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私は完璧な二人を壊したかっただけなのに、気づいたら鳥籠の中で歪に愛でられていました

作者: 蜂丸

 私の名前はセシリア・ヴァルシュタイン。この国の由緒ある公爵家の血を引く娘。

 けれど、世間が私に注目するのは、そんな家柄故ではない。私が、あの完璧なる公爵令嬢、リヴィア・ヴァルシュタインの従姉妹だからだ。


 リヴィア姉さま──彼女は、私のすぐ近くにいながら、最も遠い存在だった。

 氷の彫像のように冷たく整った容貌、いかなる時も乱れぬ所作、淀みなく紡がれる理知的な言葉。誰もが羨む美貌と知性を兼ね備え、次期王妃として、まさに完璧という言葉を体現したような人。人々は彼女を称賛し、理想の淑女と崇める。

 けれど、私にはその完璧さが、息苦しくてならなかった。まるで精巧に作られた人形のようで、その下に隠されたはずの、生身の感情というものが見えない。それが恐ろしくて、苛立たしくて、そして──どうしようもなく、その仮面を剥ぎ取ってみたいという衝動に駆られた。


 そして、姉さまの隣には常に、彼女と対をなすもう一つの完璧な存在がいた。

 王太子、アレクシス・グランディール殿下。

 姉さまの婚約者にして、この国の未来を担う、若き指導者。彼もまた、姉さま同様に文武に優れ、冷静沈着。感情の起伏など微塵も感じさせない、鋼のような理性を持つ人。

 二人が並び立つ姿は、あまりにも美しく、完成されすぎていて、まるで人間ではない別の生き物のようにすら見えた。互いを映す鏡のように、ただ静かに、完璧に、そこに存在する。


 私は、そんな二人が作り出す、冷たく静謐な世界が嫌いだった。


 私の人生は、あの完璧な二人──リヴィア姉さまとアレクシス殿下──への反抗で彩られていた。


 氷のように冷たく、完璧すぎるほどに狂いのない二人。まるで周りの大人の期待を映すためだけに存在する鏡のようだった。その感情の見えない完璧さが、私にはいつも恐ろしく、そしてひどく不気味だった。大人たちの中で、彼ら以上に完璧な『大人』として存在する二人の姿は、どうしようもなく異様で、見ていられなかった。だから、壊したかったのだ。めちゃくちゃにして、人間らしい、生きた顔をさせたかった。


「姉さまのお茶に、下剤をたっぷり入れてやったわ。これで少しは苦しめばいい!」

「殿下の鞍に細工してやった。落馬して、無様な姿を晒せばいい!」


 私の計画はいつも完璧なはずだった。なのに、なぜかいつもうまくいかない。姉さまは「あら、今日のお茶は少し匂いが違うわね。このお茶の盛りを過ぎてしまったのかしら」と頬に手をあて困った様に笑えば、すぐさまお茶は取り替えられ、殿下は「今日は馬の機嫌が悪いようだ」と馬を乗り換えるだけ。まるで、私の浅はかな悪意なんて、最初からお見通しみたいに。


「どおして、うまくいかないのよ!」


 陰でこっそり眺めては、自分の仕掛けた罠の失敗に地団駄を踏む毎日。


 そして、二人は、私の「挑戦」をどこか楽しんでいるようだった。私が何か仕掛けるたびに、完璧な笑顔はそのままに、その瞳だけが一瞬、物陰の私を捉えるのだ。それがたまらなく腹立たしくて、そして──少しだけ、嬉しかった。もっとすごいことをして、今度こそあの仮面を剥がしてやる。そう意気込んでいた。


 そんなある日、事件は起きた。

 父が、私の縁談を持ってきたのだ。相手は、遠方の恰幅の良い伯爵だという。


「セシリア、お前ももう適齢期だ。良い話ではないか」


 父の言葉に、私はただ唖然とした。この城から、リヴィア姉さまとアレクシス殿下のいる場所から、離れる? そんなこと、考えたこともなかった。


 ...私はやつれた顔で、定例のお茶会に向かった。そこには、いつも通り完璧な姿のリヴィア姉さまとアレクシス殿下がいた。紅茶の香り、焼き菓子の甘い匂い。いつもと同じ光景なのに、今日だけはすべてが色褪せて見えた。


(考えてみれば妙なものね。あれだけ敵意をぶつけている相手と、こうして当たり前のように顔を合わせてお茶を飲むのが習慣になっているなんて。)


 促されるまま席に着く。いつも私のために用意されている三人目の席だ。すぐに侍女がお茶を注いでくれるが、私はカップに手を伸ばそうともせず、俯いていた。

 その不自然な様子に、リヴィア姉さまとアレクシス殿下はすぐに気づいたようだった。二人の間に、無言の視線が交わされたような気配がした。そして、空気がほんの少し、冷えた。


「……聞いてくださいまし」


 私は思い切って切り出した。


「私に縁談ですって。 あんな、あんな辺境の伯爵のところへ行けってお父様はいうのよ! ……まあ、お二人にとっては、目障りな私がいなくなるんだから、願ったり叶ったりでしょうけどね!」


 そう言って、わざと挑戦的に二人を見返した。

 きっと今頃、あの完璧な微笑みの裏で、腹の中では私の不幸を笑っているに違いない。手のかかる面倒な従姉妹が視界から消えるのだ。せいぜい「それは……大変ね」と同情するふりをするのだろうが、その瞳の奥には隠しきれない喜びの色が滲むはずだ。きっと、そうよ。


 だが──。


 予想していた安堵の表情も、外面を取り繕った祝福の言葉も、なかった。

 ただ、一瞬。

 本当に、針が落ちる音すら聞こえそうなほどの、完全な沈黙が、その場を支配した。


 リヴィア姉さまの唇から、完璧な微笑みが──ほんの僅かに、消えた。いや、凍り付いたように見えたのは、気のせいだろうか。アレクシス殿下の、いつもは冷静な光を宿す瞳が、一瞬だけ、ぞっとするほど冷たい、硬質な色を帯びたように見えた。

 空気が、痛いほど張り詰める。


 二人の間に、何か言葉にならない意思が交わされたようだった。リヴィア姉さまの唇が微かに動き、アレクシス殿下がそれに頷くような気配があったが、それは囁きよりも小さく、私の耳には欠片も届かない。けれど、その無音のやり取りには、今まで感じたことのないような、濃密で危険な気配が満ちていた。まるで、極めて重要な、そして恐ろしい何かが決定されたかのような。


(……何? この反応……? 喜んでいるんじゃないの……? いつもと、違う……。どうして……?)


 私の予測は、完全に外れていた。安堵でも、外面だけの祝福でもない。もっと別の、理解できない、不気味な反応。背筋に冷たいものが走り、混乱が頭を支配する。なぜ彼らがそんな反応を示すのか、皆目見当もつかなかった。


 だが、それも本当に、瞬きする間のことだった。


 次の瞬間には、リヴィア姉さまは再び完璧な微笑みを(しかし、先程までの穏やかさとは違う、どこか硝子細工のような冷たさを伴って)顔に貼り付け、アレクシス殿下の瞳もまた、深淵のように底の知れない、いつもの冷静さを取り戻していた。まるで、先程の瞬間など存在しなかったかのように、完璧に。


「まあ、セシリア……」

 リヴィア姉さまが、ようやく口を開いた。その声は鈴を転がすように美しい。けれど、どこか温度がない。

「それは……ずいぶんと、急な話なのね。少し、驚いたわ」


「……そうだな」

 アレクシス殿下が静かに続けた。その声もまた、感情の欠片も感じさせない。

「グラハム伯爵か……。少し、我々も考える必要がありそうだ」


(……結局、これだけ!?)


 私の心を読んだかのような、完璧な反応。驚き、そして考える時間が必要だという、当たり障りのない言葉。あの瞬間的な凍りつきは何だったのか。私の揺さぶりは、私の存在そのものを賭けたはずの今回の揺さぶりですら、またしてもこの完璧な壁に、いとも容易く跳ね返された。彼らは、こんな時ですら、完璧なのだ。


 込み上げてきたのは、困惑よりも強い、燃えるような苛立ちと焦燥感だった。

 このまま、あの辺境の地に送られてたまるものか。


(こうなったら……! 嫁に行く前に、何としても、この手であの二人の仮面を剥ぎ取ってやる……!)


 腹の底から、新たな、そしてより強く、より危険な決意が、炎のように燃え上がるのを、私は感じていた。完璧な二人を前に、私はただ、唇を噛みしめるしかなかった。


 あの日以来、私は焦っていた。残された時間は少ない。もっと大胆に、もっと確実に、あの二人を揺さぶらなければ。


 手始めに、殿下の剣の稽古場に忍び込み、彼の使う予備の剣のつかに、滑りやすい油を塗っておいた。稽古中に剣を取り落とす失態でも演じれば、少しは格好がつかないだろう。

 ところが翌日、問題になったのは油ではなかった。その予備の剣を使った騎士が、稽古の直後に高熱を出して倒れたのだ。剣の柄から、遅効性の神経毒が検出された、と。油を塗ったのは私だが、毒など仕込むはずがない! 誰かが、私の行動を利用した?


 姉さまには、彼女が大切にしている古い装飾箱に細工をした。箱を開けると、驚かせるための煙(無害なものだ)が吹き出す仕掛けを施したのだ。少しおどかして、彼女の冷静さを乱したかった。

 だが、実際に姉さまが箱を開けた時、吹き出したのは煙ではなく、強い酸性の液体だったという。幸い姉さまは無事だったが、箱の中の手紙や貴重品は溶解し、危うく大怪我をするところだったと。私が用意した仕掛けは、もっと単純で、子供騙しのようなものだったのに!


 私の知らないところで、誰かが私の悪戯を、凶悪な犯罪へと仕立て上げている。その確信が、冷たい恐怖と共に私を包んだ。私が何かをするたびに、事態は私の意図を遥かに超えて悪化していく。まるで、見えざる手が、私の行動を導き、破滅へと誘っているかのようだった。

 そして、ついにその手が、私自身に伸びてきた。

「セシリア・ヴァルシュタイン嬢、公爵令嬢および王宮騎士への毒物使用、並びに器物損壊の容疑で、査問会への出頭を願います」

 王宮の役人が、冷たい声でそう告げた時、私はもはや、驚きよりも深い絶望を感じていた。


「ち、違う! 私じゃない……!」


 必死に否定する私を、リヴィア姉さまは悲しそうな瞳で見つめた。

「……セシリア、どうして……」

 アレクシス殿下は、失望したようにため息をついた。

「君を、信じていたのだが」


 そして、断罪の場が設けられた。

 次々と挙げられる「証拠」。私のささやかな悪意は、いつの間にか悪魔的な「殺人未遂計画」へと仕立て上げられていた。あまりの現実離れした展開に、言葉を失う。ただ、冷たい汗が背中を伝うのを感じていた。

(……ああ、そうか。もう、どうにもならないんだ)

 誰かが何かを問いかけていたが、もはや耳には入ってこない。声を発することも忘れ、ただ虚ろな目で正面を見つめる。 どんなに足掻いても、この蜘蛛の巣のような罠からは逃れられない。諦めが、すとんと胸の腑に落ちた。


 差し出された「動かぬ証拠」を前に、私は罪を認めるしかなかった。

 死罪は免れたものの、王家と公爵家への反逆とみなされ、私は城の離宮へ幽閉されることになった。


 判決が下された瞬間、私は確かに見たのだ。

 リヴィア姉さまとアレクシス殿下が、刹那、視線を交わし合った。そしてその唇の端に浮かんだのは──全てを凍らせるような、絶対零度の、微かな笑み。

(……なるほど。そういうこと。仕掛けたのは、ずっとあなたたちの方だったのね。私が邪魔で、憎くて、仕方なかったんだわ。)

 全ての辻褄が、最悪の形で合った気がした。

(……ふふ。滑稽だわ、私。あの鉄壁の仮面を壊せるなんて、本気で思っていたなんて。あなたたちは、こんな風に人を奈落に突き落としても、眉ひとつ動かさない。どこまでも完璧で、どこまでも冷たいまま……。それを、この私は、変えようとしていたなんて!)

 惨めさと、自分の行動のあまりの滑稽さに、唇が歪む。もはや、怒りも悲しみも通り越して、ただただ自分が哀れで、可笑しかった。


 まあ、いいわ。どうせ、こんな罪人にされた私のことなんて、世間の人々も、すぐに忘れていくのだろうから。






 離宮での「療養」という名の幽閉生活が始まって、どれくらいの季節が巡ったのだろうか。窓の外の庭園は、春には花が咲き乱れ、夏には緑が濃くなり、秋には紅葉が舞い、そして冬には雪が静かに全てを覆い隠した。私の時間は、まるでその雪の下で眠るように、止まったままだった。


 豪華すぎるほどの調度品に囲まれ、毎日飽きないようにと山海の珍味が運ばれ、退屈しないようにと最新の書物や刺繍道具が届けられる。物質的には、何一つ不自由はない。けれど、窓には目に見えない格子があり、扉には決して開かない錠がかかっている。ここは紛れもない、美しく飾り立てられた金色の鳥籠。


 そして、この鳥籠での生活には、どうしても解せない、巨大な疑問符(???)が常に付きまとっていた。

 それは、あの二人の存在だ。

 リヴィア姉さまと、アレクシス殿下。


(……どうして? どうしてこの二人は、いつも、こんなところにいるの?)


 王太子と、その婚約者にして公爵令嬢。本来なら、山のような公務と社交、未来の国を担うための準備で、分刻みのスケジュールに追われているはずだ。私だって、彼らがどれほど多忙な日々を送っていたか知っている。

 それなのに。

 彼らは驚くほど頻繁に──いや、誇張ではなく、ほとんど四六時中と言っていい頻度で、この離宮に顔を出した。時にはどちらか一人が、時には示し合わせたように二人揃って。まるで、この離宮が彼らの本来の居場所であるかのように。


「殿下、今日は隣国の大使との重要な会談があると伺っておりましたが……よろしいのですか?」

 ある日、痺れを切らして、庭で読書に耽るアレクシス殿下に尋ねてみた。彼は私を一瞥いちべつすると、こともなげに言った。

「ああ、それなら代理を立てた。今は、こうして君のそばで静かに過ごす時間の方が、私には価値がある」

「姉さまこそ、王妃陛下主催の慈善事業の会議は……?」

 また別の日、刺繍をする私の隣で微笑むリヴィア姉さまに問えば、彼女は悪戯っぽく片目を瞑った。

「あらあら、セシリア。そんな難しい顔をしないで。あなたの元気のない顔を見ているより気がかりなことなんて、今の私にあると思う?」


 彼らの言葉は、蜂蜜のように甘く、耳に心地よい。けれど、その裏にある非現実的な状況が、私の混乱を増幅させた。私の「療養」が、国家間の会談や王族の公務よりも優先される? そんな馬鹿げたことが許されるはずがない。私の頭の中は、常にクエスチョンマークでいっぱいだった。


 しかも、奇妙なのはそれだけではない。

 二人が揃って離宮にいる時、彼らの間にはしばしば、奇妙な牽制けんせいのような、ぴりぴりとした空気が流れるのだ。


 例えば、ある晴れた午後。私が温室で珍しい花を眺めていると、アレクシス殿下が隣に来て、花について解説してくれていた。穏やかで知的な時間だったはずなのに、そこにリヴィア姉さまが現れた。

「あら、殿下。ちょうど、側近の方が至急の報告で参られていますわ。こちらでお待ちですが……?」

 アレクシス殿下の眉が、僅かにぴくりと動く。

「……側近が? 私には何の連絡も受けていないが」

「まあ、伝達の行き違いかしら。でも、お待たせするのはよろしくありませんわ。セシリアのお話相手は、わたくしが代わりますから、どうぞ」

 姉さまは有無を言わせぬ完璧な笑顔で殿下を促し、半ば強引に彼を温室から連れ出した。そして、殿下の姿が見えなくなると、何事もなかったかのように私の隣に戻り、満足そうに微笑むのだ。

「さあ、セシリア。どのお花がお気に召した?」


 またある時は、その逆だ。

 私とリヴィア姉さまが二人で新しい楽譜を見ていたら、アレクシス殿下が部屋に入ってきた。

「リヴィア。先ほど、君の実家である公爵家から、緊急の使いが来ていたぞ。父親君が倒れたとか、そういう話ではなかったか? 私が代理で聞こうかとも思ったが、やはり君自身が行くべきだろう」

「まあ、お父様が!? いいえ、わたくし何も聞いておりませんけれど……」

「そうか? だが、確認は必要だろう。セシリアのことは私がここで見ているから、すぐに行ってきなさい」

 殿下はそう言って、有無を言わさぬ様子で姉さまを部屋から送り出す。


 まるで、幼い子供がおもちゃを取り合うように。

 お互いをどうにかして追い払って、私との二人きりの時間を作ろうと、躍起になっているかのようだ。


 なぜ?

 私は罪人として、ここにいるはずなのに。

 この過剰なまでの「お世話」と、二人から向けられる、まるで独占欲のような奇妙な執着は、一体何なのだろう……?


 ..疑問は雪のように降り積もり、私の心を白く覆っていくばかりで、答えは見つからない。

 私はただ、この美しく整えられた金色の鳥籠の中で、完璧な二人に見守られ──あるいは、監視され──ながら、理解不能な「三人だけの時間」を、過ごし続けるしかなかった。


 そんな、奇妙に穏やかで、底なしの疑問に満ちた日々が繰り返される、ある午後のことだった。


 応接室には、珍しく三人きりだった。私が窓辺でぼんやりと外を眺めていると、アレクシス殿下が近づいてきて、私の肩にそっとショールをかけてくれた。

「少し冷えるだろう。風邪を引かれては困る」

 その声は穏やかだったが、私の肩に触れる指先に、微かな所有欲がこもっているような気がした。


 その時、部屋の反対側で刺繍をしていたリヴィア姉さまが、ふわりと立ち上がった。

「あら、殿下。セシリアには、わたくしが用意した、もっと肌触りの良いカシミアのショールがございますわ。こちらの方がきっとお気に召すはずよ」

 そう言って、姉さまは私と殿下の間に割り込むようにして、別のショールを広げてみせる。その笑顔は完璧だが、目はアレクシス殿下を睨みつけていた。


 殿下は表情を変えずに、しかし低い声で応じた。

「いや、これで十分だろう。それに、リヴィア。君は先ほど、急ぎの返事を書かなければならないと言っていなかったか? 私がセシリアのそばにいよう」

「まあ、その返事ならもう侍女に託しましたわ。それよりも殿下こそ、近衛騎士団の報告が溜まっているのではなくて? セシリアはわたくしとお茶をいただく約束ですもの」

「約束? 私には聞いていないが」

「今、決めたのですわ」


 言葉は丁寧だが、その裏にある敵意は隠しようもなかった。完璧な微笑みは引き攣り、冷静な瞳には苛立ちの色が浮かんでいる。私を間に挟んで、二人の視線が火花を散らす。いつもなら、どちらかが巧妙に相手を退けるか、あるいは完璧な仮面でやり過ごすはずの場面。


 しかし、その日は違った。


「セシリアは私と共にいるのだ」

 アレクシス殿下の声には、明確な怒りが含まれていた。

「いいえ、殿下。セシリアはわたくしと過ごすのが一番嬉しいと思っていてよ」

 リヴィア姉さまの声もまた、氷のように冷たい拒絶を帯びていた。


 彼らはもはや、互いを牽制しあってはいなかった。私という『所有物』を前にして、剥き出しの独占欲と嫉妬心をぶつけ合っていたのだ。 完璧な仮面には、明らかに亀裂が走り、その下から、ドロリとした醜い感情が溢れ出している。


 私は、息をのんでその光景を見つめていた。

 氷の人形。感情のない存在。そう思っていた二人。

 けれど、今、私の目の前にいるのは?

 私を自分のものにしようと、互いを睨みつけ、苛立ち、焦り、所有欲に身を焦がす──紛れもない、二人の『人間』。


(……ああ………やっと……見つけた……)


 長い、長い間、私がずっと渇望していたもの。

 壊したかった、あの鉄壁の仮面。

 暴きたかった、その下に隠された、生身の顔。

 それは、想像していたよりもずっと醜く、歪んでいて、そして───。


 私の唇に、ゆっくりと、そして確かな満足の笑みが広がっていくのを、自分でもはっきりと感じていた。

 彼らがこれからどうなろうと、私がどうなろうと、もうどうでもよかった。


 私は、見たかったものを、ようやく、この目で見ることができたのだから。


 醜い感情をぶつけ合う二人を眺めながら、私は初めて、心の底から満たされたような気がした。まるで、長い旅路の終わりに、ようやく探し物を見つけたかのように。


 

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登場人物設定


セシリア・ヴァルシュタイン(19): 公爵令嬢リヴィアの従姉妹。リヴィアとアレクシスの完璧すぎる「仮面」を剥がそうと、本気で害意を込めた(しかしどこか間の抜けた)悪戯を繰り返す。無邪気で、自分がどれほど執着されているか知らない。


リヴィア・ヴァルシュタイン(18): 公爵令嬢。完璧な理性の持ち主。セシリアの未熟な攻撃を微笑ましく見守っていたが、その存在を手放す可能性に気づき、歪んだ独占欲を抱く。


アレクシス・グランディール(20): 第一王太子。リヴィア同様、完璧な理性と知性を持つ。セシリアの存在を「面白い玩具」のように捉えていたが、次第に手放せない執着へと変わる。

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