り立ち、スーパーで安めの肉と野菜を購入する。
一人暮らし二年目になると段々高い食品、安い食品の判断ができるようになってくる。
百グラムあたり百八十円を超える肉は高いので買わない。葉物野菜が九十八円の時はまとめて購入する。こういった知識が身についてからは月々の食費を抑えることができている。
必要な買い物を終え、エコバック片手に街灯が照らす道を歩く。この時間のこの道はほとんど人通りが無い。人と会うとすれば自分と同じような会社帰りの人か、カラフルなライトを身に付けた犬を散歩させている人くらいだ。カラフルなライトを付けた犬は小さく静かなパレードを見てる気分になり癒される。できれば毎日会いたいと思っている。
残念ながら今日は会えないままアパートに着きそうだ。
繋の住んでいる部屋はアパートの共用部分を進んだ先にある角部屋だ。
繋は自分の部屋番号が書いてあるポストを確認し、部屋へと向かう。
繋が自分の進む方向を見ると、視界の隅に何か大きな物体が映った。一瞬、置き配で届けられた荷物だろうかと思ったけれど、何かを頼んだ覚えはない。しかも、置き配にしてはあまりに大きすぎる。
その物体に焦点を合わせると、それが何かはっきりした。
人だ。人が倒れている。
「ひっ」
繋は思わず情けない声を出す。一歩後ずさりをし、手に持っていたエコバックを落としそうになる。
混乱しそうな自分を何とか押さえつけ、今一度どういう状況なのかを整理する。
自分の部屋と隣の部屋の中間くらいの位置に人が倒れている。暗くてはっきりとは分からないけれど、髪が長いので恐らく女性だろう。動いたり声を上げる様子はない。もしかしたら死んでいるのかもしれない。
一瞬、救急車を呼ぼうとも考えたが、もしかしたら同じアパートに住む住人が酔っぱらって寝ているだけかもしれないと思い、女性の状態を近くで確認することにした。
「あのー大丈夫ですか?」
繋は恐る恐る、一歩ずつ、倒れている女性に近づく。声をかけても反応は無い。死んでいるか、眠っているか分からないけれど意識は無いようだ。
繋は勇気を出して近づき、スマホのライトをつけてうつ伏せで倒れている顔を覗き込んだ。
倒れている人はやはり女性だった。長髪で整った顔をしている。歳は繋より少し上だろうか。服装はデニムのズボンに長袖のTシャツというかなりラフな格好だった。
「大丈夫ですか?」
再度声をかけるが、やはり反応は無い。少し様子を見ると、女性の息が荒く、苦しそうな表情をしていることに気づいた。酔っぱらって寝ているような様子ではない。
繋は、これは救急車を呼んだ方が良いと判断し、手に持ったスマホを操作する。
「ガハッ、ゴハッ」
その時、女性が突然大きく不健康そうな咳をした。
繋はそれに驚きスマホを落としてしまう。
「だ、大丈夫ですか!?」
驚きつつも安否を確認すると、女性は苦悶の表情を浮かべながら首を捩じり、顔をこちらに向けた。
「……誰?」
「このアパートに住んでる者ですけど、とりあえず救急車呼びますね」
意識を取り戻した女性は、先程よりも息が荒くなっている。
繋は落としたスマホを拾い、電話番号を入力する画面を呼び出す。
「オっガハっ」
『11』と入力したところで嘔吐のような音が聞こえ、思わず顔をあげる。
すると、目の前の女性が何か液体を吐き出していた。胃の内容物でも胃液でもない。女性が吐き出したものは赤黒く、みるみるうちに床に広がっていく。
血だ。女性は吐血していた。
「っ大丈夫ですか!?」
繋は驚きつつも女性の背中をさする。
人が嘔吐した際は背中をさすると良いという知識はあるけれど、吐血の場合も同じ対応でいいのかは分からない。分からないが、動揺している繋は思わずそうしてしまった。
その時、初めて気づいた。女性の身体が異様に冷たい。動物特有の温もりがあまり感じられず、現在進行形で冷えていっているように感じる。
よく見ると女性の手足が震えている。明らかに意図していない、身体が勝手に動いてしまっているような震えだ。
苦悶の表情を浮かべている女性の顔からはどんどんと血の気が引き、生気が失われているような気がする。
吐血、手足の震え、失われていく体温と生気、医学的知識が全くない繋にも、直感で分かる。この女性はもうすぐ死んでしまう。
「大丈夫ですか! しっかりしてください!」
繋は大声で呼びかける。女性の目は虚空を見つめ、その目からはどんどん光が無くなっていく。
この女性には急速に死期が近づいている。恐らく今救急車を呼んでも到底間に合わないだろう。
繋は必死で女性を救う方法を考えるが、医者でも医療従事者でもない繋にはどうすることもできない。
ただ通りがかっただけとはいえ、目の前にいる人が死にそうになっているという状況になると何とかこの人を救わなければならないという使命感に駆られる。
繋は必死で考え、ある一つの考えを思いつく。
「……お姉さん、能力者ですか?」
少し間を置いて、女性は小さく頷いた。
この世界の半分以上の人間は魔法が使える能力者だ。魔法と言っても皆が皆、空を飛んだり炎を操ったりできるわけではない。能力者が使える魔法はそれぞれ生まれた時点で決まっており、そのほとんどが日常生活では使う機会がないものだ。
現代社会で最も重宝されているのは、身体能力を底上げする強化魔法、次いで空を飛べる飛行魔法だ。他にも刀剣魔法や銃魔法といったものがあるが、多くの場面で能力者と非能力者の日常生活は変わらない。
繋も能力者であり、その魔法は『隷属魔法』というものらしい。
親に使用を禁止され、今までの人生で一度も使ったことはない。自分が隷属魔法という魔法を使えるというのは文書の上で見たことしかない。
この隷属魔法、人を操ることができる。
「俺の魔法で、あなたを救える、かもしれません」




