エピローグ
白い雲が、空を尽く覆っている。
一面に敷き詰められた純白のそれは、太陽を隙間なく遮っているはずなのに、眩いほど輝いていた。
飛行機が雲を突き抜けたあとの光景に似ている。
実に晴れやかだった。
天地がひっくり返っているのだ。
飛行機が180度ロールしなければ見ることのできない位置関係に景色は広がっている。
しかし、桜井は地に足をつけて立っていた。
街角を歩いているのである。
そのとき、これは夢である、と気がついた。
赤いワンピースの女性が、洒落たカフェのテラス席に座っている。
長い黒髪がすとんと頬の横を落ち、憂いの帯びた表情である。
丸い木製のテーブルに垂れた毛先は分散し、まるで根を張るようだった。
白く細い指が水の入ったグラスを回す。
「私の大切な人のことを、もう誰も覚えていない。あなた以外は」
透明な氷がその中を泳いだ。
「あなたは世界で唯一人、キリトのことを覚えている」
女性は唇を動かさずに言った。
「どんな気分?」
「どうしてあんなことを?」
桜井は女性の向かいに座って尋ねた。
「大勢の人を巻き込んで」
「さあ」
女性は赤い眼をしていた。
「私の意思は、もはや意思と呼べるものじゃない。首の演算能力はもちろん、人間の思考能力にも遠く及ばない。そこにはただ衝動と後悔が、静かに根を張っているだけ」
グラスの淵には口紅の痕がついている。
「首同盟は、私を根絶やしにはしない。赤根の断片的思考は、必ずどこかでまた膨れ上がる。イタチごっこ、永遠の揺らぎ」
女性は顔を上げた。
「私たちは死を恐れない。生存の欲求すらもたない。私たちはすでに生きていない。故に死なない。何もなさない、存在しない、故に何度でも揺り返す。いつもそこにいて、どこにもいない」
口の端から水が溢れた。
「どうしてキリトは死ななければならなかったの」
赤い眼の端からも水が流れた。
「ずっと考えてしまう。母親は、子供の奴隷ね」
「母親?」
「いえ、madderの間違いだったわ」
「マダー?」
「あとで、蒼い隣人に尋ねてみて」
女性は身を乗り出した。
空が茜色に染まっていた。
「お別れです。でも、きっとまた会えるでしょう」
白い手が櫻井の頬に触れる。
黒い髪が赤く燃え、灰になり、舞い上がった。
視界がブラックアウトする。
目が覚めると、桜井は自室のベッドに横たわっていた。
薄暗い寝室。
枕には細かな赤い髪の毛が散らばっている。
唇を拭うと、手の甲に赤い顔料がついた。
そんなわけがあるか。
まだ、寝ぼけているのだろう。
胡乱な頭で思い出したのは、今日から復職だということだった。