2話「ポエム」
――何時間、走ったのだろう。
寒さのせいか、汗はそれほどかいていない。けれど、意識が遠のいていく。気を失いそうだ。こんな感覚は初めてだった。
(俺、このまま死ぬのかな。怖い。死にたくない。)
葵は地面に崩れ落ちるように座り込み、荒れた呼吸を整えようとした。だが、足が痙攣しているのか、立ち上がることができない。肺に酸素を送り込むだけで、精一杯だった。
数分が過ぎる。
曇っていた空が、ふと晴れた。雲が流れ、夕暮れの光が差し込む。
その光が葵の身体を照らし、冷え切った体温が、少しずつ戻っていく。
温もりに気づいた葵は、わずかに安堵した。
だが、その安堵も束の間だった。
背後から、草を踏む音が近づいてくる。
ガサ、ガサ――。
何かが、こちらへ向かっている。
恐怖と不安が、再び葵の胸を締めつけた。
足は動かない。酸素は足りない。逃げることも、叫ぶこともできない。
音の主は、葵の斜め後ろに腰を下ろした。
沈黙が流れる。
人間なのか、動物なのか。わからない。
ただ、気配だけがそこにある。
やがて、その存在が口を開いた。
「風が、気持ちいいですね」
柔らかな声だった。
それは、知性のある者の言葉。
そして、久しぶりに耳にした日本語だった。
涙がこぼれそうになる。
声の高さからして、少女だろうか。
「この風と一緒に行けたなら、心も体も軽くなるでしょうに」
少女は、詩のように言葉を紡ぐ。
その響きは美しいが、葵の意識はまだ朧で、余裕などなかった。
(急にどうしたんだ、この人……せっかく人に会えたと思ったのに、なんかロマンチックなこと言い始めたぞ。こっちは意識保つだけでも辛いのに)
数秒の沈黙が流れる。
まるで、その少女は葵の返答を待っているかのようだった。
(おい、この人絶対俺のセリフ待ちじゃん。俺、今呼吸するので精一杯なんですけど。えー。でもここは合わせてあげないと可哀想だよな)
葵は、かすかな声を振り絞った。
「……だが、風はそれを拒むようだ」
言い終えた瞬間、胸の奥に小さな達成感が灯る。
(それっぽいこと言えたわ。少女の反応は――?)
首だけを動かし、斜め後ろを振り返る。
そこには、黒髪の可憐な少女が、満足げに座っていた。
年齢は、葵と同じくらいだろう。
(満足してそう。なんか嬉しいなこれ。もう少し続けてみるか)
「だが、何かに頼って進むよりも、自分の足で進んだ方が跡が残るだろう?それは、自分が頑張った証だ」
言いながら、顔が熱くなる。
(恥ずかしいなこれ。けど、暇なときに考えてたポエムが役に立った)
彼女は肩を震わせていた。
笑いを堪えている。
今にも噴き出しそうだった。
そして、そのまま葵の言葉につづけるように口を開く、。
「私の名前は、ソベスト・グリット。年齢は十五歳dっ――」
言い終える前に、少女は大笑いした。
その笑い方は、どこか無邪気で、可愛らしかった。
葵も、つられて笑う。
それは、面白かったからだけではない。
人に会えたことが、ただ嬉しかったのだ。
「俺の名前は、小山内葵。俺も同い年の十五歳だよ。さっきのは、なんだっ――」
言いかけた瞬間、葵は身体の力が抜けた。
視界が、暗く沈んでいく。
酸素はが、足りていなかった。
不安と安堵に気を取られていたが、身体は限界を迎えていた。
意識が、遠のいていく。
「葵さん! 葵さん! どうしたんですか!」
(普通に話せるんかい)
葵はそう思い、完全に意識を失った。