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其の七:楽毅の馬車

 

 田氏は学はあるが、役人としての位は低い。

 兄妹二人が食べていくのに困ることはないが、貯えなど、無いに等しい。

 それであるのに、馬車を買えとは。


――そんな高いもの、どうやって買えばいいのかしら。


 兄に言われ、思わず頷いたものの、鈴は途方にくれていた。

 家にあるものと言えば、田氏が大切にしている書物くらいしかない。

 だが、近く戦場に放り込まれるであろうこの鋸で、書物を買ってくれる者など、よほどの酔狂者だろう。

 

「酔狂者……」


 鈴は思わず呟いた。

 無表情で無神経な顔が思い浮かぶ。

 風体からして李平からは金のにおいなどまったくしない。

 しかし鈴は、李平ならどうにかしてくれそうな気がした。なにより奇跡的な医術を、幾度も目の当たりにしているのである。

 もしかしたら、馬車に関しても、何か奇跡を起こしてくれそうな、淡い期待があった。もっと正確に言えば、ほかに何の手立ても浮かばなかった。

 鈴は、李平の治療の手伝いを抜け出してきているので、どのみち、これから李平の元に戻らなければならない。

 

――李子さまに相談してみよう。


 そうと思い立った鈴は、足早に邑の外れに向かった。


 鈴が見つけた李平は、ちょうど一人の兵士の治療を終えて次に取りかかろうとする合間にあった。

 鈴はすばやく近寄ると、田氏の言ったことを打ち明けた。


「田氏はようやく私の言を聞き入れたようだ」


 鈴の話を聞いた李平は、特に顔色も変えずにそう言ったが、鈴にはどことなく李平が喜んでいるように見えた。

 もしかしたら、李平は感情が顔に出にくい人なのだろうか、と鈴は頭のどこかで考えながら、李平の答えを待つ。


「よろしい。とっておきの馬車を用意しよう。明日の朝には手に入る」


 何事もなく李平は言い切ると、喜ぶ鈴には目もくれず、次の負傷兵の治療へ取り掛かった。


 その夜は月のない闇夜であった。

 鋸の邑から程近い所。そこに燕軍をはじめとした連合軍が駐留していた。

 陣には寸分の乱れもなく、万一の斉の夜襲の備えは万全であるところを見るに、率いている将が凡将でない事がはっきりと判る。

 その陣の中心部に、総大将、楽毅の帷幄があった。


「明朝」


 楽毅は多弁を好まない。各国の諸将に短くそれだけ言った。

 その容貌と同じく、重々しい声である。

 諸将はそれだけで、意味を汲み取った。鋸に明日総攻撃をかける、という意味である。

 用心深い楽毅は、鋸に逃げ込んだ斉軍が息を吹き返し、反撃をかけてくることを懸念し、しばらく様子を見ていたのだった。

 本来、城攻めは守るより難しい。

 そのため、邑内の兵がいまだ健在だとすれば、抵抗は頑強になり、連合軍は思わぬ被害をこうむってしまう。

 時間をかけて鋸の様子を見るに、どうやら斉兵の士気は完全にくじかれている、と楽毅は判断したのだった。

 なお、その間に斉都から援軍がやって来ないという事は、大量に放った偵騎の報告で、しっかりと把握していた。

 明朝に鋸を攻める、という楽毅の命を聞いた諸将は、各々の幕舎へ戻って行った。明日の総攻撃の準備に取り掛かるのである。

 と、にわかに楽毅の帷幄の周りが騒がしくなった。

 楽毅は周りの者に、


「なんだ」


 と聞いた。確認のために幕舎を飛び出していった者が、すぐに御者を伴って戻ってきた。

 連れてこられた御者は顔面蒼白である。


「……将軍の馬車が消えました。馬も」


 青い顔で、何とかそれだけ言った。死すら覚悟しているであろう。

 

「詳しく申せ」


 と楽毅は聞いたが、御者は訳が判らないと言った風にかぶりを振り、


「突然に消えたのです」


 と言った。

 その場には、


――なんと言う言い逃れを吐くのか。


 という空気が流れた。蟻の這い入る隙もない陣中で、馬車が突然消える訳がない。

 だが楽毅は顔色を変えず、御者を赦し、かえってその場に居た属将を叱った。


「警備が足りぬ」


 短い言葉だが、属将を震え上がらせるには充分であった。

 楽毅の重厚な圧力に押されたように、将たちは半歩ほど後ずさると、警備兵を増員させるべく、幕舎を飛び出していった。

 そうしてから楽毅は、縮み上がっている御者の肩に手を置き、


「明日の御は頼む。時は無いが駿馬を揃えよ」


 と、優しい声をかけた。

 過失があったにせよ、御者を変える気はない、という事である。

 御者は飛び上がらんばかりに喜び、涙を流して楽毅に感謝すると、ただちに駿馬を集めるべく幕舎を後にした。

 ひとり残った楽毅は、眉を寄せると、小さく息を吐いた。

 後に名将として名を馳せ、三国時代の諸葛亮が理想と崇めた楽毅であるが、この小事が妙に気に掛かり、言い知れない不安を抱いたのであった。


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