化粧
さち子はどちらかといえば内気で地味な少女だった。
学校でもほとんど目立つ事はなく、友達も少なかった。しかし、それはさち子の性格が悪い事を示すものではない。むしろ人一倍優しく、心根の素直な子であった。友達が少なかったのは、ひとえに話題の共通性が少なかったからである。裕福でなく、また昔気質の頑固な父親のいる家庭で育ったさち子は、流行も知らず、多くの友達の様に喫茶店やファミレスで甘いものを食べたり、小物屋で可愛いアクセサリーを集めたり、カラオケボックスで盛り上がったりする事を知らなかった。それでも女の子らしく、TVのコマーシャルや歌謡番組、コンビニに陳列してあるファッション誌などを見ては、自分が着飾った姿を想像したりはしたのである。
それは夢であった。
父親は若いころにはいっぱしの職人であったらしいが、さち子が物心ついたころにはすでに体を壊しており、職人をやめて、派遣会社を通して不定期に仕事をするのがせいいっぱいという状況だった。
一所懸命働きながらく両親を見、その苦しい生活を肌で感じるさち子には、とてもおしゃれをしたいなどとは言えない。両親は、文字どおり身を削ってさち子を高校に通わせていたのである。
学校を終えると急いで家に帰って洗濯や掃除、炊事といった家事をするさち子にとって、日々のおしゃれに気を使い、SNSでつながり、男の子のうわさ話に華を咲かせ、ショッピングを楽しむクラスの女の子たちは、別世界の人間であった。
やがて、高校を卒業したさち子は、職を求めて東京に出た。都心から離れた狛江市に、ワンルームのアパートを借り、そこでのOL生活が始ったのである。初任給の手取りは15万円程度だったが、それでも家賃を払い、実家に月3万円ほどの仕送りをするだけの生活は出来る。
しかし、上京したさち子にとって衝撃的だったのは、街を行く女の子たちのあでやかさである。それはさち子が生れ育った田舎町の比ではなかった。上京するまでは、テレビや雑誌の中だけのはずだった世界が、現実としてさち子の身の回りに存在したのである。会社でも同じだった。同僚たちの服装の美しさ、或いは可愛らしさ、まるで万華鏡を覗いているよう。さち子は、ただただ己れのみすぼらしさを恥じるだけでった。
そんなさち子にも、やがて化粧をする時は来た。
夏も終わりに近付いた或る日、とうとう、さち子は口紅を買ったのである。駅前のスーパーで買ったバーゲン品ではあったが、それは紛れもなく、夢にまで見た化粧品だったのである。
ときどき躓きながらも大急ぎでアパートに帰ると、テーブルの上に鏡を立てる。
一回目は完全に失敗した。二回目は少し濃すぎた。三回目、やっとの事でさち子は口紅を塗るのに成功した。鏡の中に移る自分を、さち子は不思議な気分でみつめる。そこにいるのは、さち子が知っている自分ではない。別人の様にきらびやかな、美しい大人の女性だった。さち子の知らない女性・・・・・
暫くの間、我を忘れて鏡に見入っていたさち子は、はっと気が付くと、何か見てはいけない物を見てしまったように慌てて唇の紅を落とし、鏡を片付けた。
動悸がおさまるには優に小一時間はかかったであろう。
そして、それはさち子の密かなる楽しみとなった。いや、楽しみといっていいのかどうかは微妙かもしれない。
会社から帰ると、こっそりと紅をつけ、鏡の中の別人をみつめるのである。そして、同僚の様にきらびやかな服装をし、さっそーと街を歩く自分を想像するのである。それは、おどおどと周りの目を気にしながら歩くいつもの自分ではない。自信に満ちた足取りで街を歩き、擦れ違う男たちが思わず振返ってしまうもう一人のさち子なのだ。その姿は、さち子には光って見える。
しかし、ふと我に返ると言いようのない後ろめたさや自己嫌悪を感じ、数日は口紅を封印してしまう。しかし…捨てることはできない。
その年の年末、高校の同窓会の開催通知が来た。といっても帰省しての同窓会ではなく、上京している同窓生による、都内での同窓会である。
・・・化粧しようか・・・
それは一瞬のおもいつきだった。でも、その思いつきはとてもいいことの様に思える。「化粧した自分」を誰かに見てもらう、自分を認めてもらう、それは素敵なことに違いないのだ。
(化粧しよう)
その思いつきが明確な恣意になるのには数刻とかからなかった。定期積立にしようと思っていたボーナスの一部で、化粧のノウハウを特集したファッション誌と化粧品一式を買った。化粧品はドラッグストアで購入したが、幸いなことに、化粧品売り場の専門スタッフが実際に化粧方法をレクチャーしてくれた。
そして同窓会当日。
「え? 君、さっちゃん? 綺麗になったねぇ」
「え~、さちゃんどうしちゃったのぉ? お化粧なんかしちゃって」
「あれ? さっちゃん? さっちゃんだよねぇ。全然分らなかったなぁ」
「別人みたい」
学生時代には声も掛けてくれなかった男の子たち、それが今、かわるがわるに訪れては声を掛ける。さち子は腹立たしいと共に、何か言いようの無い高揚を覚えた。
そう、今、自分は、ガラスの向うの世界でしかなかったきらびやかな世界にいるのだ。私はもう、人の姿を見て物影にかくれる可愛そうな女ではないのだ。
腹の底からのどもとに逆流する笑いの衝動。
(くっ、くくくっ)
そのとき、当時は男の子とばかり遊んでさち子には声も掛けなかった女、圭子が不意にさち子のそばに腰を下ろした。
「ねぇ、さっちゃん、今度の日曜日、あの子たちといっしょに横浜の方に遊びにいかない?」
「え? えぇ、いいわよ。・・・そうねぇ、行きましょうかぁ」
「昨日、私、プラチナのネックレス買ったんだ。今度見せたげるね」
「ぇ・・・うん、楽しみにしてるね。でも、私も持ってるのよ。プラチナのネックレスとイヤリング。プラチナのあの輝きっていいでしょう? 金なんて派手なだけでうっとおしいわよねぇ」
その日、さち子は初めて嘘をついた。