第十一話
アレクサンドラが通された部屋は、さすがに王宮の客室と比べるわけにはいかないが、想像していたよりもずっと明るくこざっぱりとした部屋だった。
冷たい石壁には何箇所か防寒対策であろう絵織物が飾られ、同じく石造りの床には古ぼけた年代物の絨毯が敷かれている。
部屋の造りを見て真冬でなくてよかったと心の底から安堵するアレクサンドラを残し、正午にお迎えにあがりますという言葉と共に、騎士たちはきっちり外から扉を施錠して去っていった。
「……これ、何が入っているのかしら」
一人になった瞬間、アレクサンドラは部屋に備え付けのテーブルに麻袋を置いて中身を改めはじめる。
中には水の入った瓶と丸パンが一つ。そしてチーズが一切れ入っていた。それ以外にはパンとチーズを包んでいた布くらいしか入っていない。
水の入った瓶を見て、どうりで重いわけだとアレクサンドラはテーブルの上に出したそれらを見て頷いた。
そういえば朝食をとっていない。
一人になってわずかに緊張が解けた瞬間、空腹を主張して腹が鳴った。
「まさか侯爵令嬢であるこの私が、パンとチーズと水だけの朝食をとることになるとはね……」
アレクサンドラが苦労してこの部屋まで運んだこの荷物は幽閉気分をより深く味わう『塔滞在セット』だったのだ。
王も芸が凝っているというか、逆に容赦がないというか、この麻袋の中身を見たら騎士の訓練を受けており野営の経験もあるテオバルトはともかく、根っからのお姫様であるフランチェスカは泣いてしまうのではないかとアレクサンドラは思った。
平民であれば立派な食事だが、アレクサンドラのような貴族令嬢からしたら、これはまだ食材の域だ。
フランチェスカあたりは瓶に入ったままの水を見てどのように飲めばよいのかと頭を悩ませるだろう。王族にとって飲み水とはグラスに入れられて目の前に差し出されるものであるからだ。
だがアレクサンドラ自身はハングリー精神の塊のような人間であったので、とりあえずパンとチーズを半分、水を少しだけ口にして(勿論瓶に直接口をつけたいわゆるラッパ飲みスタイルだ)、残りは麻袋にしまって王に言われた通り昼まで反省しようと部屋の窓際に置かれた椅子に腰を下ろした。
(静かだわ)
西の塔は独立した塔のみの建物で周りは開けている。
脱走も侵入も容易には出来ないうえ、外から監視がしやすい構造だ。
アレクサンドラ達がいるのが最上階だというのもあって、まるで外界から遮断されているかのように部屋の中は静まり返っていた。
ここ最近はずっと社交活動らしいものもしておらず一人で過ごしていたから静けさには慣れていたと思っていたのに、今ここでアレクサンドラが感じている静寂はいつも感じている静寂とは全く違うものに思えた。
「かつてここからこの景色を見た『誰か』がいたのかしら」
呟きながらぼうっと窓の外を見る。
眼下に広がる王宮の建物や中庭はこうして見ると箱庭のようだった。
さすがに王族の居住する東のエリアまでは見通せないが、離宮をはじめ西側ならよく見える。王宮に詳しい者ならだいたいの配置もわかるだろう。
そうして窓の外を見ていると昨日からのことが次々と思い出された。
短くとも非常に濃い時間だったような気がする。
(王宮七不思議の話をしたら王宮で事件が起きるだなんて。あぁ、少なくとも離宮の怪談の真相は例の二人の娘だったわね)
昔からある王宮を舞台にした七不思議。
廃離宮で発見された遺体。現場に落ちていた花弁。逢引の噂。花を管理する二つの家とその娘達。異国の意匠に溢れた離宮。その女主人である側妃。花瓶の中で朽ちた百合の花。
そういえばあの離宮に飾られていた肖像画を見た時、どこかで見たような気がした。自分は一体どこであの肖像画を見たのだろう。
離宮が閉じられた時期から考えると大回廊から外される前に目にしたというのは考えにくい。ならばどこで?
考えながら、知らず知らずのうちにアレクサンドラの目は自然とあの離宮の方へと向いていた。
(あぁ、よく見えること。建物があの向きなら正面扉があちらで、遺体が見つかったのが庭の近くだから……あの辺かしら)
アレクサンドラは事件の報告書もきっちり読んでいたので、遺体が発見された場所はあの辺だなと見当をつけ、そしてピタリと動きを止めた。
「……あの場所、あの位置……。そうよ。肖像画のあった部屋は……」
景色を眺めていたはずのアレクサンドラの眉がぴくりと動く。
そうだ。どうして気が付かなかったのか。
他の家具には全て布が掛けられていたというのに、一番日光や埃を避けなければならない肖像画には布が掛けられていなかった。
胸の奥が妙にザワザワする。
まるで出口が見えているのになかなか辿り着けない迷路のようなもどかしさだ。
──自分は何かを見落としているのではないか。
妙な胸騒ぎを感じ、アレクサンドラは努めてゆっくりかつ深く息を吸って、吐いた。
何度か深呼吸を繰り返し、椅子に腰を下ろしたままアレクサンドラは囁くようにその言葉を唇に乗せた。
「……悪魔、ここに来なさい」
瞬きのうちに、アレクサンドラの目の前には満月を思わせる金の瞳の青年が立っていた。
全身を黒い衣装で覆い、同じく黒い髪をしたその青年は、美しく蕩けるような色合いの目を細めて笑う。
「やぁっと俺を呼んだな。いいぜ、お姫様。今度は何を知りたいんだ?」
悪魔の背中でゆらりと宙を打つ羽。
蝙蝠にも似たその羽が動くのをちらと目で追い、アレクサンドラはブランシェス侯爵家の名に恥じぬ堂々とした威厳のある所作で悪魔に調べてほしいことをいくつか告げた。
「そのくらいお安い御用だ」
そう言い残し煙のように消えた悪魔を見送り、アレクサンドラはスッと目を閉じて頭の中を整理し始めた。
今回の件、よくよく思い返してみれば、見聞きしたものの中に明らかに不自然な点があった。
アレクサンドラは見落としたのではない。
全てを見ていたにもかかわらず、それらを適切に結びつけることができなかったのだ。
そこに気付けば違和感の中から拾い上げるべきものが見えてくる。
(離宮の側妃様の寝室に飾られた肖像画に布が掛かっていなかったのも、カーテンが少しだけ開けられていたのも、そして額縁のあの傾いた妙な角度も、きっと最初から意図的にそのようにされたものなのではないかしら。角度のことを考えると、おそらくは外からあの肖像画が見えるようにしていたのだわ。警備兵の遺体が発見された場所は離宮の正面扉から庭側に向かった位置だった。だとすれば亡くなった警備兵があの夜離宮を訪れたのは、最後にあの肖像画を見ようと思ったと考えれば辻褄は合う。そして彼は……偶然あの場所に呼び出されていたリリアーヌ・ダリエを見たのではないかしら)
そこまで考えて、アレクサンドラは確かめるようにその娘の名を口の中で呟いたのだった。