未来の息吹の前兆
精霊界《永遠の湖》で誓いを交わして以来、精霊王クレイ・オーガの私への執着は、もはや愛という言葉だけでは表しきれないものになっていた。
それは支配ではない。
束縛でもない。
世界そのものを盾にする、守護だった。
※※※
その日、私はクレイに抱かれたまま、
ソフィア連邦の大図書館で魔導書の整理をしていた。
「……今、ほんの一瞬だ」
クレイが低く呟く。
「お前の鼓動が、わずかに速くなった」
私は思わず苦笑する。
「気のせいよ。少し立ち上がっただけ」
だが、クレイは納得しない。
「いや。呼吸の間隔も、ほんの僅かに違う」
私を抱く腕に、自然と力が籠もる。
「床を大地の精霊で調整するか? それとも、私の魔力を巡らせて――」
「クレイ」
私は彼の胸に手を置いた。
「私は元気よ。本当に」
彼は、しばし沈黙した後、ようやく息を吐く。
「……分かっている。だが、念には念をだ」
その過保護ぶりは、もはや連邦では日常だった。
私の体調の変化は、私自身よりも先に、クレイが察知する。
それは、私の《創造魔法》と、
彼の精霊王としての力が完全に重なった証だった。
「私の女王の体は、この世界で最も尊い」
クレイは静かに言う。
「“未来”すら含めて、だ」
その言葉の意味を、私は深く追及しなかった。
けれど、胸の奥で、確かな予感だけが芽生えていた。
※※※
クレイの配慮は、政務の場にも及ぶ。
「シエル」
彼は書類を持つ側近を一瞥した。
「紙をそのまま渡すな。女王の指に、無駄な負担をかけるな」
「御意」
シエルは即座に応じる。
「今後は全書類に魔力加工を施し、女王様の手に直接触れぬ形で確認いただきます」
レオンハルトも、自然と距離を取っていた。
報告は常に、十歩以上離れた位置から。
視線も、必要以上に向けない。
それが連邦の暗黙の了解だった。
女王の安寧は、精霊王の独占的な庇護によって守られている。
それは、連邦の安定そのものだった。
※※※
その頃、連邦の街は、さらに進化していた。
「……雨の日、少し滑りやすいわね」
私が何気なく漏らした一言で、
次の瞬間、街路は《自動乾燥機能付きのクリスタル石畳》へと変わる。
空気を覆う浄化結界が、
塵一つ残さず街を清めていく。
人々は歓声を上げ、女王への感謝を精霊へ捧げた。
そして、その光景と対照的なのが、旧王国だった。
※※※
王宮跡地。
かつて王都の中心だったその場所に、静かな建屋が設えられていた。
レオンハルトが視察したのは、その一室だった。
机に向かい、黙々と羽ペンを走らせる男。
それが、かつての王太子アルフォンスだった。
書かされているのは、
ソフィア連邦の発展記録。
新たな街が生まれた日。
飢えが消えた地域。
精霊力の道によって救われた命の数。
一行書くたびに、
彼が捨てた未来が、正確な数字となって積み上がっていく。
その目に、怒りはない。
悔恨も、憎悪もない。
ただ――空っぽだった。
公爵夫人も、同じ建屋にいた。
彼女に与えられた仕事は、霊薬の分配記録の写本。
誰が救われ、誰が若さを取り戻し、誰が笑顔を得たか。
美に執着した女は、
自分が二度と手にできない“恩恵”を、
延々と書き写し続けていた。
「……霊薬……」
掠れた声は、紙の上で途切れる。
それに答える者は、いない。
ここでは、後悔も祈りも、
業務の邪魔にしかならなかった。
レオンハルトは、それを一瞥するだけだった。
「女王様を追放した結果が、これだ」
彼らは、もう罰ですらない。
ただの過去だった。
※※※
夜。
私は、連邦最高位の居室で、
クレイに抱き寄せられていた。
透明な天井の向こうに、
精霊界の星が瞬いている。
「ソフィア」
彼は、私の髪を撫でながら言う。
「もし、お前の中に、新しい命の兆しがあるなら」
一瞬、言葉を選ぶ。
「私は、この世界の全てを使って守る」
その声には、焦りではなく、覚悟があった。
「お前が安らげるように。何一つ、不安を残さぬように」
私は、彼の胸に額を預ける。
「……ありがとう、クレイ」
それだけで十分だった。
この人は、
私を閉じ込めるために抱いているのではない。
失わせないために、抱いている。
精霊王の腕の中で、
私は確信していた。
私の未来は、この溺愛と共に、静かに、しかし確実に続いていくのだと。




