其の九:星をみる
戦闘開始から、三日が経った。それでも鋸は落ちなかった。
燕の将は、声をからして兵たちを叱咤し、城門を破壊させ、城壁に梯子をかけさせた。だが、それを試みようとすると、たちまち雨のような矢が燕兵に降り注いだ。
――粘りおる。
燕将は、じれ始めた。彼は楽毅ではない、若い将である。
小城だとたかをくくっていたが、いざ攻めてみると、なかなかどうして、鋸は手ごわい抵抗を見せる。
「やつらは戦意を失っていたのではなかったのか」
将は苛立った声で唸った。
このところの鋸は、にわかに息を吹き返したように、戦意に満ち満ちている。それが燕将には不思議であった。
そもそも、斉軍は既に連合軍によって、完膚なきまでに叩きのめされ、鋸に篭っているのは、その敗残兵に過ぎないはずだった。報告によれば、斉軍を率いていた将も行方がわからないという。
にもかかわらず、鋸に立てこもった兵たちは士気盛んであり、その気迫は凄まじい。そのうえ、攻めるたび、まるで雲霞のごとく敵兵が湧き出てくるような錯覚すら覚えるのであった。
燕将はぎりぎりと奥歯を噛みしめる。これでは、楽毅将軍にあわせる顔がない。
そんな若い将に、傍らの同じく若い属将が声をかける。
「作戦は順調に進んでおります。焦ることはありますまい」
「……そうだな」
将は苦い顔を少しだけ和らげた。
背後には各国の軍も控えている。部下である属将の言うとおり、焦る必要はない。
――それに……。
鋸の抵抗もあとわずかだという自信が、彼にはあった。
頭を冷やした燕の将は力押しをやめ、兵を引かせると、周囲を延々と包囲する長期戦法に切り替えた。いわゆる兵糧攻めである。
その頃、鋸では、この燕軍の変化にほっと息をついた。これまで激烈であった攻撃が、突然鳴りをひそめたのである。防備にかかりっぱなしであった兵たちは、ようやく一息つけた。
一瞬の安堵感が鋸に流れるなか、
「解せんな」
と、田氏だけは眉間にしわを寄せた。
連合軍は大軍である。そのため、兵を維持させるための糧秣は、当然、鋸よりも多く必要になる。
兵力で圧倒する連合軍であるならば、ここは力攻めに攻め、短期集中で突き破るほうが効率が良いはずだ。
――そこまで兵糧に自信があるのか。
まさか一城一城、こうしてゆったりと攻めるわけではあるまい。戦略上大した意味の無い鋸に、時間をかける意味は薄いし、兵糧攻めが数年に渡る例も決して稀ではない。
そう考えたとき、燕の総大将、楽毅が凡将ではないと見抜いている田氏には、不可解で仕方ない。その裏には、何かとてつもない意味が隠されている気がしてならないのである。
――考えられるのは、楚か。
と思ったが、すぐにその考えは捨てた。
すなわち、この連合軍に加わっていない楚を動かし、にわかに南から斉を攻めさせるつもりではないか、と疑ったのである。
しかし、これが成立しない、と気付いたのは、連合軍に秦が加わっているためである。楚は、秦に散々に攻められている最中なのだ。音に聞こえた、白起という名将が秦にいる。かれが、楚の西方を次々に侵略している所で、秦と楚は今、交戦状態にあった。
だから楚は、この連合軍に加担することは絶対にない。
「では……」
と、田氏は城外を眺めた。
これまでの激戦が嘘であったかのように、敵陣は不気味に静まり返っているだけである。そして、夜になっても状況は動かなかった。
辺りはすでに漆黒の闇に沈み、天には星が瞬いている。
――どういうつもりなのだろうか。
いつ戦闘が再開されるとも分からないため、ずっと防備に付いたままの田氏は、その答えを敵陣に求めるように、じっと闇を睨んだ。
そうしていると、ふと、背後に気配を感じた。
「東に異変があるな」
ふりかえると、李平が城壁を登ってきているところであった。
目は、爛々と光る星空に向けられている。
「汝は大量の兵を蘇らせるだけでなく、星も見るのか」
田氏はふっと笑顔になった。
李平は問いには答えず、田氏の隣に並んでも、まだ星を見つめていた。田氏の言う、星を見る、とは占星術のことである。
李平は既に鋸の一部では名が知られ始めていた。田氏は、鈴からだけではなく、兵からも神医あり、との噂を何度も聞いている。この前などは、李平は一晩にして、ほとんどの負傷兵を全快に近い状態にまで快復させた、との話も耳に入っており、その時に治療された兵士が、田氏の部隊にも何人も戻ってきていた。
そうした奇跡を傍らに感じてきた田氏にとって、李平が占星術を行うという事が、やけに腑に落ちるところがあって、妙な可笑しさを感じた。
ところで占星術は、時代から見れば、比較的新しい占いであった。古くは亀の甲羅を焼いて、そのひび割れ方で占う『卜』で重大な国事を見ていたことがあったが、この時代では既に廃れてしまっている。
ふと、李平は東の空を指差した。
田氏はその指先の方向へ目を転じる。
「東の巨星の勢いが急速に弱まっている。位置から言えば……」
「どこだ?」
「斉都だ」
そこでやっと李平は田氏の顔を見た。
嫌な予感に、田氏の顔が歪む。
「斉都で異変があるというのか」
「あるいは」
「そうか」
平然として言う李平に、田氏は沈んだ声で答えた。