其の八:開戦
言うまでもない事だが、鈴は腰を抜かすほど驚いた。
夜明けになってみると、家の前に立派な馬車が用意されていたのである。
鈴が見た事も無いほどに大きく、作りは見るからに頑丈そうで、幌までついている。もちろん、車だけでなく、いかにも精悍そうな馬が二頭も繋ぎとめられていた。
「これは、戦車?」
鈴は斉の軍を遠くから見た事が何度もある。その時に見た戦車とそっくりなものが、目の前にあるのである。
李平は何食わぬ顔をして、馬の鼻面を撫でていた。
「ほう、鈴どの、よくご存知だな」
戦車とは二頭の馬を走らせ、一人の御者と、二人の兵が乗る三人乗りである。後部に立つ兵は戈や、弩を装備して敵兵と戦う。戦争においては主力と言ってよく、当然ながら、庶民が手に入れられるような代物ではない。そのうえ、目の前にある戦車は、貴人が乗るかのような豪華なつくりであるから、鈴の驚きもひときわ大きなものであった。
「こ、これを、どこで?」
と、恐る恐る聞く鈴に、李平は、
「燕軍の陣から盗んできたのだ」
と真面目な顔をして言い、他のものに見られては面倒だ、と狭い家の中に入れたのだった。
そんな事があったため、鈴は慌てて兄の元へ急ぎ、朝の出来事を話した。
さすがに田氏も顔色を変え、
「誰にも見られておらぬだろうな」
と聞いた。
早朝の、ましてや邑のはずれの出来事であるから、人通りは少ない。だが、誰一人として見ていないか、と問われれば、鈴も自信がない。
そう答えると、田氏は、そうか、とだけ言い残し、持ち場に戻っていった。
――まさか、この邑で盗んできたわけではあるまいが……。
余計な疑いを持たれては後々厄介である。李平は鋸に永く住んでいる者ではないため、無罪を主張した所で、信じてもらえるかどうかは、はなはだ疑問である。
だが、そうした田氏の心配は杞憂に終わりそうだと、すぐに判った。
燕軍がついに鋸を包囲し、それどころでは無くなったのである。
人々が暮らす邑は、四方を城壁に守られているつくりになっていて、その壁の内側で人々は暮らす。基本的に邑は城砦都市になっていると思えば良い。鋸もまた、そうした城塞都市の例にもれず、小さいながらも、城壁を有している。
今、鋸の邑はその城壁の周りを、ぐるりと燕軍に取り囲まれた。さらにその後方には連合軍がいる。
「見渡す限り、敵兵か」
城壁の防衛についている田氏は、そう呟いた。地面など見えず、すべて敵の兵で埋め尽くされている様は、異様を通り越して壮観ですらあった。いよいよ、李平の言ったとおりになってきた、と田氏は背筋に冷たいものを感じた。
攻城戦は、まず攻める側からの降伏勧告の使者が立てられる。当然これは便宜上の事であって、鋸としてもやはりその申し出は突っぱねた。
使者の往来が終わると、いよいよ開戦である。
攻撃開始の指令である不気味な鼓の音が燕軍から鳴り響き、同時に耳をつんざく敵兵の声があがった。その音で、地面が揺れた。
「いよいよ来るか」
田氏は弓を手にした。
城攻めは、城門の攻防である。門を破られれば、当然そこから敵兵が侵入し、そうなれば、もう戦況を覆すことは不可能であり、事実上の敗北であった。
鋸の城門は、蟻の大群のように押し寄せる敵兵に激しく攻め立てられた。
鋸の兵も負けじと城壁の上から懸命に矢を射出し、石を投げつけた。鋸に逃げ込んでいた斉兵も、もちろんこれに加わった。
鋸の抵抗が思いのほか強かったのであろう。やがて、燕陣から再び鼓が鳴ると、すばやく燕の兵は引いた。後には燕兵の死骸だけが残った。
――ひとまずは退けたか。
田氏は、ふう、と息をついたが、次に城外に目を移したときには、燕兵の第二波が押し寄せてくるところであった。
「はじまったようだ」
李平は負傷兵への治療の手を止めずにそう言った。
敵兵の喚声は耳を塞いでも聞こえるほどである。李平の側で助手をしている鈴も、不安げな表情で、気が気では無い様子だ。
「まあ、一日や二日では落ちはせん。だが、もって……」
と李平はここまで言いかけて、恐い目で睨む鈴に気付き、言葉を続けるのをやめた。
周りには負傷しているとは言え、兵たちが大勢いるのである。李平の言うことを聞けば、士気に関わるかもしれない。
だが、士気と言うのであれば、李平の存在は、もう無視できない存在になっている。
――すごい名医がいる。
と、密かに兵の間では噂になっていた。
これは命がけで戦う兵にとっては非常に心強い。李平の手にかかれば、少々の傷では死ぬことはない、と兵たちは信じ、大いに安心感を持った。
それに加えて、李平の体力はまるで底なしであった。朝暗いうちから、夜遅くまで、休むことなく治療を行っている。よほどの重傷の者を除けば、ここにいたかなりの数の兵が既に戦線に復帰していた。
とは言え、鋸が戦場になるやいなや、負傷兵が次々に李平の元に運ばれてくる。
そのため、治療しても治療しても、傷ついた兵士たちは増えていく一方になった。それでも李平は手を休める事はない。
懸命に補佐をしようとする鈴も、李平を見る目に、徐々に変化が生じてきた。
――兄が言った、斉を救う人、というのは本当なのかも知れない。
そう思わずにはいられないくらい、李平は次々に負傷兵をさばいていき、傷のふさがった兵士は戦線に戻っていく。
そのうえ、どこからとも無く持ってきた戦車の一件もある。鈴は不思議な出来事に内心で腑に落ちないながらも、急いで飼葉を買いに行き、とりあえず馬に与えておいた。昼には戻って馬の様子を見なくてはならないだろう。
鈴は、ここまでの奇跡に触れると、
――鋸は落ちる。
という彼の言葉が、不吉な予言のように、常に脳裏にまとわり付くようになった。
李平は懸命に兵の治療にあたっているが、果たして、治療された兵の何割が生き残るのであろうか。もしかしたら、李平にはそれがいずれ無意味なことになると判っているのかも知れない。もしそうなら、兵士たちの生を僅かばかり永らえさせることに、どんな意味を見出しているのだろうか。
残念ながら鈴には、李平の無表情な顔からは、それを読み取ることはできなかった。
鈴の不安は現実のものとなろうとしていた。
この日、夜まで断続的に燕の攻撃は続き、ついに担がれてくる兵士の数は、それまで戦線に戻してきた兵士の数を上回った。治療はまるで追いつかず、みるみる地面に負傷兵が満ちた。燕の攻勢が止む頃には、むしろも足らず、直接地面に寝かされている者が大勢出てくる有様だった。
「李子さま。どうしましょう」
既に夜更けである。
治療が追いつかず、精魂尽きた鈴は、傍らの李平に聞いた。それでも鈴にとって幸いなのは、兄である田氏と、婚約者である武官がまだ運び込まれていない、という事だ。
さすがの李平も、かがり火に光る額の汗を拭い、息を吐いた。
「確かに、これではきりが無い。もう少し鋸は持つかと思ったが、なかなか燕の将は優れているようだ」
そう他人事のように言った。
もう鈴はそれに腹を立てるような余裕は残っていない。
「鈴どのは、もう休まれよ。後は私がどうにかしよう」
既に深夜に差し掛かっている。鈴の他に治療を補佐する者は全員帰宅してしまっており、この場に残っているのは李平と鈴の二人だけであった。邑の外は不気味なまでに静まり返っていて、昼間の怒号がまるで嘘のようである。だが、嘘ではないというのは、累々と横たわる兵士を見れば瞭然であった。
「李子さまも、休まれませんと」
鈴は李平が家に戻って眠っている姿を見ていない。日中にあれだけ精力的に働いているのだから、本来なら体力の限界であるはずだ。
「私はいい」
それだけ言うと、李平は強引に、鈴を家に帰したのだった。
――さて、と。
誰も居なくなった、邑のはずれ。
李平は改めて辺りを見回した。こうしている間にも、重傷者は次々に息を引き取っていくのが判る。命が消える静かな音が、李平の耳に聞こえてくるかのようであった。
李平は、おもむろに懐から紙を取り出すと、それをびりびりと破り、丸めて、口の中に放り込む。それから首を回すと、口に含んだ紙を吐息で吹き飛ばした。
「ふっ」
四方に散った紙吹雪が舞ったかに見えたその時。
紙片が、むくむくと動き出すと、それぞれが人の形をとり、たちまち、数十人の李平の姿となって地面に着地した。
「さあ、これだけの数だ。夜明けまで時間がないぞ」
中央に立つ本来の李平が、そう言ってぽんぽんと手を打った。
それを合図とばかりに、数十人の李平は、足元の兵士たちに、音もなく治療を開始したのであった。