王は守り、女王は選ぶ
朝の聖域は、夜とは違う静けさを纏っていた。
澄んだ光が庭園を満たし、水面には精霊たちの気配が淡く揺れている。
私は、いつもより少し早く目を覚ましていた。
昨夜の出来事が、頭から離れなかったからだ。
使者は入れなかった。
聖域は守られた。
それでも、言葉にしづらい感覚が胸に残る。
(……本当に、これで終わるのかしら)
理由は分からない。
ただ、完全に終わったと安心するには、何かが足りない気がしていた。
庭園に出ると、すでにクレイがそこにいた。
夜と同じ場所。
だが、立ち姿はどこか違って見える。
「おはよう、ソフィア」
「……おはよう、クレイ」
挨拶を交わしたあと、短い沈黙が落ちる。
昨夜のことを、どちらから切り出すべきか。
私が迷っていると、クレイの方が先に口を開いた。
「昨日の件だが……」
それだけで、背筋が自然と伸びた。
「使者を退けたことで、当面の危険は消えた」
淡々とした声音。
安心させるための言葉ではない。
「だが、“問題が終わった”わけではない」
私は、はっきりと頷いた。
「……私も、そう感じていたわ」
根拠はない。
けれど、昨夜の違和感と、今の言葉が繋がった。
クレイは、庭園の中央にある噴水へ視線を向ける。
水が、一定のリズムで流れ落ちている。
「人間は、拒絶されると二通りの解釈をする」
「一つは、諦めること。もう一つは……」
「……足りなかった、と思うこと?」
私がそう言うと、クレイは一瞬だけこちらを見る。
「その通りだ」
否定も補足もない。
正解を告げるだけの声音。
「頭を下げるべきだったのか。もっと価値のある物を持ってくるべきだったのか。正しい手順を踏めば、次は届くのではないか……そう考える」
淡々とした声だった。
まるで、何度も見てきた光景をなぞるように。
「だがな、ソフィア」
そこで、初めてこちらを見る。
「人間に“何を差し出せば届くか”を考えさせるのは、愚策だ」
言い切りだった。
「条件を考えさせる時点で、主導権は相手に渡る。相手の土俵で、相手の理屈に付き合うことになる」
胸の奥が、ひやりとした。
「なら、どうするの?」
私がそう問うと、クレイは即答した。
「逆だ。条件を提示する側に立てばいい」
短く、明確に。
「“払わせる代価”を、こちらが先に用意する。そうすれば、人間は必ずそこへ集まる」
一拍置いて、結論だけを落とす。
「宝石と、水だ」
思わず、息を呑んだ。
「……宝石と、水?」
「富と寿命。人間が最も理性を失いやすい二つだ」
誇張も、感情もない。
ただ事実として語られる
「“地の精霊”にこの聖域にある宝石を掘り当てさせ、お前の力で純度と輝きを最大限に高めさせる。普通の宝石の何千倍も価値が高い品物となるだろう。持っているだけで富を証明できるものだ」
次に、流れる水を見下ろしながら続ける。
「水もそうだ。“水の精霊”に聖域の湖水を不老長寿の霊薬に変換させる。この二つを人間界に法外な値段で売り付ける。貴族達は国よりもそちらを優先するだろう。そうなれば、王国もただではすまない」
そこで、初めて私は気づいた。
これは人間が自ら近づき、自ら首輪を選ぶための仕組みだ。
クレイがかつて掲げていた、争わずして、支配する戦争だった。
「私たちは、外へ出ない」
クレイの声が、静かに落ちる。
「だが、世界の方がこちらを向く」
私は、しばらく黙っていた。
怖さがないわけではない。
けれど――逃げ道のない話でもなかった。
「……それを、私に話してくれた理由は?」
クレイは、すぐには答えなかった。
一拍置いてから、淡々と言う。
「ゴーバン王国は因縁の相手だろう。お前に全ての指揮を任せ、俺は従う」
胸の奥が、静かに熱を持つ。
「俺は守る。だが、誰に与え、誰を拒むかを決めるのは……お前だ」
責任を渡す言葉だった。
同時に、信頼を示す言葉でもある。
私は、ゆっくりと頷いた。
「……分かりました」
覚悟を、胸の奥で固める。
「その策。私の名で進めましょう」
クレイの目が、わずかに細くなる。
「良い」
短い一言。
だがそこには、王が女王を正式に認めた重みがあった。
※※※
聖域で進められていた事業は、驚くほどの速度で形になっていた。
ソフィアの増幅魔法と、精霊たちの技術。
その組み合わせは、人間の常識を完全に置き去りにする。
水の精霊は、聖域の湖水を浄化し、そこにソフィアの魔力を通した。
一滴で体の活力が数年分若返る――そう噂される霊薬が、静かに完成する。
地の精霊は、地脈の奥から最高純度の輝石を掘り出し、ソフィアの望む「世界で最も美しい輝き」へと変質させた。
王国の宝飾品とは、次元が違う。
同じ“宝石”という言葉で呼ぶのが失礼なほどだった。
「……完成ね」
ソフィアは、手のひらに乗せた宝石を静かに見つめていた。
涙の雫のように澄んだ透明感。
わずかな光を受けただけで、見る者の視線を否応なく絡め取る輝き。
それだけで、価値の説明が不要な宝石だった。
この輝きが世に出れば、欲するのは一部の富裕層に留まらない。
世界中の貴族が、競い合うように手を伸ばすだろう。
税も、忠誠も、国の事情も後回しにしてでも、だ。
そうなれば、最初に歪むのは市場ではない。
王国の財政だ。
本来、王族の管理下にあるべき富が、貴族たちの私財として流れ出す。
納税は滞り、徴収は遅れ、国庫は目に見えて痩せ細っていく。
それでも貴族たちは止まらない。
なぜなら、この宝石を持つこと自体が、力と格の証になるからだ。
やがて、誰もが気づくことになる。
なぜ、この輝きは王国では生まれないのか。
なぜ、かつて“忌み子”と呼ばれた名が刻まれているのか。
この宝石は、《ソフィアの涙》と名付けた。
それは報復ではない。
ただ、選択の結果を、富という形で突きつける存在だった。
だから、私はこの宝石に自分の名を与えた。
忘れさせないために。
誰が、何を失ったのかを。
※※※
流通は、慎重に行われた。
表の市場ではなく、
富と権力が集中する“裏”だけを選ぶ。
レオンハルトとシエルが、その役を担った。
「三日で、これだけです」
レオンハルトが示したのは、新設された地下蔵だった。
金貨。
銀貨。
希少な美術品。
天井まで埋まるそれは、すでに王国一つを買える規模を超えている。
「特に王族と大貴族の反応が顕著です」
シエルが淡々と報告する。
「寿命と地位。どちらも失いたくない層ほど、理性を失います」
ソフィアは、静かに頷いた。
「流通量を半分に」
即断だった。
「希少性を上げるわ。それから……霊薬は、公爵家と王族には絶対に渡さないで」
レオンハルトとシエルは、迷いなく頭を下げる。
彼らにとって、それは命令ではない。
正義そのものだった。
※※※
予想通り、王都は歪み始めた。
戦争に勝ったはずの国で、なぜか金だけが消えていく。
「王太子殿下……歳入が、先月の半分以下です」
財務官が、崩れ落ちる。
「大貴族たちが資産を国外へ。あるいは、“裏の流通”へと移しています」
「なぜだ!」
アルフォンスの声が荒れた。
「我が国は勝ったはずだろう!」
「……霊薬と宝石です」
震える声。
「不老長寿の霊薬。奇跡の宝石。その噂が広がった瞬間から、納税が止まりました」
「ソフィアの涙……」
アルフォンスは、理解してしまった。
恐怖と欲望が、同時に喉を締め付ける。
「……やはり、あの忌み子か。我々の邪魔をしているのは」
隣にいた公爵夫人は、青ざめた顔で呟く。
「その霊薬が……手に入らない、ですって……?」
「このままでは……国そのものが持たない」
机に置いた手が、かすかに震えていた。
「財は流れ、徴税は滞る。国庫は空になり、兵は養えない。この状況で、次の侵攻を受ければ終わりだ」
誰に向けた言葉でもない。
自分自身に言い聞かせるような独白だった。
老い。
病。
死。
かつては、遠い未来の話だったはずのものが、
今は目の前に、具体的な選択肢として並んでいる。
延命か、衰退か。
生き残るか、滅びるか。
その現実を理解した瞬間、
アルフォンスの理性は、音を立てて崩れ落ちた。
「……もう一度だ」
低く、掠れた声。
「使者を、もう一度送る。今度は公爵夫人、お前だ」
公爵夫人は凍りつく。
「お前が原因でソフィアは追放されたのだ。まずは謝罪と王国の全てを差し出すと伝えろ! 私の女王として迎えると言え!」
そして、言い切った。
「霊薬を、必ず持ち帰れ」
それが、決定的な悪手だった。
※※※
聖域。
玉座で、ソフィアはクレイの膝に座っていた。
監視の湖に映るのは、王都の混乱。
「……女王として迎える、だそうだ」
クレイが鼻で笑う。
「相変わらず、奪えば元に戻ると思っている」
ソフィアは、静かに首を振った。
「もう、戻る場所じゃありません」
その言葉に、迷いはない。
「私の世界は、ここです。あなたと、この聖域だけで十分」
クレイの瞳が、わずかに細まる。
「良い」
それだけで、すべてを肯定した。
「次は、公爵夫人だな」
淡々とした声音。
「お前の過去を引きずってきた影を、臣下たちに、踏み潰させてやる」
ソフィアは、静かに頷いた。
王国の破滅は、もう始まっている。
本人たちだけが、
それに気づいていないだけだった。
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