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第十六話

 その日の夜、悪魔は再び離宮の前にいた。

 昨夜と違ってアレクサンドラはベッドでぐっすり眠っているので、この場には悪魔しかいない。

 昨夜と違うことはもう一つあった。

 亡くなった警備兵を悼んで離宮の庭にはたくさんの花が手向けられていた。

 警備兵はたくさんの人に慕われる人間であったらしい。

 月明かりに照らされるその花を横目に、悪魔はゆっくりと離宮の正面扉へと向かう。

 悪魔が手をかざすだけで音もなく扉が開き、迷いのない足取りで悪魔は奥へ奥へと進んでいく。

 不自然なまでにしんと静まり返る離宮には、時折悪魔が羽を羽ばたかせる音だけが聞こえた。


「──ご機嫌よう」


 離宮の最奥、側妃アイリーンの寝室で悪魔はただ一言そう口にした。

 悪魔の視線の先では昨夜と同じくカーテンの隙間から伸びた月光が肖像画を照らしている。

 その月光は粒となり、蛍のようにゆらゆらと暗い部屋の中を漂うと、次第に人のかたちになった。


『……そなたか』


 銀色の髪が輝いて、まるで月の精霊のようなその女性は、悪魔を見てふわりと微笑む。


『此度はわらわのわがままの後始末を押し付けてしまって、そなたには面倒をかけたな』

「面倒だなんてとんでもない。それに、行動したのは彼女だ。俺じゃない」

『あぁ、そうであったな。アレクサンドラ・ジェッテ・ブランシェスと申したか。陛下の見込んだあの娘ならば、我が愛娘を悪いようにはせぬであろう』


 アイリーンは肖像画そのままの凛々しくさえ見える立ち姿でカーテンの隙間から外を見ると、視線を外に向けたまま言った。


『……わらわはこの地に長く留まり過ぎた。理に従ってそろそろ旅立つ頃合いなのであろうな』

「お望みであればこのまましばらく現世に留まることも可能ではあるけどさ」

『いや、陛下はリリアーヌを守るためにあの娘をお選びになった。陛下は為政者としても父親としても信頼のおけるお方。そのお方が前に進むと決めたのだ。わらわも……進まねば』


 言いながらアイリーンはふわりと結っていない髪を揺らめかせて寝室を出ると、離宮の中を正面扉に向かって歩き始める。足音は、しない。

 廊下を進み、時折立ち止まっては昔を懐かしむように調度品を眺める。


『この離宮は本当に美しい場所であった。いつまでもわらわの墓標にしておくには惜しい場所よ』


 そう言う彼女の視線の向こうには、在りし日の思い出が映し出されているに違いなかった。


『フローラにも悪いことをした。わらわと娘のためにあれほど尽くしてくれたというのに、わらわは何も返すことが出来なんだ。陛下にはダリエ家への援助をお願いしたが、その程度では到底返しきれぬほどの恩だ。ろくに礼も伝えられず、我ながらなんとも情けのないことよ』


 銀色に透き通る身体で応接間を一巡りし、飾られている花瓶の前では必ず足を止めてアイリーンは申し訳なさそうに眉尻を下げる。

 そんなアイリーンに悪魔はこともなげに言った。


「なら改めて伝えればいんじゃね?」

『それが出来れば……』

「いいから。ほら、お手をどうぞ」


 言葉を遮りエスコートのために悪魔が差し出した手を見つめ、アイリーンは困惑した表情を浮かべる。

 手を伸ばしかけては躊躇したように止める彼女をしばらく悪魔はなにも言わずに眺めていたが、あまりに踏ん切りがつかない様子に最終的には強引に手を掴んで歩き出した。


『そなた、何を考えている』

「秘密」


 二人はそのまま廊下を進み正面扉から外へ出る。

 月の光だけで充分に明るいそこは外界から閉ざされているかのように静かだった。

 久方ぶりに離宮の外に出るアイリーンは庭を照らす月光に眩しそうに目を細めている。


「ほら、言いたいことあるなら直接言えば?」


 悪魔が視線で示した先を見てアイリーンはハッと目を瞠って唇を震わせた。


『どうして……。フローラ、何故ここに……!』


 離宮の前に立っていたのは、アイリーンと同じく銀色に透ける女性だった。

 女性は申し訳なさそうに顔を俯けたが駆け寄ったアイリーンがその顔を上げさせる。

 二人の視線が交わった瞬間、フローラと呼ばれた女性の瞳にじわりと涙が浮かんだ。


『……アイリーン様、申し訳ありません……』

『何を謝ることがある。そなた、一体何があったのだ。このアイリーンに申してみよ』


 フローラは指先で自分の目元を拭うと、アイリーンからリリアーヌを託されながら己は馬車の事故で命を失い、リリアーヌを守るという約束を果たせなかったのだと告げた。


『それは実に気の毒なことであった。しかし不慮の事故であろう。そなたが責任を感じる必要はない。それよりもどうして先に行かなんだ』

『夫は先に行きました。けれど私はアイリーン様とのお約束を違えてしまった申し訳なさから行くことは出来ませんでした』

『わらわがそなたを引き留めてしまったのか』


 ショックを受けた様子のアイリーンに、フローラは違いますと首を振る。


『どうしてもアイリーン様に謝りたいとずっと思っていました。だからここに留まったんです』

『謝る……?』


 アイリーンがフローラの肩に手を置いて、話の先を視線で促す。

 フローラはその視線に一瞬だけ躊躇うように目を伏せ、そしておずおずと口を開いた。


『アイリーン様からリリアーヌ様を託された時、私が一生かけてお守りすると誓いました。お約束通り、大切にお世話してまいりました。けれど、けれど私は……。約束を違えて先に生を終えたばかりか、リリアーヌ様と過ごすうちに、あの子を実の娘のように思ってしまったのです。自分はリリアーヌ様をお預かりしているだけの仮初めの母だと理解していたはずなのに……! アイリーン様こそあの子と共に居たかったと理解していながら、私はなんと分不相応で罪深いことを考えてしまったのか……。申し訳ありません、アイリーン様』


 言いながらポロポロと目から銀色の涙を零すフローラに、アイリーンはどこか安堵した表情でゆるりと首を振る。


『よい。よいのだ、フローラ。謝ることは何もない。そなたがリリアーヌに愛情を注いでくれたことで、あの子は母の愛を知ることが出来ただろう。わらわでは叶わなかったことだ。わらわこそ、そなたに全てを押し付け辛い思いをさせてすまなんだ。さぁ、胸を張れフローラ。そなたもまたあの子の真の母親だ』

『アイリーン様……!』


 月明かりの下で強く抱き合う二人を見つめていた悪魔は、そろそろいいか?と控え目に声をかけた。


「あー、初代廃離宮の女主人と真の女主人のお二人さん」

『なんだ、その奇妙な呼び名は』

「あれ知らない? ここ二十年くらい有名だぜ?」


 アイリーンとフローラがまるで知らないというきょとんとした顔で首を傾げたので、悪魔はえっへんと胸を張って王宮七不思議について教えてやる。アレクサンドラから聞いた通りの内容だが当然そこは言わない。悪魔なので。

 話を聞き終えた二人は、何ともいえない顔つきでお互いに顔を見合わせ、そして揃って静かに佇む離宮を見上げた。


『まさかわらわがそのように呼ばれるとは……。離宮の中に閉じ籠もっておった故、何も気付かなんだ……』

『アイリーン様が儚くなられてしばらくは私がこちらにお花を供えに来ておりましたから、それもあったのでしょうか』


 離宮の中にのみ存在していたアイリーンと、離宮の中には入れなかったフローラは、互いを思いながらもずっと存在を認知する事が出来ずにいた。

 二人の言葉からそれを悟って悪魔はなるほどねと頷いた。


「あー、よくあるんだよな。魂の顕現場所が特定の場所に限定されるやつ。こっちの世界に干渉できる条件も土地の潜在魔力なんかでかなり変わるし。この王宮、魔力値高いからそれが変な風に影響しちまったんだな」


 管理大変そう、と悪魔は続けたが、アイリーンもフローラもよくわからないという顔で悪魔を見つめるばかりだった。

 古に剣と魔法の力によって創られたという伝説が残る国ではあるが、今や魔法の存在など御伽話に等しい。

 だが、自分達がこのように存在していることに何か関係しているのだろうなとなんとなくの見当をつけ、アイリーンは口を開いた。


『わらわ達の存在が、この地に何か悪しき影響を与えてしまったのだろうか?』


 恐る恐るといった声音に悪魔はからりと笑って否を返す。


「これは元々この土地の問題。影響があったのはこの地ではなくあんた方だな。特にフローラ・ダリエは死後もその姿が度々目撃されてる。本人の抱える怨みだとか、誰かの思念に縛られたりでもしない限り、普通は未練だけでこんなにはっきり顕現出来ないもんだ。ま、俺が懸念してたのは最近の案件だけど、そっちは問題なく行ったみたいだし、まぁ、二人ともあんまり気にしなくていんじゃね?」

『そう、ですか……。でも、私、そんなに見られていたなんて……。なんだか恥ずかしいです』


 ずっと泣いてばかりだったのに、とフローラが恥じるように目を伏せる。

 そんなフローラの肩を抱いてアイリーンは自分も似たようなものだとせめてもの慰めの言葉をかけた。

 そうしているとまるで姉妹のようだ。

 悪魔はふっと目を細めて改めて二人に問いかけた。


「それで二人とも、そろそろ行けそうか?」


 この地に残した未練を断ち切り、死者の国へと旅立つ決意が出来たか。

 そう問われ、アイリーンとフローラは互いに目を見合わせ、そして二人でしっかりと頷いた。


『あぁ』

『お供致します。アイリーン様』


 二人の出した答えに悪魔は頷き、スッと右手の掌を上にして前に突き出した。

 次の瞬間、そこには一本の萎れた百合の残骸が現れる。

 離宮の花瓶に残されていた枯れた百合だ。

 目を瞬かせるアイリーンとフローラの前で悪魔がその百合の茎を掴んで残骸にふうと息を吹き掛けると、手の中の百合はまるでたった今花開いたかのように瑞々しさを取り戻し、辺りにふわりと強い百合の香りが漂った。


「気高き妃の出立だ。それなりの旅支度ってもんが必要だろう」


 言いながら悪魔が百合の花を一振りすれば、たちまちアイリーンの纏う衣装が豪奢な旅装へと変わる。

 そして悪魔は流れるように百合の花をもう一振りした。


「妃の旅路に伴う侍女にも旅装がいるよな」


 そう言い終わる前にフローラは上位貴族の子女のような仕立ての良い旅装に身を包み、驚いた顔で悪魔へと視線を向けた。


『私が、侍女……?』


 呆然と呟くフローラの横でアイリーンが微笑む。


『フローラ、わらわの侍女になってくれるか。わらわ一人では満足に髪も結えぬ』

『アイリーン様……。えぇ、私などでよろしければ』


 旅装を纏ったアイリーンに、悪魔は手にした百合を渡してもう一度花にふっと息を吹きかける。

 すると今度は百合の花の中心にぽうと暖かな色の明かりが灯った。


「ソレが道を教えてくれる。今度は立ち止まらずに行け」

『あぁ。手間を掛けたな。感謝する』

『本当に、本当にありがとうございました』

「礼なんて……あ、そうだ! そんなことより、大回廊であの女に悪戯したのどっちだよ! 俺怒られそうになったじゃん!」


 昼の出来事を思い出して突然怒り出した悪魔の言葉に気まずそうに右手を挙げたのはフローラだった。


『も、申し訳ありません。あの娘が少しくらい反省してくれたらいいなと思って、つい……』


 身を縮めるフローラに悪魔はやれやれと溜め息を吐く。


「まったく、そういうのは生きてる人間に任せろよ。まぁ、死の国の女王も多少の悪戯なら大目に見て下さる。あーっと、そうだ。到着が遅れた事を咎められたら俺にお茶に誘われたとでも言っておけよな」

『そなた、本当に何者だ? 悪魔と名乗る割には……』


 問われた悪魔は満月の瞳を細めて答えた。


「俺は悪魔だよ。もしくは……アレクサンドラの犬かな!」


 出来る犬だぜと胸を張る悪魔に、アイリーンは堪えきれずに笑い出し、つられてフローラも控え目に笑顔を浮かべる。

 本人がそう言うのならきっとそれで良いのだろう。

 アイリーンは毛皮で縁取りされた外套の裾を払い、改めて悪魔に向き直った。


『何から何まで本当に世話になったな。どうか娘を……、そうか、こういうのは生者に任せねばならぬのか』

「そういうこと」

『死者も生者もままならぬな』

『アイリーン様、陛下がお選びになったブランシェス侯爵家のお嬢様ですもの。きっと大丈夫です』

『そうだな。わらわ達は死者の国にて見守るのみ』


 言いながらアイリーンは手の中の百合の花を頭上に翳し、もう片方の手でフローラの手を握った。


『行くぞ、フローラ。わらわから離れるでないぞ』

『はい、アイリーン様』


 言いながらアイリーンが軽く地面を蹴ると二人の身体が宙に浮かぶ。

 百合に灯った光に導かれ、銀色に透ける二人はすうと夜空に溶けて消えた。

 二人の死者の国への旅立ちは、ほんの少しの感傷を含みつつも、しんと静かでそしてどこまでも穏やかだった。


 そんな二人を見送った悪魔は、静まり返る夜空と離宮を無言で見つめ、くわりと大きな欠伸をした。

 長い夜は終わり、夜空の端に夜明けの光が一筋差し込むのを、主人を送った離宮だけが見ていた。

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